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『宇多田ヒカル論』(毎日新聞出版)

男らしくない男を自称する杉田俊介さんとまくねがおさんが「男らしさ」について模索する対談連載「男らしくない男たちの当事者研究」。

男たちは自分の弱さを語る言葉を持ち合わせていないのではないか、もっと自分への理解を深めなければいけないのではないか、そんな問題意識からこの連載は始まりました。

前回まで複数回にわたって、近年の「男性論ルネッサンス」の検証として3冊の本を読み勧めてきたおふたり。

今回は、今年1月に上梓された杉田さんの『宇多田ヒカル論』を取り上げます。宇多田ヒカルが歌う様々な「愛」をヒントに、単一で平板な人間関係から脱却する可能性を語り合っていただきました。

人間は他人を一回しか愛せないのか?

杉田 さて「男らしくない男たちの当事者研究」第五回目です。今回は、僕が1月30日に刊行した『宇多田ヒカル論』(毎日新聞出版)を取り上げることにしました。

この本は男性問題をモチーフにした本としても読むことができると思っていて、まくさんのご感想を聞いてみたかったんです。

まく 僕も、この本と男性問題を絡めて、ぜひ杉田さんとお話ししたいと思っていました。杉田さんと宇多田さんとの距離については、本の冒頭で語られていましたよね。

対話の最初に、この本を読んだ僕の感想と合わせて、僕と宇多田さんとの距離についても、軽く説明させてください。

僕自身は、宇多田さんの歌をこれまで何となく耳にして生活してきたくらいで、特別ファンというわけではありませんでした。

ただ、これまでイメージしていた宇多田ヒカルさんのことを、『宇多田ヒカル論』を読むことでよくわかったような気がしながら(あくまで、気がしただけですが)、ぐいぐいと引き込まれるように一気に読んでしまいましたねえ。

宇多田さんの人生について、つらつらと考えながら、何よりも宇多田さんの歌自体の面白さを、たっぷり味わうことができました。

僕はいま36歳なので、同世代の人はみんなそうだと思いますが、「Automatic」(1999年リリース)の大ヒットが思春期の頃で、ラジオなどで何度も聴きました。

その後、宇多田さんの歌は自然に耳に入ってきたように思います。「traveling」(2002年)は、PVの映像と共に大好きだった記憶があります。

杉田 男性学やメンズリブの観点から『宇多田ヒカル論』を読解すると、どうなりそうですか?

まく 僕自身の読書体験から言えば、「男が寂しさとどう向き合うか」を考えていく上で、『宇多田ヒカル論』は有益なのではないか、と思いました。第一回の対談で、男の寂しさについて話題に上りましたよね。

寂しさについて語るのは、男性には特に難しいかもしれない、と。ダンディな「男の孤独」の話とも違っていて、かっこいいものでも、感傷的なナルシシズムを許すものでもない。

「もっと身も蓋もない、みっともない寂しさ」が、多くの男にはあるんじゃないか。

男性は職場や仕事の繋がりばかりになりがちで。そんな中で将来、寂しさがごまかしようもなくやってきたとき、落ち込みすぎたり、暴発してしまったり、誰かのせいにしがちになる。

そうするのではなく、その寂しさにちゃんと向き合って、その時にこそ本当に優しく、幸せに生きられるように、いまのうちから準備をしておきたい。男性は、根本的にそういう準備が足りない気がする。そんな話をしましたよね。

男たちが、寂しさに向き合うための準備とは、どういうことなのか。『宇多田ヒカル論』を読みながら考えると、何かヒントが見つかるんじゃないか。そう思いました。 

杉田 僕が宇多田さんの凄さを感じたのは結構遅いんですよ。「Automatic」等ももちろん耳にしていたけど、ある種の緊張感をもって聴くようになったのは三枚目のアルバム『DEEPRIVER』(2002年)の頃。

本当に強烈なインパクトを受けたのは『ULTRABLUE』(2006年)の頃でした。

まく 本では『COLORS』(2003年)や「Passion」(2005年)などを聴いたときの「強烈なインパクト」から書き始めていましたよね。改めて、そのインパクトはどういうものだったのですか?

杉田 自分の20代半ばごろまでの恋愛や失恋の経験を重ねましたよね。

そして宇多田さんの中にある、人間は他人を一回しか(First Loveとしてしか)愛せないのかもしれない、離別して遠ざかっていくことの中に実は愛があるのかもしれない、という感覚にぞっとしたというか。

まく その感覚が研ぎ澄まされたようにあったという感じですか?例えば、「Passion」には。

杉田 そうですね。ただ、宇多田さんは初期の『First Love』(1999年)や『DISTANCE』(2001年)でも、同じような感覚を歌っていたとは思います。

僕がそういう感覚に気づいたのが『ULTRABLUE』の頃だったと。そういう意味では、やっぱり遅かった。

初愛、純愛、友愛

まく 杉田さんは『宇多田ヒカル論』を男性問題に引き付けて振り返るとどんなことを思いますか?

杉田 そうですね。僕の評論は「宇多田ヒカルという女性の感じ方・考え方を、男性的なロマンティシズムに回収していないか?」という点が気になっています。僕の宇多田論ってロマンティックすぎませんか?

つまり、恋愛に対する「男によくあるロマン主義」の夢を女性に対して投影していないか。

たとえば人は誰かを本当に愛せるのは一度きりかもしれないとか、好きだった人が遠く離れていっても忘れられないとか…何というか『世界の中心で愛を叫ぶ』っぽい、男性によくある感傷的なナルシシズムを正当化していませんか。

その辺、率直にどうでしたか?宇多田さん自身の中には以前から非ヘテロセクシュアルな側面があるし、また非人間的(ULTRA)な感覚の強い人だから、単純な男女差のバイアスで考えると、それも違うとも思うんだけど…。

まく 「男によるあるロマン主義」に乗せて描き過ぎている、ということですか?うーん、どうなんでしょう…。まず、確かに『宇多田ヒカル論』には、次のようなモチーフがあったと思います。

どんな人でも、愛する人を最初の一瞬しか愛することはできず、以降はその瞬間から遠ざかっていかざるを得ない。

あるひとりの人を好きになって気持ちを伝えて、仮にその気持ちが受け入れられて長く一緒に暮らし、どちらかが死ぬまで添い遂げたとしても。

やはり愛する一瞬は最初のそのときのみで、以降は同じようには愛せず、ずっと遠ざかるのみである。どんなに再び愛したいと思っても。

こういう愛を指して、「初愛」という言葉も出てきていましたね。他にも『Fantome』(2016年)について書かれている第六章では「友愛」という言葉も出てきています。これらの「愛」が、男たちが寂しさに向き合う際のヒントになると思うんですね。

杉田 「初愛」は田中ユタカさんという漫画家さんの言葉ですね、僕が好きな。

まく 田中ユタカさんが、どんなかたちでこの「初愛」という言葉を使ったか聞いても良いですか?

杉田 田中さんはエロマンガの作家さんなんですが、特に短編作品では「永遠の童貞」とか「永遠の初夜」を描いている感じがあるんです。たとえ肉体関係を経験しても童貞のまま、処女のまま、初夜のままというか。

男性的な観念やロマン性なのかもしれないけれど、それが反復され、研ぎ澄まされていて、ある種のすごみがある。全く違うように見えて、宇多田さんの感覚に実は近い面もあるのかもしれない。それが「初愛」の感じかなと。

まく 僕は正直、その「初愛」の感覚がわからないんです。ただ、「純愛」を求める気持ちはある。僕も失恋の経験がありますが、そのとき好きだった人を「あの人を愛していた」と振り返れないんです。

しかも、いま僕は身近な家族も愛していないのではないか、冷たい感覚しか実は抱けていないのではないか、という自分への疑念があって…。どこまで言っても自分が寂しい「寂しがり屋」のナルシストなのかな、と思うんです。

だからこそ「純愛」に憧れがある。本当に人を愛したいなって思う。でも、それは自分には一生無理かもしれないとも思う。それで愛を求めてしまう、そんな「ロマン主義」を僕は持っていると思っています。

杉田 失恋の相手に対しては「好きだったけど、愛してはいなかった」という感じなんですか?振り返ると。

まく いや、これは言うのが恥ずかしいんですが…。「周りもみんなお付き合いしているし、僕も誰かとお付き合いした方が良いのかな」みたいな感じでお付き合いを始めて、それでうまくいかなくなって別れた、という感じでして…。

杉田 いまのお話だと「誰も愛していないし、一生誰も愛せないかもしれない、ゆえに純愛への憧れが募っていく…」という感じなのかな。確かに宇多田さん的な恋愛観とは結構違うかもしれないですね。

先ほど少しお話になった『Fantome』は、受け止め方によっては「別にロマン的な恋や愛がなくても、友愛によって生き延びていくことができる、世界を花束で彩れる」という作品ではないか、という気もしますがいかがでしょう?

まく ええ。「友愛」の話は、とても面白かったですねえ。『Fantome』のところで書かれていた「友愛」って、世間でいう所の友だちとか、友情とも、違うものとして説明されていましたよね?

杉田 そうですね。必ずしも親密な友情には限らないし、ホモソーシャルな男友達関係に対してはアルバム全体を通して基本的に批判的です。僕はそれを「幽霊的な友愛」と呼びました。

死んだお母さんや二度と会えない他者たちとすら、友達としての関係を新しく結び直す、というモチーフをも『Fantome』は含んでいるように思えたんです。

まく それは「戦友」とも違うと書かれていましたね。何か共通の経験があるとか、何かを共に乗り越えたとか、それを通じた情感を伴う関係にも限らない、と。

杉田 薄く浅い関係でもいいわけです。ほんの少しすれ違うだけの関係とか。それらも等しく友情たりうると。

まく 「家族みたい」とか、「友だちみたい」とか、「恋人みたい」とか、「友だち以上恋人未満みたい」とか、それらの言葉でも言い表せないような、誰かに惹かれる感覚のことを「幽霊的な友愛」って呼んでいるんですよね、杉田さんは。

それが、すごく大事なモチーフだと思ったんです。色んな人との出会いや関係、別れの中で、世間では言葉になっていないような新たな感覚を得ているかもしれない。それらの言葉では表せないような、微妙なものがそこに新たに生まれているのかも、と。

…ああ、さっき僕があっさりと割り切ってしまった、過去の失恋の関係も、実は色んなものがあったんだろうなあ。いま、そんなことを思いましたよ。

杉田 失恋した相手との間にある種の幽霊のような友情を感じること、それが「正しいサヨナラの仕方」なのかもしれないですよ、たとえその人と二度と会えなくても。

まく寂しくて、ついつい若い女性との関係ばかりを求めてしまう、とか。

そういう平板な関係でしか、どうしてもイメージできない自分、そうやって寂しさを埋めてしまう自分の価値観を、問い直してくるような様々な出会いや別れに対して、僕たちは心と身体を開けるか。

そのように準備をしていこう、と宇多田さんの歌が呼びかけているように感じました。本当にそれが可能かどうかは、実生活で試してみないと、わからないですけども…。

杉田なるほどね。僕も『Fantome』論のパートを書きながら、ヘテロ男性としての自分の生き方や恋愛観が新しい次元に開けていくような、少なくともその端緒を与えられたような、ある種の解放感(珍しく、カタルシスのようなもの)を感じたんですよ。

それは貴重な体験でした。

非人間的な感覚のある自分はどう生きていけばいいのか

まく 僕は「初愛」はわからないけど、ナルシストとして『宇多田ヒカル論』の議論は分かる気がしたんです。

人はみんな孤独で、違う存在だから、必ず距離がある。その距離の中に、大事なものが宿る。まずは『DISTANCE』のアルバムのところで、そんな説明がありましたよね?

杉田 そうですね。distanceの中にかえって愛が宿ると。

まく ええ。前回の対談で取り上げた二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)では、他人を愛するには自分を愛すことからはじめよう、と書かれていました。

そのために、自分がひとりでいても寂しくない【居場所】を持とう、と言っていたわけで。

『宇多田ヒカル論』の『DISTANCE』について書いている第二章を読みながら、ひとりで立ち続けることの充実感を、自分だけでなく相手も感じていくことを祈る、ということが愛なのかもしれない、と思ったんですね。

独りになることを分け合おうとする、それが愛なのではないか、と。人は本来的に独りで、ときにぼんやりと「孤立」に苦しんでしまう。

ひとりでいても寂しくない場所を手に入れることができて、そのときはじめて、そういう自分を愛している、ということであるならば。

他者が、それをできるようになることを望むことが、他者を愛するということなんだろうな、と。そんな風に腑に落ちたんです。

杉田 なるほど。まくさんのいう「ナルシスト」とは「愛したいが愛せない」というアパシー状態(無気力)のことでしたよね。だからこそ純愛というロマンを希求してしまうと。

その場合の「ナルシスト」とは、いわゆるアセクシュアル(無性愛)とはまた違う話ですよね?

まく はい。僕には性欲があるし、性愛で人とつながりたいと思う気持ちもあります。でも、目の前の人とは、そうできない(気がする)。望んではいるけど、でも愛を感じられない男、そんな無感覚状態な感じですね。

杉田 「愛されない苦しみ」じゃなくって、「他者を愛せない」というアパシー状態を「ナルシスト」と呼んでいるわけですね。

それは世間一般のナルシストの定義とは違うんだろうね。愛せないけど、性愛によって寂しさを埋めたいという感じはあると。ふむ。

そういうアパシー=ナルシストの状態から、『Fantome』以前の宇多田さんの歌にシンパシーを覚えるとすると、それはどの辺なんですかね?

ある意味で宇多田さんの世界って、割と豊富な恋愛経験がデフォルトな感じもあるから、息苦しかったりはしないのかな。

まく そうですねえ。僕が引き寄せられたのは、「非情な感じ」ですね。本の最初の方の、宇多田さんの生い立ちのところで「感情を消していった」と書かれていた部分が、まずは気になって。

宇多田さんの生い立ちと僕のそれとが重なるわけでは全くないのですが、無感覚な感じに何となく悩んでいた僕としては、そこに目を持っていかれたんです。

そして『ULTLABLUE』に入っている「BLUE」という曲の詩から、宇多田さんの非人間的な感じを読み取っていた箇所がありましたよね。感情が何だかよく分からない感じ、と言いますか。

そういう非人間的な感じが自分にもあるような気もして、そんな自分がどう生きていけば良いのか、と。それを知りたくて、ぐいぐい最後まで読んでいったっていうのが、僕の『宇多田ヒカル論』の読書体験でしたね。

結局、『宇多田ヒカル論』は「男性的」?

杉田 話を元に戻しますが、やっぱり僕の宇多田論ってロマンティックすぎるんでしょうか?『長渕剛論』(毎日新聞出版)は、対象が長渕さんだから、僕の批評スタンスも「男性から男性への憑依」というモードになっていたんですね。

今回の宇多田論は、それとはまったく批評方法が異なる。憑依はしていないと思うんです。ある種の「距離」はあると思う。しかし、その「距離」の取り方自体に僕の男性的な歪みはあるのかもしれないと思っていて。

まく うーむ…どうなんでしょうか…。

杉田 あんまりそういう感じはしなかった?

まく …何か、ロマンティックなものを求めてしまう、熱いものをどうしても求めてしまう。それは、杉田さんの底に確実にありますよね。

そういうものを求めてしまう「過剰なもの」とどう共に生きるかという模索が今回の『宇多田ヒカル論』でもなされていたように思いますけど…。こういう論じ方自体がそもそもダメなのかもしれないということですか?

それと、こういう議論が「男性的」と言うことでしょうか?これを「男性的」と言ってしまって良いものなのかどうか…。ちょっといまの僕にはわかりません…。いやー、このへんは、すっげーもやもやします…。

杉田 たとえば長渕論は、男性の立場から男性としての長渕さんの葛藤を論じたものだと思うんですね。それは『非モテの品格』(集英社)の議論と連続していると思う。

ただ、宇多田論はあまり自分の中の「男性性」を意識せずに書けたんです。実際に、遅筆の僕としては珍しくスピーディに、するっと書けた。

それはある種の「普遍性」に軸を置いているからなのか、それともそれ自体にどこかブラインドがあるのか。僕自身もちょっともやもやしているんですけどね。

まく …うん、僕はまず率直に振り返って、『宇多田ヒカル論』が男性的なロマンティシズムに回収した議論だとは思わなかったですね。だから、この論点自体も、言われるまで僕は思い浮かばなかったです。

この対談のテーマの関係で、僕は『宇多田ヒカル論』を読みながら男性性と絡めて考えたり、僕自身が自分の文脈で捉えて考えたりはしました。

でも、そんな僕でさえも『宇多田ヒカル論』を読んで「この議論は男性性に引き付けすぎているな」とは思いませんでした。

杉田 そうですか。

まく 『Fantome』について書かれた第六章の後半が、一読してもなかなか理解し難い内容だな、とは思いました。だから、じっくり読んだ。そしたら超面白かった。どこが面白かったかは、今日の対談でお話しした内容につながります。そんな感じでした。

杉田 まあ、その辺は僕自身が反省的に考えてもダメで(それ自体が男性的な反省モードかもしれなくて)。実際に女性や様々なセクシュアリティの人々からの感想を聞いてみたいな、という感じですね。

『宮崎駿論』『長渕剛論』『非モテの品格』という連続性の中で書いた面もあるので、男性学やメンズリブのテーマを含んではいると思う。

ただ、作者である僕自身が『宇多田ヒカル論』における男性問題をちゃんと自覚できていない。誰か、批評して下さい!

まく (笑)。確かに、色んな人の感想は聞いてみたいですねえ。男性以外の性自認の人で、ジェンダーやセクシュリティの議論を深く考えてきた人が『宇多田ヒカル論』を読んだときの感想をぜひ聞いてみたい。

そして僕的には、「自分は人を愛せるのか…?」とぼんやり悩んでいるような人に読んでもらって、その読んだ感想を聴いてみたいです。

もちろんこの本は、忘れられない大切な恋愛をしたことのある人にとってド真ん中の本なので、そういう人たちにはぜひ、広く手に取ってもらえたら良いなと思いましたね。

まくねがお

まくねがお(ハンドルネーム)。シスへテロ男性。二年前からツイッターを使い始め、「男性性と暴力を考える」というテーマで、自分のことや映画のこと等を素材に、呟きながら考え続けています。

杉田俊介

1975年生まれ。異性愛者の男性(暫定)。人の親。批評家。20代半ばから障害者介助をしてきたが、現在はお休み中。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』『長渕剛論』『宮崎駿論』など。

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