『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ:著、土屋政雄:訳/早川書房)

イギリス人の作家カズオ・イシグロが2017年のノーベル文学賞を受賞した。本人もまったく予想しておらず、最初は間違いだと思ったそうで、BBCから電話があって初めて本当だと信じたと語っていた。

その受賞がイシグロの近著『忘れられた巨人』文庫化のタイミングと重なり、邦訳権を持つ早川書房はなんと発売日を異例の前倒し、さらに旧作を含め100万部を超える大増刷を行ったという。

(さらにはノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のリチャード・セイラー教授の著書『行動経済学の逆襲』の邦訳版とノーベル物理学賞を受賞したライナー・ワイス、キップ・ソーン、バリー・バリッシュの3氏から取材しまとめられたノンフィクション『重力波は歌う』の邦訳版も早川書房から出ているという椿事もあった)

イシグロは寡作な作家だ。『忘れられた巨人』(土屋政雄:訳)は2015年に出版されたが、前作の『わたしを離さないで』から10年ぶりとなる長編小説だった。

1982年の作家デビュー以来、『忘れられた巨人』を含め7つの長編と短編集1作(すべてハヤカワepi文庫所収)があり、これ以外にもいくつかの短篇、そして脚本、歌詞も手がけていて、イシグロがファンというジャズ・シンガー、ステイシー・ケントのニューアルバム『アイ・ノウ・アイ・ドリーム』に収録されている「バレット・トレイン(新幹線)」と「チェンジング・ライツ」の2曲で作詞を担当しているそうなので、ファンの方はぜひこちらもチェックしてもらいたい。

以下、イシグロ作品をご紹介しよう(カッコ内は訳者と出版された年)。

■『遠い山なみの光』(小野寺健:訳/1982年)

娘を自殺で亡くしたイギリス在住の日系女性が、長崎での昔日を振り返るイシグロのデビュー作。

■『浮世の画家』(飛田茂雄:訳/1986年)

日本を舞台に、戦時中に戦意高揚に協力した画家が、価値観が一変した戦後に人生を回想する。

■『日の名残り』(土屋政雄:訳/1989年)

老執事が旅先で変わりゆく外の世界に触れ、古き良き時代へと思いを馳せるブッカー賞受賞作。

■『充たされざる者』(古賀林幸:訳/1995年)

ピアニストが演奏で訪れた町で体験する不条理な出来事を描く、約1000ページのシュールな作品。

■『わたしたちが孤児だったころ』(入江真佐子:訳/2000年)

租界だった上海で孤児となった男がイギリスに帰国後に探偵となり、失踪した両親の行方を探す。

■『わたしを離さないで』(土屋政雄:訳/2005年)

映画、ドラマ、舞台化もされた、奇妙な施設で育った若者たちを襲う過酷な運命が胸を打つ物語。

■『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』(土屋政雄:訳/2009年)

イシグロ自身も志したことのあるミュージシャンにまつわる5つの物語が織りなす連作短編集。

そして文庫化された『忘れられた巨人』は、現在イングランドと呼ばれる場所が舞台だ。時代はブリトン人の君主アーサー王が亡くなった後、というから6世紀頃だろう。

物語はブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスが、息子に会うため旅に出るところから始まる。

鬼が棲み、深い霧の立ち込める古の世界は人々の記憶が長く持たない奇妙な場所であり、過酷な旅を続ける老夫婦は様々な人と出会いながら、やがて問題の核心に迫っていく。

『忘れられた巨人』の原題は“The Buried Giant”で「Bury」には埋める、隠す、埋葬する、葬式をする、忘れる、などの意味がある。

深く埋められ、人々から忘れられた“巨人”とは何なのか?読者がその本当の意味を知ったとき、巨人は現代まで続く、人類が抱える「記憶」の問題として立ち上がってくる。

どう巨人と対峙するのか、そしてどう折り合いをつけるのか――不寛容な時代に生きる、内向きになりがちな現代人に突きつけられる問題はあまりにも大きい。

ノーベル文学賞の選考を行ったスウェーデン・アカデミーは、受賞理由として「偉大な感性を持つ小説によって、世界とつながる幻想的な感覚に潜む深淵を明らかにした(who, in novels of great emotional force, has uncovered the abyss beneath our illusory sense of connection with the world.)」と発表した。

ノーベル文学賞を受賞した作家の作品は難解なイメージがあるが、イシグロの文章は平易でありながら、「記憶」をテーマとした奥深い世界が広がっている。

これを機に、ぜひともイシグロの作品世界に触れてみてほしい。必ずや圧倒的読書体験になる、と断言しておこう。

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