経営のカリスマ・松下幸之助の名を知らない方はいないと思いますが、彼がどんな時代にどんな思いで創業し、そこから松下電器(現・パナソニック)をどう大企業へと成長させていったのかご存知でしょうか。

無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、激動の時代に興した小さな会社を、数々の困難に見舞われながらも従業員たちと一丸になって乗り越え、ついには日本を代表する企業へと成長させた松下氏の軌跡が、興味深いエピソードとともに紹介されています。

松下幸之助~繁栄と幸せへの道筋

ある日本人の経営コンサルタントが、アメリカはフロリダにあるジュース工場を指導した。従業員に教育を行い、設備はぴかぴかに磨き、その結果、生産性、品質とも見違えるように良くなった

ところが、経営者はその工場を従業員とも他社に売却してしまった。

せっかくここまで良くしたのに、と日本人コンサルタントが文句を言うと、だからそのお陰で高く売れたんじゃないか、心配するな、まだ工場はたくさんあるからお前の仕事はいくらでもある、と答えたそうな。

従業員も設備や建物と同様に金儲けの手段だと考える、いかにもドライな現代アメリカ流の経営思想であるが、最近の日本の経営者の中にも派手な人員削減策を打ち出して、株価を上げようという手合いも見受けられるから他人事ではない。

ここで思い起こされるのが松下幸之助である。「松下電器は何を作っている会社ですか、と聞かれたら、人を作っている会社です。あわせて電気製品も作っていますと答えなさい」と幸之助は社員に教えた。

人を事業の手段だと考えるアメリカ的経営とはまったく異質な発想がここにある。そこには現代の日本人が忘れてしまった大切な教えがあるのではないか。

不況下の出発

大正7(1918)年3月7日、幸之助は大阪の大開町(現在の阪神電車野田駅近く)の借家に「松下電気器具製作所」の看板を掲げた。幸之助の他には、妻のむめの、その弟で後の三洋電機創業者・井植歳男の3人だけの出発であった。

おりしも第一次大戦時の大好況の反動で、諸物価の高騰が庶民の生活を直撃した。

3年前に1升15銭だった米が、40~50銭となり、この夏には41都道府県で100万人を超える民衆が「米よこせ」の暴動に加わった。大阪でも十数万人が米問屋や市役所、警察署を襲い、軍隊が出動する騒ぎだった。

こんな暗い世相の中で、幸之助は前年、電灯用の改良型ソケットを開発したのだが、無名会社の新製品を買ってくれる客はなく、質屋通いで食いつなぐ所まで追い込まれていた。

下請けとして扇風機用の部品を作らせてもらってなんとか年を越し、起死回生をかけて売り出したのが、プラグと長いコードが一体となったアタッチメント・プラグであった。

天井からぶら下がったソケットにはめて、延長コードとして使う簡単な器具である。再生品のプラグ金口を使うことによって、すでに出回っていたものより3割も安くでき、品質も良かったので注文が殺到した。

続いて開発した二股ソケット、電灯用と別にもう一つのプラグがついていて、アイロンなどを同時に使える。これも既存品を改良して5割も安くできたため、売れに売れた

従業員の向上と仕合わせを

大正9(1920)年3月、株式市場の大暴落が起こり、企業倒産が続出、労働者の首切り、賃下げが広がった。労働者を保護する制度もまだない。

これに反発して過激な労働組合運動が急速に広がった。日本最初のメーデーが行われたのが、この年の5月である。こうした不況の中でも独自の工夫で発展してきた幸之助の工場には、この時、28名の従業員がいた。

縁あって松下電器に働く従業員の向上と仕合わせを希(こ)い願い、その実現を図ることは経営主の務めである。また仕事をすすめて行くについては、和親一致の協力が一番大切なことである。

何としても全員心を一に和気あいあいの内に、その従業員の向上発展と福祉の増進を計らねばならない。

出典 http://www.mag2.com

こういう考えのもとに、幸之助も従業員も同じく会員とする「歩一会」を発足させた。みなの心を一つにして、一歩一歩大地を踏みしめて進んでいこう、という趣旨である。

従業員の福祉と向上を計ることが「経営主の務め」という幸之助の思想は、不況になれば首切りも勝手次第という荒々しい資本主義とも、また労働者が結束して資本家に対抗しようという戦闘的な社会主義とも違う、第3の道を目指していた。

大震災後の信用確立

大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、死者・行方不明は10万人を超し、東京市の3分の2が炎上した。東京に営業のために駐在していた井植が命からがら帰阪すると、幸之助は「大事ないか、け、けがはせなんだか」と涙を流して喜んだ。

元気な井植は10日ほど休むと、再び上京して営業活動を再開した。

卸売りの得意先との売り掛け未収金を回収することが最初の仕事だったが、幸之助と打ち合わせて、その条件は未曾有の大災害なので、売掛金は半分だけいただき、これから納める品物の値段は震災前と同じ、というものだった。

「ええっ」と、得意先の主人たちは目を輝かせた。復興し始めた東京では極端な品不足のために、電気器具などは災害前の数倍の高値となっていたが、それを前と同じ値段で、いくらでも供給しようというのだ。

「売掛金は半額で結構」と言ったのに、結局は全額回収できた。中には、自分から支払いを届けてくれる得意先もあった。この一件で「松下」に対する東京での信用は一気に確立した。

世界大恐慌の試練

昭和4(1929)年3月、幸之助は松下電気器具製作所を「松下電器製作所」と改称し、創業10年間の歩みを振り返って企業使命を述べた綱領と、全従業員の進むべき道を説いた信条を制定した(原文はカタカナ書き)。

綱領

営利と社会正義の調和に念慮し国家産業の発展を図り社会生活の改善と向上を期す。

信条

向上発展は各員の和親協力を得るにあらされは難し各員自我を捨て互譲の精神を以て一致協力店務に服すること。

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すぐに、この綱領と信条を試される試練がやってきた。この年の10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界大恐慌は、日本経済も痛撃し、巷には首切り、人員整理の嵐が吹き荒れ、失業者が街にあふれた。

次々と新工場を設立していた松下の売り上げもぴたりととまった。12月の半ばには出荷がほとんどなくなり、連日生産される製品で倉庫は充満し、工場の土間一杯に積み上げられた。

井植は療養中の幸之助に情況を説明し、ひとまず従業員を半減して窮状を打開するしかない、と訴えた。

「大将、おおきに、おおきに」

幸之助も思案に暮れたが、腹をくくってみると打開策が閃いた。

明日から工場は半日勤務にして生産は半減、しかし、従業員には日給の全額を支給する。そのかわり店員は休日を返上し、ストックの販売に全力を傾注すること。…半日分の工賃の損失ぐらい、長い目ぇでみれば一時的の損失で大した問題やない。

それよりも採用して仕事に馴染んだ従業員を解雇して、松下工場への信頼にヒビが入る方が辛いのや。

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翌日、井植が工員や店員を集めて幸之助の決断を伝えた。いよいよ首切りかと覚悟していた所に、思いも寄らぬ話で皆「うわっ」と躍り上がった。

店員たちは鞄に商品見本を詰め込んで、「さあ、売りまくりじゃあ!」と市中に飛びだしていった。販売は心意気である。2ヶ月後には在庫の山がきれいに消え、半日待機をしていた工員たちもふたたびフル操業を開始した。

半年ほどして、療養していた幸之助が各工場を見回りにくると、その姿を見つけた工員が「ひゃあ、大将!」と声をあげた。「大将、おおきに、おおきに」と涙を流す女工、「お帰りやす、大将!」と拍手で迎える従業員。幸之助は思った。

やっと病癒えて出勤し、新たに建設された第5工場、第6工場を見に行き、元気で張り切ってやっているさまをみて、かつて味わったことのない感激にひたったことであった。そして産業報国という信念が湧然と感謝のうちに生まれたのであった。

工場はまた建てたらええがな

昭和9(1934)年9月21日朝、室戸台風が大阪を直撃した。風速60メートルと世界観測史上最大の超大型台風に死者行方不明3,000、負傷者1万5,000、家屋被害47万5,000戸と甚大な被害が出た。

おりしも松下電器は従業員1,800人、門真村2万坪の土地を買って、次々と新工場を完成させた所であった。

最新鋭の第12工場長・後藤清一が叩きつけるような風の中を這うようにして自分の工場に近づくと、その大屋根は北海の激浪さながらに波打っている。

後藤は「みな、作業止めぇ!全員、となりの鉄骨造りの工場へ逃げ込め、グズグズしていると押しつぶされるぞ!」

最後の従業員と後藤が飛び出した途端、大きな響きをあげて第12工場が倒壊した。後藤は台風が通過した後の工場の残骸を見て茫然とした。

そこへ幸之助が姿を現した。「あっ、大将、えらいことになりましたがな」と後藤は言うと、幸之助の心中を思って絶句した。巨費を投じた新工場群がほとんど一瞬にたたきつぶされたのである。

「後藤君、従業員は大事ないか」

「はぁ、幸い怪我人はありまへんが、かんじんの工場のほうが…」

工場はまた建てたらええがな、人間さえ無事やったら

そういうと幸之助は工場の被害など目もくれず、すぐに引き返していった。工場群を見回った後、半壊した本店事務所に幹部たちを集めて言った。

松下も苦しいが、松下の大事な得意先もまたあの暴風雨下、無事やったとは思えん。得意先といえば松下と行動をともにしてくれてる人びとや。そこで「お互いに頑張(きば)ろうやないか」という意味で見舞金を届けたいのや。

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幹部たちは見舞金をもって、泥の海と化した大阪市内や近郊に向かった。自ら最大の被害を受けながら、従業員を気遣い、得意先を励ます幸之助の行動に、従業員は奮い立ち、工場再建は大車輪で進んだ

1万5,000通もの嘆願書

昭和20(1945)年8月16日、敗戦の翌日、幸之助は幹部社員を集めて言った。

松下電器のとる道は、日本の復興再建の道でなければならない。生活必需品の生産に全力を集中しよう。

これがわれわれに課せられた使命だ。従業員はひとりも退職させてはならない。いや、街の失業している人々の協力を求めても、なお足らぬくらいだろう。お互いに手をとりあって増産に邁進しよう。

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10月には生産と販売を軌道に乗せたが、インフレのために資材、人件費が高騰し、売り上げは月100万円にもならないのに、借人金は2億円、その利息負担だけで月80万円と、経営は火の車だった。

翌年11月、占領軍総司令部から幸之助以下、役員すべての公職追放が命ぜられた。ところが、この時、追放解除を叫んで立ち上がったのが、結成されたばかりの松下電器労働組合であった。

時あたかも総司令部の指導で過激な労働運動が燃え盛り、赤旗を振り回して、経営者の追放を要求していた時代である。

「社主幸之助は、全従業員の中心となる大黒柱であり、会社を盛り返し、従業員の生活の安定を保つためには、どうしても追放解除が必要だ」として、全従業員の93%が追放解除嘆願書に署名、さらに1万5,000通もの嘆願書が総司令部に送られた

この熱意が司令部を動かし、わずか半年で幸之助の追放は解除された。

戦後の激しいインフレを「せめて従業員の給料だけは」と膨大な借金をしながら堪え忍んだ松下は、昭和25年の朝鮮戦争特需で息を吹き返し、その後高度成長期に世界的な大企業に成長していく。

「和親一致の協力」

松下が発展した大正から昭和前期の日本は不況、震災、恐慌、台風、敗戦と、危機また危機の連続であった。

それらの危機を乗り越え、そのたびに松下は大きく発展していった。結局、製品や設備を開発したり、問題を解決するという創造性は、人間のみが持ちうる能力である。

幸之助の「人を作り、人を大切にする」という経営は従業員や得意先との「和親一致の協力」を生みだし、それによって度重なる危機を乗り越えてきたのであった。

現在のわが国も不況の底に沈んでいるが、危機の大きさからすれば幸之助の時代とは比べものにならない。

それなのに一向に危機を乗り越えられないのは、多くの企業で「人を作り、人を大切にする」という理念を忘れ、「和親一致」の精神を見失ってしまったからではないだろうか。

それでは企業が繁栄できないだけでなく、従業員を仕合わせにすることもできない。幸之助が生涯をかけて示した繁栄と幸せへの道筋をもう一度、思い起こすべき時だろう。

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