記事提供:messy

GENKING公式instagramより。

「あたしのオカマは病気です!!同じ悩みの人は病気とか言われて嫌な気分にしてしまったらごめんなさい。けど今のあたしは病気って言われた方が気持ちが楽なのね」――。

1月24日に、タレントのGENKINGがSNS上で性同一性障害を公表し、診断書の画像を公開した。GENKINGは同投稿で、子ども時代からのいじめや、自分は女の子に生まれてくるべきだった、などとも綴っている。

この投稿をめぐる世間のリアクションはおおむね好意的だった。告白をめぐっての勇気を評価したり、性同一性障害というビョーキの大変さについて改めてビョーキじゃない人たちが深刻に捉えるといったニュアンスのコメントが多い。

性同一性障害の診断を持っている私は、GENKINGの投稿とそのコメントに対してとても複雑な心境だった。「人にこんなこと言わせる社会って、いったい何なんだろう」と思って悲しくもなった。

診断書まで公開して、GENKINGが自分のことを「病気と言われたほうが楽」と言った事情はなんとなく推測できたけれど、推測できるからこそ、無邪気に「そうだね」とはうなずけない。このように言わなくてはいけない気持ちのつらさに思いをはせた。

ある人が自分自身をどのように定義しようが、その人の自由だし、だれも否定できない。

それでも、私はこう言いたい。だれの性別も病気じゃありません、と。

性同一性障害という社会のシステム

私が性同一性障害の診断を取ったのは、身体的治療を可能にするためだ。望みの性別らしく外見を変えるためのホルモン療法や手術を受けるためには、今の日本では精神科医二名から性同一性障害の診断を受けることがガイドライン上定められている。

身体を変えたいのなら、ビョーキの人にならなくちゃいけないので、私は自分のことをビョーキとは思っていなかったけれど、患者になることに決めた。

性同一性障害をめぐっては、自分のことをビョーキだと認識している人もいるけれど、ここで私が言いたいのは、そこには選択の余地はないってことだ。性同一性障害の話をするときに気づかされるのは、私たちにはあまり選択の余地がないということだ。

たとえば、法的な性別変更をしたいなら性別適合手術を受けなくてはいけない。別に自分の肉体をそこまで嫌っていなくても、結婚(法的に異性どうしのカップルになればできる)や就職差別を回避するために手術を選ぶ人もいる。

社会のシステムによって、私たちの生き方は大いに左右されるし(「性別変更に「手術は必須」家裁支部判断、当事者は困惑」)、世間からの眼差しも変わる。

GENKINGの投稿からにじみ出るのは、オカマとビョーキは、全くニュアンスが異なるということだ。

診断がもたらすのは医学的なメリットだけでない。性別が複雑な人たちにとって、性同一性障害の診断書は、社会的生活を便利にするためのアイテムにもなる。

裁判所で改名するのにも診断書があればスピーディだし、日常生活の様々な困りごと――たとえば職場で健康診断を受ける際に男女別になっているのが苦痛だから個別にしてほしいだとか、学校の制服をセーラー服じゃなくてズボンにしてほしいだとか――についても、性同一性障害という言葉を出した方がスムーズに行くことがある。

医者のお墨付きがなければ単にワガママと一笑に付されるようなことが、定義を変えれば、真剣なものとして扱われる。

性同一性障害とは、個人の状態を示す言葉だけではなくて、これまで周縁化されてきた切実な欲望をビョーキと定義しなおすことで、個人を生き延びさせる装置そのものと言ってもいい。

本来、そこには診断名なんて関係ないようなことも、性同一性障害という名前を出せば、話を聞いてもらえたり、人間扱いしてもらえたりする現実がある。

たとえばGENKINGは、SNS内で性同一性障害ゆえの苦悩として、子どもの頃に少女漫画誌「りぼん」の付録を小学校に持っていってばかにされた経験をあげているが、これだって本来は、性同一性障害を引き合いに出す必要はないだろう。

セクシュアル・マイノリティであろうがなかろうが、すべての子どもは「りぼん」の付録を学校に持っていき、好きなものを尊重される権利があるのだ。

別にいいじゃないか、男の子がプリキュア好きでも、女の子が仮面ライダーのベルトが欲しくても。それが叶えられないのは、性同一性障害への理解が足りないからではなくて、子どもへのジェンダーの押し付けのせいだ。

性別をめぐるトラブルが、なんでも個人の病気のせいに回収されてしまうことは問題ではないのか。あるいは多様なジェンダーの人たちを病理化することは、かれらの尊厳を損ねることではないのか。

そんな指摘があり今、国際的に性同一性障害が本当にビョーキなのかどうかという議論が揺れている。

2016年、デンマークはトランスジェンダー(出生時の性別と性自認が一致しない人)を精神疾患とみなすことを辞めると世界で初めて宣言した。これから改訂される国際疾病分類においても大幅な見直しが予定されている。

だいたい、世界中には、伝統的にジェンダーが3つあるとか、5つあるなんて文化も珍しくない。このように考えると、多様な性別の人たちがビョーキなのかどうか、というのは極めて社会事情によるものだとも言える。

性別の枠をゆるめるために

(c)Shieko Reto

(c)Shieko Reto

バンコク在住の友人でトランスジェンダーのShiekoさんは、こんな作品を書いている。自分が女であるという、ある人間にとっては極めて基本的な事実を他の人に認めてもらうためのハードルがとても高いこと。

「女の枠組み」がとても狭いこと。だれかにジャッジされないと、女として認められないこと――。

そもそも、こんな狭い枠にハマれる女性がどこにいるんだろう。そう思うと、ちょっとコミカルでもある。性同一性障害とかトランスジェンダーだとかいうネーミングは、ときに人間を「私たち」と「あなたたち」のどちらかに分類してしまう。

この種類のネーミングとは、一種の壁のようなものだ。ネーミングの壁があると、多数派が少数派を理解するかどうか、ということだけに焦点が当てられがちだが、大切なことは必ずしもそうではないと思う。

トランスジェンダーの性別の悩みとは、一般の人たちが感じていることと地続きの部分も多い。先にあげた少女漫画雑誌の「りぼん」付録を小学校になぜ持っていってはいけなかったのか、という話もそうだ。

男らしさや女らしさの押し付けに苦しんだり、なぜ自分の思うように振る舞ってはいけないのだろうと悔しく思ったりした経験は、だれにだって一つや二つあるだろう。「私たち」と「あなたたち」に分けることで見落としてしまうことがある。

小さな頃に好きなおもちゃを買ってもらえなかった大人たちは、「トランスジェンダーの話」なんてネーミングの壁を超えて、自分の子どもたちの世代が、どうしたら望むおもちゃで遊べるようになるのか一緒に考えてほしい。

男らしくするように言われて窮屈だったり、女子力が低いと笑われて不快に思った経験のある人達は、ジェンダー問題についての立派な当事者だ。

アメリカのTVドラマ『トランスペアレント』には、乳がんで乳房を失った女性と、トランスジェンダーの女性(生物学的には男性)のふたりのベッドシーンがある。

下着を取るかどうかという話をして、前者は裸になり、後者はブラジャーをつけたままがよいと言った。ちがいはあっても乳房のない女性同士であり、対等な描き方が素敵だった。

すべての差別・抑圧の問題は、おそらく「多数派と少数派の闘い」ではない。

フェミニズム運動では、しばしば性差別の問題は「女VS男」の闘いだと誤解されてきたが、実際のところ、女性だって男性と同じくらい性差別的で抑圧的になりうることも指摘されている。

性差別に反対する女性の口から「草食男子は情けない」という発言がでることもあるし、男性に対するセクハラが今の日本では野放しになっているのも気になる。

トランスジェンダーだからといって、トランスジェンダーに対する偏見や差別意識を持っていないとは限らないし、黒人だからといって人種差別的でないとは限らない。かつて黒人解放運動のカリスマだったスティーブ・ビコはこう言った。

「おれたちを抑圧してくるやつらの一番の武器は、おれたちの自己嫌悪なんだ」。黒人はださい、かっこわるい、頭がわるいと言われたら、自分の心の中でも浮かんだら、こう言いかえせ。ブラック・イズ・ビューティフル。黒は美しい。

だれの心の中にも性別によって人を差別し、抑圧する部分がある。それは社会生活を送る中で染み付いてしまったもので、みんなの課題だ。ジェンダーの問題は、だれもが当事者で、考えるところのある部分だと思う。

勇気も感動もいらないから、小学生が好きな漫画の付録をフツーに学校に持っていける社会を作りたい。

そろそろ性同一性障害という疾患モデルではなく、「私たち」「あの人たち」という壁を築くのでもなく、日本社会における性別の枠をゆるめるためにどうしたらよいかの議論を広めませんか。

遠藤まめた

1987年生まれ、横浜育ち。トランスジェンダー当事者としての自らの体験をもとに10代後半よりLGBT(セクシュアルマイノリィ)をテーマに啓発活動をはじめる。

主にLGBTの若者支援や自殺予防に関わる。著書に「先生と親のためのLGBTガイド~もしあなたがカミングアウトされたなら」(合同出版)ほか。

ホームページ「バラバラに、ともに。遠藤まめたのホームページ」
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