激動の昭和の時代から、現代に残したい学びを探るコーナー「昭和土産ばなし」

昭和を語る上で、避けて通ることはできないテーマのひとつ、戦争。戦争のことは誰もが知っていると思いますが、「戦災孤児」について知っている人は少ないのではないでしょうか?

戦中・戦後の日本には、両親を失くした戦災孤児と呼ばれる子供たちがあふれました。頼れる大人のいない彼らは、物乞いなどをして生きていくしかなく、窃盗や身売りなど犯罪に手を染める子も多くいました。

今回は戦災孤児を通じて、戦争の悲惨さについて改めて考えてみたいと思います。

戦災孤児はなぜ生まれたのか?

1942年、米軍による激しい空襲が日本各地で開始されました。空襲をのがれるために地方へ疎開していた子供たちは助かりましたが…

学童疎開が大規模に推し進められた結果、子どもが疎開中に、都市部に残った親が空襲で亡くなり、子どもは孤児になるというケースが大量に生じたのである。

出典『戦争孤児 「駅の子」たちの思い』本庄豊著(新日本出版社)

こうして両親に先立たれ、多くの孤児が生まれました。当時小学生であった金田茉莉さんは、疎開先から帰って来た時のことを次のように述懐しています。

上野駅に着きますと、密集していた家々のすべてが地上から消え、見渡す限りの焼け野原がどこまでも続いていました。

(中略)焼け野原には黒焦げになった死体が至る所に転がっていました。9歳の私の頭は真っ白になり、母たちの無事だけを念じましたが、母と姉妹はこの空襲で殺され、私一人だけが取り残されました。

出典『市民の意見 No.140』

ようやく疎開から戻ってきたと思ったら、母親も妹もいない。挙げ句の果てに一面焼け野原で家も見当たらない…。考えられる限り最悪の状況に、涙も出ず、ただ立ちすくむしかできなかったのではないでしょうか。

駅に集まる戦災孤児たち

両親を失った彼らが生活場所として選んだのは駅でした。

当時の上野駅の様子がわかるエピソードを、石井光太さんの『浮浪児1945 戦争が生んだ子供たち』(新潮社)という書籍の中から見てみましょう。

夜中にトイレに行きたくなっても、何十人もの人たちをまたいで行くのが面倒だし、一度外へ出てしまったら寝場所を奪われかねない。だから地下道の壁に小便を引っかけてまた眠るんだ、数十人、数百人が毎晩そんなことをするもんだからものすごい臭いになる。

出典『浮浪児1945 戦争が生んだ子供たち』石井光太著(新潮社)

出典『浮浪児1945 戦争が生んだ子供たち』石井光太著(新潮社)

住む場所のない孤児たちは、このような劣悪な環境の中で生活をするしかありませんでした。不衛生な場所で生活していた孤児たちは人から疎まれるような身なりになり、「野良犬」や「ばいきんの塊」と罵倒されることも多かったそうです。

悲惨な死を遂げる戦災孤児たち

食糧難だった当時、特に幼い子ほど食料を手に入れることができず、悲惨な死を遂げることが多かったそうです。

グループに洋一っていう子がいてね、(中略)ものすごく衰弱していていつ倒れてもおかしくない状態だった。ある日、洋一が突然、道端に落ちている犬の糞を拾って来て口に入れたかと思うとクチャクチャと食べ始めたんだ。(中略)やがて、洋一はぜんぶ糞を食べ終えてしまうと、口から茶色い泡をブクブクと出して倒れてしまった。

出典『浮浪児1945 戦争が生んだ子供たち』石井光太著(新潮社)

このような例は、当時の日本では珍しくありませんでした。

次に紹介するのは、養子に入った弟を見舞いに行った姉の体験談です。両親を失った孤児たちの中には親戚に引き取られる子供たちも多くいました。そのような孤児たちは、労働力として酷使され、死亡する例が後を絶たなかったそうです。

3人は別々の親戚へ預けられた。私は叔母宅へいき、学校へは通わせてもらえず、海水から塩をとる作業をさせられた。昼は山へいき薪を背負い海岸へ運び、夜は薪を一晩中燃やしつづける、昼夜別なく働いた。9歳では重労働だった。

(中略)2年後、弟の具合が悪いと叔父から呼ばれた。いってみると弟はやせ細り、馬小屋に寝かされ、うどんのような回虫を吐き「おかあちゃん」と呼びながら死んだ。

出典HP「戦災孤児(日本)」戦争孤児の会 金田茉莉(http://www16.plala.or.jp/senso-koji/)

限界まで働かされ、家畜小屋で短い生涯を終えた孤児はどんな気持ちだったでしょうか…。

戦災孤児として生きてきた半生 、楽しかったことなどほとんどなかった

出典写真提供:山田清一郎

※中学2年生の山田清一郎さん(真ん中)

それでは、実際に孤児として戦中・戦後の体験をした山田清一郎さんにお話を伺います。

山田さんは、幼いころに空襲で母親を亡くし戦災孤児になってしまいました。現在は、戦災孤児としての経験を伝えるため、書籍の執筆や講演活動などを行っています。

——山田さんが被災された場所を教えてください?

山田さん(以下、山田):
わたしは兵庫県で空襲にあい、母親を亡くしました。父親は以前に病死していましたので、身寄りのない孤児となりました。

——食料はどうやって確保しましたか?

山田:誰も分けてくれないし、道にも落ちていませんでしたので、仕方なく人の物や、店から盗んでいました。

——当時、街にいる孤児たちを強制的に孤児院へ収容するための「刈り込み」(※)が行われていたと聞きました。「刈り込み」に合うと、どんな目にあわされるのですか?

山田:裸にされて、檻に入れられます。笑いながら、職員に「一匹、二匹」と数えられ、「野良犬」や「ばいきんの塊」などと罵倒されながら冬にも関わらず水で体を洗われます。

※ 「刈り込み」とは、孤児を施設に強制収容するための政策。当時は、窃盗や恐喝などの犯罪に手をそめる孤児も多く、不良化した孤児を矯正する意味もあった。

——孤児院はどのような場所でしたか?

山田:孤児たちがたくさん収容された、狭い場所でした。毎日辛い畑仕事をさせられます。職員から殴る蹴るなどの暴力を日常的に振るわれるので、脱走する子も多かったです。食料が不足していたので、栄養失調で死ぬ子もいました。

——小学校へ入学されたとお伺いしました。

山田:ばいきんの塊だから、野良犬だから、孤児は学校に入れるなと村の人たちから大反対をうけました。ようやく学校に行けるようになったのは小学校6年生からでした。

——学校での生活はどうでしたか?

山田:入学できてとても嬉しかったです。しかし、私たちに用意されていた教室は他の生徒とは隔離された小さな物置でした。黒板と机しかない小さな部屋で、黒板には「犬小屋」と書かれていました。先生も生徒も私たちをあたたかく迎えようとはしませんでした。

——定時制高校に通っていた頃はどのような生活を送っていましたか?

山田:バイトは30個以上掛け持ちして、仕事の合間を縫って学校へ通っていました。身分証明書がないせいで、住む場所を追い出されたこともあります。明日の生活が見えず、死にたくなることもありました。しかし、死んだ友人や母を思い出すと、絶対に生き抜いてやろうという気持ちが湧き上がってきました。

——忘れられない出来事はありますか?

山田:少年時代の友人であるアキラのこと。トマトを盗んで一緒に逃げていたところ、アメリカ軍のジープに引かれて死んでしまいました。流れ出した血の中で、トマトがぴくぴくと動いていました。それが、まるでアキラの心臓のように見えました。アキラのことを思い出すので、未だにトマトを食べられません。

——戦争を知らない世代に向けて、伝えたいことはありますか?

山田:戦争が突然起きるということはない。今度戦争が起きたら、国民人一人のみんなの責任。政治や国の動きをよく見ていることが大切だと思います。


戦災孤児であった方々の中には、差別されることを恐れて、未だに孤児であった過去を隠す人もいるそうです。そんな中、山田さんは『焼け跡の子どもたち』(クリエイティブ21)という本の表紙写真を見て、まるで自分を見ているかのような気持ちになり、語ることを決意したそうです。

出典『焼け跡の子どもたち』戦争孤児を記録する会(クリエイティブ21)

山田さんを語ることへと駆り立てたのは、「自分が語らなければ」という使命感のようなものだったのかもしれません。

戦争体験者の方々の話を聞き、一人ひとりが戦争の悲惨さを実感することが、平和な世の中をつくる第一歩になるのかもしれませんね。

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