「正しいマナー」というのは、じつに厄介です。

一般的に「それはマナー違反」とされていても、ついやってしまっている相手をバカにしたり、鬼の首を取ったみたいに得意気に指摘したりするのは、それはそれでけっこうみっともないマナー違反と言えるでしょう。

そもそも何が「正しいマナー」なのかは、顔ぶれや状況によって変わります。

だからこそ、というか、それだけにというか、誰かが目の前でやり始めると激しくモヤモヤしてしまうのが、自分の箸を上下逆に持ち直して大皿の料理を取る「逆さ箸」と、食べ物屋さんで食べ終わった食器を重ねる行為です。

「モヤモヤしてないで、それはマナー違反だと指摘してあげればいいんじゃないの」とおっしゃる人もいるかもしれませんが、シンプルにそう考えられる人がうらやましい。…いや、うらやましくはないか。

そうなんです。科学的に見れば口より手のほうがよっぽど汚いという理由もあって、21世紀の日本において「逆さ箸」は、すっかり「マナー違反」になりました。

お店でも家庭でも、取り分ける必要があるときには「取り箸を使う」のがマナーで、メンバーの関係的にそれは水臭いという場合は「直箸のほうがマシ」とされています。

食べ終わった食器を重ねる行為も、「食器やテーブルに傷がつく」「汚れがいろんなところについてかえってお店に迷惑」ということで、回転寿司を除くたいていの場合は「マナー違反」です。

元々は、お高くて繊細な食器を使っている高級料亭やフルコースを食べるような高級レストランで言われていたマナーでしたが、いつの間にか、ファミレスや居酒屋でも「食器は重ねるのはお行儀が悪い行為」という考え方が定着しました。

自分自身は、周囲から「あっ、こいつマナーを知らないな」と思われるのが怖いので、「逆さ箸」や食器を重ねることはしません。

いや、それはいいんですけど、たとえば自宅に親戚のおばさんが来てご飯を食べているときに、その人がテーブルの上のお漬物を「逆さ箸」で取っているとか、ちょっと小粋な居酒屋に女性を誘ってお酒を飲んでいたら、彼女が食べ終わった厚揚げのお皿の上に二人分の空のお通しの小鉢を並べてのせたとか、そういうときは激しくモヤモヤしつつ悩んでしまいます。

「逆さ箸をする人」や「食器を重ねる人」は、ほとんどの場合、ちょっと得意気です。「ほら、私ってマナーがいいでしょ」「ほら、私ってよく気が利くでしょ」という心の声が聞こえてくるのは、たぶん気のせいではないでしょう。

そんな相手に対して「それって、本当はマナー違反なんですよ」と指摘する勇気はありません。

ムッとされるリスクを冒したくないだけでなく、言ってみれば「どっちでもいいこと」をわざわざ指摘して結果的に偉そうな顔をするのは、なんか違う気がします。

もちろん、自分の子どもとか若い姪や甥とか部下とか、相手のために教えてあげたほうがいい場合はちゃんと言いますが、はるかに年上の親戚のおばさんにわざわざ「それはやめたほうがいいですよ」と言うのは大きなお世話かな、と。

マナーの“常識”なんて、しょせん時代によってコロコロ変わる程度の曖昧なもの。

たまたま知ったに過ぎない「正しさ」を振りかざすのは、まるで狭い常識に縛られて「コシのないうどんなんてうどんじゃない!」と伊勢うどんを否定するのと同じで、極めて恥ずかしい行為かもしれません。

世の中にはいろんなうどんがあって、どれも正しい存在であるように、時と場合によって「正しいマナー」は変わります。

そうか、なるほど。正直に言って、今までは「逆さ箸をする人」や「食器を重ねる人」のことを「気持ちをモヤモヤさせる厄介な存在」と思っていました。もしかしたら、あなたもそうだったかもしれません。しかし、この記事を書くことで気づきました。

その人たちは、こちらの気持ちをモヤモヤさせることで、マナーの本質とは何か、正しさとは何かを考えさせてくれているのです。

これからは、モヤモヤするだけでなく、感謝の気持ちでそっと見つめさせてください。ま、たまに考えさせてもらえたら十分ですけど。

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