記事提供:日刊大衆

若乃花以来の横綱昇進で、歓喜に沸く日本列島。この機会に、これまで角界の頂点に君臨した漢たちの「胸打つ」発言を誌上プレイバック!

「つつしんでお受けいたします。横綱の名に恥じぬよう、精進いたします」1月25日、日本中が待ちに待った“その瞬間”が訪れた。2017年の初場所で待望の初優勝を成し遂げた大関・稀勢の里(30=田子ノ浦部屋)が、第72代横綱に昇進したのだ。

日本出身力士としては、98年の三代目若乃花以来、19年ぶりの昇進とあって、「三代目若乃花で現在、タレントの花田虎上(まさる)も“初土俵から89場所、本当に長かったことでしょう。30歳での昇進となりますが、ペースは人それぞれです。前に出て攻める、力強い横綱になってほしいと思います”と祝福のコメントを送りました」(スポーツ紙記者)

昭和以降、大関在位31場所からの昇進は、歴代3位のスロー記録。新入幕から所要73場所は最も遅い。30歳6か月での横綱昇進は、先代師匠である故鳴戸親方(元横綱・隆の里)の30歳9か月に次いで7位の“遅咲き”だった。

昇進伝達式の口上は、冒頭のごとく簡潔だったが、「自分の今の気持ちを、そのまま伝えたかった。自分一人で考え、シンプルなものを選んだ」と、口上に込めた思いを無骨な男らしく、訥々と語ったのだ。

これは、「11年に亡くなった元鳴戸親方は、83年に第59代横綱になった際、“つつしんでお受けします。これからは一層稽古に励み、節制に努め、栄誉ある横綱を汚さぬよう、努力、精進致します”と口上しています。貴乃花が伝達式で使って以降、四字熟語で口上を述べることが半ば慣例となっていましたが、稀勢の里は師匠にならい、シンプルに積年の思いを表現した。そこには“先代師匠と出会わなければ、今の自分はない”といった天国の師匠への感謝の気持ちが表れていました」(角界関係者)

こうして、大横綱への道を歩むことになった稀勢の里。

本誌は、この機会に、昭和・平成の横綱22人のインタビュー集『横綱』(講談社)を上梓した、ノンフィクションライター・武田葉月氏の協力の下、稀勢の里が目指すべき名横綱たちの発言を、その活躍とともに振り返りたい。

まずは、稀勢の里の先代師匠・故鳴戸親方の師匠にあたる第45代横綱・初代若乃花の発言から。ちなみに前出の花田虎上は、初代若乃花の甥にあたる。

先日、稀勢の里は明治神宮奉納土俵入りを行ったが、その際に使った化粧まわしは“土俵の鬼”と呼ばれた初代若乃花のものだった。

「若くして横綱になる人もいるし、私みたいに年増になってから横綱になる人もいるけど、体の小さい力士っていうのは、ちょっとつまずいてくるとガタガタッといってしまう面がある。だから、悲しいけど、気力で持っていかなければならないんです」

“遅咲き”の29歳で横綱に昇進した戦後最軽量(身長179センチ、体重107キロ)の初代若乃花は、ライバル栃錦と名勝負を重ね、“栃若時代”を築いたが、小兵ゆえの苦労も多かった。

「こんちくしょう。こういう気持ちだけ。これしかないんですよ。相撲だけじゃない、なんの商売でも同じだと思います。ただし、横綱だから、あまりにもそういう気持ちを表情に表したり、言葉に表しちゃあいけないんです。自分の心の中だけに思っていればいいものだからね」

ちなみに、最年長で横綱昇進を果たしたのは、32歳2か月で昇進した第53代横綱・琴櫻である。72年九州、73年初場所の連続優勝で昇進したが、それ以前は、大関在位30場所のうち、2ケタ勝利は半分以下の13場所。

年齢からしても引退間近とみられていただけに、昇進の際は“うば桜の狂い咲き”などと揶揄された。その琴櫻は、横綱について次のように語っている。

「横綱という存在は角界の頂点であるし、神様にも近いものじゃないかと、思っているんです。だから、誰からも尊敬される存在でなければならないし、絶対に間違ったことはしちゃいかんのです」

大きな頭でぶちかまし、強烈な突き押しで相手を圧倒することから、ついたニックネームは“猛牛”。

「親父とお袋は、現役時代のわしを“子ども”じゃなくて、“神さん”だと思っていたくらいなんですよ。横綱時代は、場所が始まれば毎朝早く、わしの銅像にご飯を作って持っていって、真っ先にご飯をあげてから自分たちが食事をしていたそうです。そういう両親をわしはとても尊敬していたし、この両親がいたからこそ、横綱にもなれた。そして、その後も道を踏み外さないで生きてこられた」

横綱在位9場所目の直前に、引退を表明。引退後は佐渡ヶ嶽部屋を引き継ぎ、琴風、琴欧洲、琴光喜ら3大関を育てている。

その琴櫻に次ぐ、31歳5か月の高齢で横綱昇進したのは、第57代横綱・三重ノ海である。初土俵から横綱まで97場所は最多で、体格や腕力に恵まれず、新十両になるまで34場所もかかっている。

27歳11か月で大関昇進後も、ケガが長引き、関脇に転落。大関から転落して返り咲き、横綱になったのは、大相撲史上、三重ノ海ただ一人である。

「ドラマチック?そうかもしれないね。序二段でつまずいて、大関でもモタモタしていた私が横綱になるなんてことは、誰一人思っていなかっただろうし、自分自身もなれるなんて思っていなかったんだから」

引退後は武蔵川部屋を興し、1横綱(武蔵丸)3大関(武双山、出島、雅山)など多くの関取を育てた。

「弟弟子や自分の弟子を含めた若い子たちを見てきて言えるのは、すぐに諦めてしまう子が多いということです。途中で逃げる子を何人も見てきましたけど、そうじゃなくて、今はつらいかもしれないけども、今を乗り越えて我慢していけば、その先にすごく良いことも、うれしいこともいっぱい待ってるんだよ、と私は言い続けてきたつもりです。目いっぱい努力していれば、どっかでちょっとは神様も味方をしてくれるかもしれない。私はそう信じています」

では次に、稀勢の里の先代師匠、第59代横綱・隆の里の“ON”にまつわる発言を聞いてみよう。

「長嶋選手がホームランを打つ。そうすると、王選手が一番に迎えに行く。王選手がホームランを打つと、長嶋選手が一番に迎えに行く。お互いに首位打者とかホームランの数を競い合っているその時に、ダッグアウトから飛び出していく。少年時代の僕は、そういうシーンを見て、“これはウソだろう。間違いだろう?”って思っていたんです」

隆の里少年のクールな視線は、半生と無関係ではない。17歳で父、18歳で妹を失い、自身も20歳で糖尿病を発症したのを皮切りに、扁桃腺炎や足のケガ、ヒジの手術など、現役時代に25回も入院している。

「でも、後になって分かったんです。人を恨むとか、そういうレベルを超えた人たちっていうのは、それができるんだってことがね。ホームランを打ったら、握手を求めて、肩を叩いて、“ようやったなぁ、コイツ”みたいな、そういう賞賛・賞美するのはいいものだなぁって、本当に思いました」

ケガや病気に打ち勝ち、横綱に昇進したのは30歳9か月のときだった。東北出身で苦労人のイメージから、当時、人気だったNHK朝ドラ『おしん』になぞらえて、“おしん横綱”のニックネームで親しまれた。

「汗をかいて頑張っている人間が、成果を出した瞬間は喜んであげなきゃいかんな。そういう気持ちで走っていこうという姿勢に、自分自身が変わってきたんですね。気持ちが切り替えられたことで、折れないで頑張れたんだと思います」

こうした先代師匠の生き方は、新横綱の中に受け継がれているに違いない。

そんな隆の里に遅れること2年、相撲界に入門してきたのが、昨年亡くなった九重親方こと第58代横綱・千代の富士だった。

身長183センチ、体重127キロと力士としては決して恵まれた体格とはいえず、肩をすぐに脱臼してしまう癖もあったが、1日500回の腕立てや、ぶつかり稽古で徹底的に鍛え、鋼のような肉体を作り上げた。

歴代2位の通算1045勝、歴代3位の優勝31回を誇る大横綱“ウルフ”は、次のように語っている。

「私みたいに小さな体の力士は、遠いところに夢や目標を置いてもダメなんです。あまり大きな目標を置いて、できなかったら、ガクッときますからね。目標をまず身近なところに置いて、それを一つずつクリアしていく。一つクリアしたら、もうちょっと先に目標を置いてみる。すると、“じゃあ、頑張らなきゃ”という気持ちになる。それができたら“また先に”。階段を一歩しっかり上がったら、今度は力をつけて、また上がるんだっていう、そういうやり方です」

稀勢の里は“雲竜型”の奉納土俵入りをお披露目したが、観衆は貴乃花(94年)の2万人に次ぐ歴代2位の1万8000人。それまでの2位は1万人の千代の富士(91年)だった。

「横綱は、負けたら記事になるんですよ。勝っても記事にならない。たまにしか負けないのに、デカデカと自分の敗退シーンが新聞に載っているのを見ると、ガックリくるものです。じゃあ、勝った相撲でも新聞に載るような相撲の内容にしたらいいんじゃないかって、私は考えたわけです。だから、もっと強くて内容のある相撲を取れば、新聞記者の人たちだって、“すげえな。じゃあ、記事を書こうか”ってことになるわけでね」

頭や首筋を押さえつけて豪快に転がす左上手投げ“ウルフスぺシャル”は、その発想から生み出された大技だったのだ。

最後は第52代横綱・北の富士の話で締めくくろう。奔放な行動から「現代っ子横綱」と呼ばれた北の富士だが、若い頃は体重が増えず、入幕まで7年かかるなど開花は遅かった。

70年に玉の海と横綱に同時昇進すると、「北玉時代」とうたわれたが、翌10月には玉の海が虫垂炎で入院中に急死してしまう。

「シマちゃん(玉乃島=横綱昇進時に玉の海に改名)の死を受けて、周りからは、“これで北の富士時代だ”なんて言ってもらったりもしました。実際、一人横綱となった翌十一月場所では、8回目の優勝を果たしているんです。でも、シマちゃんがいなくなったから、“北の富士時代”になるわけじゃないんだなぁ」

気持ちの張りを失い、休場が増加。その後、同世代の横綱・琴櫻が74年7月場所前に引退を表明したことが“決定打”となった。

「私も、この場所は進退を賭ける場所になったんですが、気力がもう残っていなかった。琴櫻関の引退で、ぽっかり心に穴が開いてしまった…」

初日、2日目と連敗し、報道陣に引退を告げた。

「“引き際はきれいに”という師匠との約束どおり、私は報道陣にきっぱり答えたんです。そうしたら、師匠が、“もうひと場所くらい取ったらどうだ”と困惑していましたけどね(笑)」

この北玉時代だけではなく、初代若乃花には栃錦、大鵬には柏戸、そして貴乃花には曙。角界が盛り上がった時代には、横綱のよきライバル関係があった。

稀勢の里の昇進に伴い、角界は00年春場所以来の4横綱時代を迎える。大関時代同様、稀勢の里にはモンゴル出身の3横綱が立ちはだかるが、最大のライバルは白鵬だろう。

「対戦成績は、43勝16敗と白鵬の圧勝ですが、稀勢の里は白鵬の連勝記録をストップしてきた“白鵬キラー”の一面がある。大鵬の持つ歴代最多勝(69勝)に迫る勢いだった白鵬の連勝を63で止めたのも稀勢の里ですし、その後も43連勝、23連勝を止めています。しかも稀勢の里は今回、千秋楽で白鵬を破ったことで横綱昇進を確約された。そういったことを含め、2人は因縁のライバルなんです」(前出の角界関係者)

白鵬は現在31歳で、稀勢の里とほぼ同世代。今後も2人の手に汗握る戦いはしばらく続くだろう。

「責任のある地位だと思うし、負けたら終わり」

そう語った新横綱は、自らの時代を切り開くことができるのか。期待しよう。

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