学園祭で取り憑かれたように張り切るヤツっていたじゃないですか?

しまいにゃ、「皆、ちゃんとやろーよ!」と泣き叫ぶヤツ。

それに対して、「うるせーな。もっと上手くやれよ」と言いながら渋々参加するヤツもいて、張り切るヤツをイジることでボジションを獲得するヤツもいて、学校の教室というのは、だいたい、その3つの層で構成されていたと思う。

学校を出て、社会に入っても、まぁ、だいたいそんな感じ。

ただ、やっぱり年齢を重ねてくると、あの日、文化祭で取り憑かれたように張り切っていたヤツの重要性が見えてくる。

今でも、よくあるんです。

学園祭に行くと、学園祭で張り切るヤツの集大成たる『学園祭実行委員』の子達が、楽屋まで案内してくれたり、ステージまで案内してくれたり。

トランシーバーをSEKAI NO OWARIみたいに持って、常に息を切らせながら、「キンコンさんのフォローはコッチでやる!舞台のセッティングはB班、頼む!」と踊る大捜査線。

楽屋を出てエレベーターまでの2~3メートルを猛ダッシュ。

エレベーターのボタンを押すだけでゼエゼエと肩で息をしている。

無駄な動きの多いこと、多いこと。

全ての生命体の中で最も燃費の悪い生き物は『学園祭実行委員の皆さん』で間違いないのだけれど、しかし、この人達をイジることが自分のボジションを獲得する上では最も簡単な方法で、もっと言うと、この人達がいないと「イジる」という行為も生まれない。

つまり、誰も、そして何も前に進まない。

そう考えると、途端、学園祭で張り切るヤツが愛しく見えてきて、『情熱大陸』の小栗旬君ばりにフラフラになりながら茶を注いでくださる学園祭実行委員さんを抱きしめたくなる。

そして、「リア充、死ね」という低カロリーでボジションを獲得しようとするスタンスが、みっともなく、なにより古臭く見えてくる。

まるで体制に噛みついているようで、その実、自分達が多数派だから。

教室の時代から、ずっとそう。

権力は常に「イジる側」が握っている。

だから、応援したくなるんだよね。

ポスト・松岡修造みたいな人を。

特に今の時代、圧倒的に弱いから。

コミュニティーに疑問を感じて単独で外に飛び出した人や、船底に穴が空いていることに目を向けて「このままじゃヤバイって!」と叫び、周りから白い目でみられている人。

個人的には、そういう感じの、立場の弱い人を応援したくなる。

「大丈夫!」と言いたくなる。

でね、この「大丈夫!」は、もしかしたら10代や20代の頃は大丈夫だという確信を持っていないのに言っていたかもしれないけれど、30代後半に差し掛かってくると、心の底から大丈夫だと思えるんだよね。

ここからは『効率』の話ね。

行動する人が大丈夫な理由は、才能は経験値でしかないから、どれだけ器用に立ち回っている人なんかよりも、有無も言わずに突撃していって、成功したり、失敗したり、立て直したり、恥をかいたり…。

そんな経験を積んでいる人の方が、おどろくほど明確に、僕の年齢あたりから力を持ちだすから。

これは、元・ヤンキーの強さと一緒。

10代20代は『センス』という得体の知れないもので誤魔化し乗りきることができるかもしれないけれど、30代も後半に差し掛かってくると圧倒的に『経験』がモノを言う。

失敗経験がなく、立て直し力が備わっていない人は、まず前例を探し、判断に遅れが出る。

そこで、どんどんどんどん差がひらいてくる。

どれだけ御託を並べようが、「ところで、お前は何ができるの?」という質問に即答できないヤツは、ちと厳しい。

何かに挑むとき、まわりの連中は、コチラの人生の責任を取ってくれるわけでもないのに本当に好き勝手なことを言う。

後ろ指もさされる。

しかし、成功や失敗を積んでいることが、果ては才能になるのだから、もうアクセルを踏んだ時点で大丈夫。

学園祭で取り憑かれるように張り切るヤツは大丈夫。

それらの挑戦はズームで見た時には効率は悪いけど、ロングショットで見たときに圧倒的に効率が良い。

だから、頑張ってね。僕は肯定します。

すっかりオジサンになっちまったなぁと思う朝です。

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