日本には目を見張るような「伝統技術」が今も数多く受け継がれていますが、今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で取り上げられている「漆工芸」もそのひとつです。

中国から伝来したと考えられていたその技術ですが、近年出土した漆塗りの皿などから、「日本独自の発達を遂げたのでは」という説も出てきているようです。かのマリー・アントワネットも愛したという漆の歴史について、詳しく見ていきましょう。

伝統技術が未来を開く

世界最古の漆器は日本で出土している。北海道南部、南茅部町の柿ノ島B遺跡から、櫛や腕輪、数珠状にした玉など多くの漆塗り製品が出土した。

これらをアメリカの研究所に送り、放射性炭素による年代測定をしてもらった所、9,000年前縄文早期の作品という結果が出た。それまでは中国の長江河口近くの河姆渡(かぼと)遺跡から出土した約7,000年前の漆腕が最古だった。

これ以外の縄文遺跡からもたくさんの漆器が見つかっている。島根県松江市の夫手(それて)遺跡からは6,800年前の漆液の容器が見つかっており、新潟県三島郡和島村の大武(だいぶ)遺跡から出土したひも状の漆製品は6,600年前のものであった。

約5,000前の青森県三内丸山遺跡からは直径が30センチほどもある見事な漆塗りの皿が出土した。

現代にひけをとらない漆の技術がすでに5,000年前からあった
ことで、専門家を驚かせた。この遺跡から出土した漆の種子をDNA分析した結果、中国とは違う日本型のウルシの木であることが明らかになった。

したがって、日本の漆の技術は中国とは独立に、場合によっては、中国より早い時期に発達したという説も生まれた。

紀元前2,000~3,000千年前の縄文晩期の遺跡からは、赤色、黒色の漆を塗った土器、飾り刀、弓、耳飾り、櫛、腕輪などが多数、発掘されており、高度な漆工芸が大規模に行われていたと考えられる。

さらに3世紀末から7世紀にかけての古墳時代には、内側に漆を塗った柩が使われ、また武人の鎧や刀の鞘にも漆が使われた。

連綿たる技術的発展

漆の技術は、縄文時代から連綿と発展し歴史時代に続く。日本書紀には漆部造兄(ぬりべのみやつこあに)という人物名が出てきて、漆職人のグループが存在していた事を窺わせる。

701年の大宝律令では、漆塗りをつかさどる役所として漆部(ぬりべ)が置かれた。

法隆寺の玉虫厨子台座の四面に描かれた「捨身餌虎図」は、異説もあるが、飛鳥時代の漆絵の代表作として名高い。

奈良時代の中尊寺金色堂の内陣(本尊を安置してある部分)や須弥壇は、黒漆塗に金銀、螺鈿(らでん、アワビ貝などの真珠光を放つ部分を薄片とし、漆面にはめ込んだもの)、蒔絵(漆を塗った上に金銀粉または色粉などを蒔きつけて絵模様を描いたもの)で名高い。

鎌倉時代には表面を平らに仕上げた平蒔絵や、盛り上げ高蒔絵など蒔絵の基本的な技法が完成した。室町時代には、さまざまな色漆を塗り重ねて複雑な色模様を出す堆朱(ついしゅ)が行われるようになる。

江戸時代には本阿弥光悦や尾形光琳らが、斬新なデザインの蒔絵を生み出していった。

漆工芸は貴族や武家だけでなく一般人の生活の隅々まで広がっていった。福井市の一乗谷では、戦国時代の町屋跡から漆器が多数、出土した。腕、皿、家具、石臼にまで漆が塗ってあった。

ヨーロッパで流行した漆工芸

18世紀のヨーロッパでは、日本の漆器が一大ブームとなり漆器がジャパンと呼ばれた。その牽引役となったのがオーストリアの女帝マリア・テレジアだった。テレジアは漆器の艶のある黒色に魅せられて、熱狂的なコレクターとなった。

ウィーンのシェーンブルン宮殿には、中国から呼び寄せた漆職人に黒い漆のパネルで一面を飾った「漆の間」を作り、財産を注ぎ込んで日本の蒔絵などの漆器を集めた

「私にとって世の中のすべて。ダイヤモンドさえ、どうでもいい。ただふたつの漆とタペストリーだけあれば満足です」とテレジアは手紙にしたためている。

テレジアの娘の一人がフランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットである。テレジアはわざわざ金粉を施した漆のワイングラスなどを日本に注文しては、マリー・アントワネットに送り続けた。

彼女は母親から送られた漆器を大切にし、断頭台の露と消える4年前に、漆器をすべて宮殿から運び出して守っている。

会津は江戸時代後期から漆器の海外輸出で知られており、会津藩は現在価値で数億円規模の外貨を獲得していたと伝えられている。マリー・アントワネットの注文を受けたのは会津藩かもしれない。

18世紀には日本の漆を取り入れた新しい装飾文化がヨーロッパで花開いた。フランスの家具職人がヨーロッパ調の家具に、日本から輸入した蒔絵などをはめ込む技法を流行させた。蒔絵以外の部分は、模造の漆がよく用いられた。

ニスに様々な薬品をまぜて作ったものだが、日本の本物の漆には遠く及ばないものだった。

マリー・アントワネットが用いた文机の天板には3枚の蒔絵が使われている。うち2枚は日本製の本物で、数百年たっても黒の塗膜がしっかりしていて変わらない美しさを見せているが、代用品の1枚は漆の色があせ、塗膜がはがれてしまっている。

「漆の一滴は汗の一滴」

漆は「ウルシの木の樹液を原料とする。ウルシ科で漆を採取できる樹木は日本、朝鮮、中国、インドネシア半島など、東アジア地域にしか自生せず、漆工芸が東洋独自の工芸として発達した原因となっている。

日本産のウルシの樹液が最上級とされ、国内の工芸品の仕上げのほとんどはこれを用いるが、樹木の不足などで現在では日本で使われる漆液の大半が中国からの輸入品である。

ウルシの木は10年ほどで高さ20メートル、幹の周囲25~30センチの成木に育つ。その表面に傷をつけて、4、5日経つと、指の先ほどの樹液がたまる。それをヘラで掻き取り、また少しずらした所に傷をつける。

昔から「漆の一滴は汗の一滴」と言われるように、非常に根気のいる作業である。

傷は浅すぎても深すぎてもだめで、熟練を要する。漆掻き職人は一年で20貫目約75キロ集められると一人前」とされた。ウルシの木は一年で漆液を採りきって伐採され、その切り株から新しい芽が出て育つまで10年間大切に育てられる。

「漆は生き物なので、人のおもいどおりにはならない」

ウルシの木から採取した漆液を精製する過程も根気と熟練を要する。まず綿をちぎって入れて、加熱・濾過し、綿と共にゴミや木の皮を取り出す。次に約2時間ゆっくりかきまぜると、とろっとした柔らかさが出る。

水分と油分が0.01ミリほどの均一な粒になって、よく混ざり合うのである。

それから40度前後の温度でゆっくり暖めながら、水分を約30パーセントから3~4パーセントまで徐々に飛ばしていく。

この時に55度を超えると、あとで漆を固める役割を果たすラッカーゼ酵素が変質して働かなくなってしまうため、職人は神経を集中し勘に頼りながら温度を保たねばならない

漆特有の深みのある黒色を出すためには、釣り針作りなどでできた水酸化鉄を入れて、一晩寝かせると化学変化によって漆液が「漆黒」になる。ふたたび綿をちぎって入れて、水酸化鉄を付着させて取り除く。

できあがった漆は、黒い輝きと鏡のような艶やかさをたたえている。漆の精製職人である会津若松の武藤勝彦さんはこう言う。

漆は生き物なので、生かさず殺さず、つくっていく。それでも人のおもいどおりにはならない。職人は生きたり死んだりする気まぐれな相棒と、じっくり腰をすえて、付き合わなければならない。

出典 http://www.mag2.com

30~40工程もの漆塗り作業

漆を器に塗る作業は30~40工程にもなる。それは奈良時代に行われていた方法とあまり変わりない。漆器の素地としては木材のほか、竹、紙、金属、陶磁器、皮などがあり、それぞれの素地作りに専門の職人がいる。

木材にしても、用途にあった材質とくせを熟知していなければならない。板物は硯箱など箱状のものを作るためで、檜(ヒノキ)、杉などが用いられる。

挽き物は欅(ケヤキ)、栃(トチノキ)などを、ろくろで回して削り出しながら、腕やお盆など回転体を作る。

これらの素地にうすく漆を塗っては乾かす、という作業を何度も繰り返す。ほこりが入ると台無しになってしまうので、塗りは一番奥まった部屋で行い、作業中は人の出入りを禁ずる。

「伏し上げ(塗った際のほこりを取る作業)3年、へらつけ(漆の下塗り)8年」と言われるように、長年の熟練がいる。輪島塗などの高級漆器は30回以上の上塗りが施される。

蒔絵を施す場合には、中塗り面に漆で模様を描き、蒔絵粉(金や銀の粉)を蒔いた後に、上塗りをする。一晩経って固い塗膜ができた後で、炭で研ぐと埋め込まれていた金銀の模様が現れる。

その上に、透明の漆を繰り返し塗って平らにする。最後は鹿の角などで磨き、艶を出して仕上げる。

湿気の中での乾燥!?

漆を乾かすには、引き戸のついた「湿(しめ)し風呂」という特別の棚に入れる。この中で温度20~30度、湿度65~80パーセントを保つ。なんと漆は高い湿度の中において乾かすのである。

この不思議なメカニズムを科学的に解明したのが、明治16年に吉田彦六郎いう研究者がイギリス化学会誌に発表した論文であった。

漆が固まるのは、主成分であるウルシオールの分子どうしが相互に固く結合されるからである。

その縁結びの役割を果たすのがラッカーゼ酵素だが、この酵素は湿気が高いと活性化して、空気中の酸素を取り出し、それを使ってウルシオール分子同士の結合を促進する。

人工漆の開発に取り組んでいる京都大学工学部の小林四郎教授(注:2003年当時)は、このメカニズムをウルシの木の生体防御システムではないか、と推察している。

動物が傷つくと血が固まって傷口を塞ぐように、ウルシの木も樹液で樹皮の傷を塞ごうとする。その時にラッカーゼ酵素を使って、空気中の酸素を取り込み、ウルシオール分子の結合反応を進める。

こういう生体防御システムが漆器に備わっているのであるから、「漆は生き物だ」というのもあながち誇張ではない。

ラッカーゼ酵素は湿気があればいつまでも働き続け、ウルシオール分子の結合は20年も続くと言われる。時を重ねていくに従ってますます艶が出てくるという漆の特徴はここから来る。漆塗りの職人も、塗り上げた時に良くできたかどうかは分からない。

塗り方を工夫してから、何年も経ってその結果を見る、そんな忍耐強いサイクルを繰り返しながら、漆の技術は蓄積されてきたのである。

世紀の未来を開くのは

漆工芸のプロセスを見て感じることは、まずこの伝統技術が自然現象に対する実に細やかな観察に基づいている事である。漆の乾燥には高い湿度が必要だ、というような発見が、どれだけの長年月の試行錯誤と観察の上になされたものか、まさに想像を絶する。

それは現象を極端に単純化した上で法則化する西洋近代科学のアプローチとは異なるが、ラッカーゼ酵素の働きを巧みに生かすなど、自然の物理的化学的法則性を見事に活用している。

伝統技術の背景にこのような合理的思考の姿勢があったからこそ明治期における西洋近代科学の導入も急速に進んだのであろう。

もう一つ印象深いのは、そうした製造プロセスの創意工夫が長い歴史を通じて無数の人々によって積み重ねられてきていることだ。様々の素材に対して、多様な技法やデザインが生み出されてきた。

無数の職人たちが、師匠から技術を厳しく仕込まれて一人前になった後は、少しでも先代を追い越そうと、倦まず弛まずに新しい工夫をしてきたのであろう。

明治以降においても、また戦後の復興においても、製造現場でのこうした弛まぬ創意工夫の姿勢が急速な産業発展の原動力であった。

精密な自然観察」と「弛まぬ創意工夫」、この二つの姿勢は漆だけでなく、和紙、金箔、磁器、日本刀などの伝統技術を生み出した。

そして和紙技術は電解コンデンサー・ペーパー、金箔技術はプリント基板の電解銅箔、磁器技術は携帯電話のセラミック・フィルターなどに生かされ、それぞれの分野で日本企業が圧倒的な世界シェアを持つ原動力となっている。

21世紀の未来を開くのは、このようなキーマテリアル、キーデバイスである。これらの先端技術分野でどのようにリーダーシップを維持していくかが、もの作り大国・日本に問われている。しかし案ずるには及ばない。

そのお手本はすでに我々のご先祖様が数千年に渡って示してくれているからである。

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