『不寛容の本質 なぜ若者を理解できないのか、なぜ年長者を許せないのか(経済界新書)』(西田亮介/経済界)

現代社会では何かと人の不寛容さが招くトラブルが多いと思われる。

例えば、デパートのエレベーターで“車椅子・ベビーカー優先”と書かれているのに誰も譲ろうとしなかったり、電車の優先席に妊婦が座ろうとしているのにダッシュで割り込んで席を取ってしまったり、些細な事で店員に怒鳴る人が居たり…これらの問題に対してしばしば使われるのが「心が狭い」…つまり不寛容という言葉である。

社会の寛容・不寛容に着目した番組や企画はまま行われ、その中で行われたアンケートでは「心にゆとりを持ちにくい社会だ」「自分と意見や立場が異なる人を求めない不寛容な社会だ」などの意見が多数派となっている。

このような現代社会の不寛容さに目を向け、なぜ人は寛容になれないのかを考えたのが『不寛容の本質 なぜ若者を理解できないのか、なぜ年長者を許せないのか(経済界新書)』(西田亮介/経済界)である。

人を批判する際の言葉の中でも「最近の若者は…」とはよく聞くフレーズだろう。

だがひとつひとつの事例に目を向けてみれば、不寛容なふるまいを行っているのは何も若者に限らないし、中には明らかに老人など年配者に対して「最近の老人は…」と言いたくなるような事例も多くある。

それはある意味当然の事で、若者と年配者で人を二分すれば(双方の境界線をどこに引くかにもよるが)明らかに年配者の方がマジョリティになるのだ。

若者より年配者の方が総数が多いのだから、目に付くような事例も統計的に年配者が当事者となりやすいのである。わかりやすく昭和生まれと平成生まれで考えれば、昭和に生まれた人の方が多いのである。

昭和が終わって30年近くが経とうとする現在になって尚昭和の価値観が一部で根強く残っている理由のひとつはこれではないだろか。

昭和時代が終わっても、その時代の教育で育った人がいまだ社会におけるマジョリティとして君臨しているため、前時代の価値観がまかり通ってしまう状況が場合によってありうるのだ。

しかし、当然ながら現代社会は昭和時代のそれとは大分事情が変わっている。教育のあり方や働き方・人生モデルなどは元より、社会情勢そのものも大きく違う。

今の若者にバブル期の話をしたとしても、彼等はきっとそれをどこか遠い世界の話のようにしか受け取れないだろう。

ここでまず、昭和世代と平成世代のギャップが見られる。もうすでに昭和の時代ではない、と言えば誰もが頷くだろうが、頭ではわかっていても育った環境や時代の影響はいつまでも残り続けるのだ。

昭和の頃と比べて大きく変わりつつある今の時代に生まれ育った若者たちと、すでに過ぎ去った時代の価値観をどこかで持ち続けている年配者たち…若者と老人の対立の理由のひとつはこれではないだろうか。

さて、若者目線から昭和の人を語る場合、往々にしてマイナスな意見が多くなる。だが一方で「昔は良かった」「昭和の頃はこんなじゃなかったんだろう」などある種の羨望を込めて語られる場合もある。

こういう時、若者の心に何があるかと言えば、昭和の時代にあって今の時代にはないとされるもの…すなわち“安定”へのあこがれである。

昭和の時代では、男女不平等や社会格差などの問題は孕みつつもある程度の人生モデルが確立しており、こういう経歴を持っていればこの進路に進めるなどといった予見可能性もあり、そこにはある種の安定感があった。

片や現代社会は、高学歴だろうが失敗する時は失敗するし、そもそも「これくらいやっていれば大丈夫」というラインが見えづらい。生き方が多様性を帯びてくるにつれ、典型的な人生モデルが立てにくくなってきているのだ。

そのため、これからの時代を生きていく者の中には暗中模索にならざるを得ない者も居る。そういう人にとって、昭和時代の安定した人生モデルがあこがれの的になる事は頷けるだろう。

そして、年長世代にしても若年世代が持つ若さへのあこがれがないわけではないだろう。年長世代と若年世代は、お互いに価値観のギャップと共にある種の羨望を持っている。

若者と年配者がお互いのあり方に不寛容になってしまう理由は、異なる時代の価値観は理解できないという事と同じほどに、自分にないものを持っているという無意識のあこがれと嫉妬にも似た感情がそこにはあるのかもしれない。

権利侵害申告はこちら