江戸時代は庶民の「旅行」が盛行した時代だった。その目的は様々。商売のため、寺社参りのため、娯楽のため…庶民は自分の「国」を出て他国へと足を延ばしたのだ。

しかし、その旅行は完全に「安全」なものではない。現代と違い、旅の途中には多くの困難があり野たれ死ぬ可能性も高かったと考えられる。

それでも江戸時代の人々は、旅に出ることを止めなかった。旅の不安を解消してくれる「救済システム」があったからだ。

江戸のパスポート 旅の不安はどう解消されたか』(柴田純/吉川弘文館)は、江戸時代の人々がいかにして「旅の不安」を克服したか。その答えとなる「旅行難民救済システム」=「パスポート体制」についての研究をまとめた一冊である。

旅人は他国へと赴く際、「往来手形」を所持した。これは身分証明であるとともに、旅の道中、病気や不慮の事態に陥った際、保護を求める文言が記された書面である。この「往来手形」は現代でいうところの、パスポートを想起させる役割をしていた。

一応、江戸時代の「国」について説明しておくと、現代の「都道府県」が江戸時代においての「国」(藩)である。

九州から東北に行くことが、現代における「海外旅行」に近い感覚だと思ってもらえれば分かりやすい。自分の住んでいる国(藩)を出て他国へ行くことは、現代ほど簡単なことではなかった。

しかし、文化も熟し、経済的にも豊かになってきた庶民たちは、様々な目的の下に他国への旅行に繰り出す。その際に所持した「往来手形」の一例を挙げてみよう。

まず「美濃国恵那郡下村喜平母すぎという女」と現住所、世帯主(正確には違うかもしれないが、現代風にいうならば)、氏名といった基本情報が記載され、「願い事があって、西国順礼に出立する」という旅の目的が書かれていた。

そして「うちの旦那に相違ないので、国々の御関所を問題なく通してやってほしい」と、「すぎ」なる女性が所属している「お寺」のお墨付きであることの証明。

さらに、万一病気になった際、病死した際などには適切な処置を求めると共に、「もし夕暮れ時に宿泊場所がない場合は、一夜の宿をお願いしたい」とまで書かれている。

この「往来手形」は、すぎの旦那寺が発行しているが、本人の属する村(町)役人が証人となることもあった。

さらに、旅先でケガや病気などで歩けなくなってしまった際、「本人が望めば、国元まで送還してくれる」という制度も存在した。

「往来手形」をはじめ、旅人の救済システムは、幕府が定めていた「お触れ」なので、日本のどの藩でも対応していた。

つまり、どこの村(町)で行き倒れても、「往来手形」さえ持っていれば、公的に救済措置がなされ、本人の体調が悪くても、たとえお金が底を尽きていても、国元に戻れたということだ。

このような至れり尽くせりの「旅行難民救済システム」が整っていたため、旅の不安は解消され、ますます「旅行」に行く人々が増えたのだそうだ。

それではなぜ、このような救済システムが日本列島の地域社会で実現できていたのか。その理由は、いくつかある。

まず、近世の領主(幕府、藩主、寺社など)は、「領民を保護する」ことを大きな使命と考えていたこと。

自国領民からの年貢が基本的な収入だったこともあり、「領民を守る」ことを第一義に考え、「領民が安全に旅を終えて、無事に帰って来てほしい」という想いがあったのだ。

また領主だけではなく、一般庶民の間でも仏教の「慈悲」、儒教の「仁」の考えが普及し、「弱者救済の思想」があった。

簡単に言えば、「困っている人を見捨てない」という情けの思想だ。元々日本には、そういった「弱者救済の思想」が存在していたことも、「往来手形」に代表される「旅行難民救済システム」が適切に機能した理由だという。

本書を読むまでは、江戸時代の旅は「命懸け」だと思っていた。

何があっても自己責任で、道中、心優しい人に助けられることはあっても、「公に」救済されるシステムが確立していたとは…日本は昔から「親切な」国だったのだなぁと、ちょっとほっこりしたり。

一方本書では、この「往来手形」を「もらえない立場の人」のことにも触れ、パスポート体制の「影」の部分にも迫っている。

「旅」の不安を解消させた画期的な救済システムにご興味を持った方、さらに詳しく「江戸時代の旅行」について学んでみてはいかがだろうか?

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