記事提供:テレビPABLO

高見のっぽ/『ノッポさんの「小さい人」となかよくできるかな?―ノッポ流 人生の極意―』(小学館刊)

NHKの工作番組『できるかな』(1970~1990年)で、永きわたって工作の楽しさを子供たちに伝えてきた“ノッポさん”こと高見のっぽ。

番組では一切言葉を発しなかったノッポさんが、先日出版された『ノッポさんの「小さい人」となかよくできるかな?―ノッポ流 人生の極意―』(小学館刊)では存分に語っている。しかも、常人離れしたエピソードを…。

『できるかな』の放送終了後も、絵本作家をはじめ歌手や紙芝居作家として、子供たちと向き合ってきた。本著で語られる“人生の極意”とは、つまりは現代人が苦手と言われる“コミュニケーションの取り方”だ。

それが子供だろうが、大人だろうが、たとえ見知らぬ人であっても向き合う方法があるとノッポさんは語っている。

ノッポさんは、子供たちを「小さい人」と呼ぶ。本著の語り口は不思議なもので、かつて「小さい人」の代表者を語る人物によるインタビュー形式でノッポさんのコミュニケーション術が紐解かれていく。

──そういえば、ノッポさんはどうして「子ども」ではなくて、「小さい人」という呼び方をされるのですか?

「それはね。子どもだからといって、“経験も浅い、物事をよくわかっていない存在”とは、これっぽっちも思っていないからですよ」

──というのは?

「小さい人たちというのは、実にいろいろなことが分かっているのです。大人が思うよりも、いやおそらく大人よりも、ずっとずっと賢いんですから」

──そうなのかなぁ。

「あなただって、そうだったんですよ。忘れているだけ」

──つまりノッポさんは、相手が子どもだからといって自分より下に見たり、バカにしたりすることはない、ということですね。

「もちろん。どんなに幼い子であろうとも、小さい人と向き合う時はいつも、敬意を表しています。“ひとりの人間として対等に、ていねいに”を、心がけていますからね」

出典『ノッポさんの「小さい人」となかよくできるかな?―ノッポ流 人生の極意―』

独特の感性ながら、見えてくるのはどんな相手にも「対等である」という考え方だ。

そんな一方で、ノッポさん自身が「小さい人」だった頃の思い出についても明かしている。しかも、その記憶はなんと「最初の記憶は0歳。赤ん坊の時ですよ」という。

俄かには信じがたいが、実際に「どっかのえらい教授には『ノッポさん、われわれの幼児心理学界では、そんなことはあり得ないのです!』と怒られた」とも。

しかし、ノッポさんはその当時の記憶を鮮明に語っている。

私はヨチヨチ歩きで7か月か6か月…ある日床の中で目を覚ますと、いつも馴な染じみの大きい影が傍らにない。そこで、その影を求めて部屋の中を壁伝いの探索の旅に出た。

なあに探索とはいうものの、玄関先の一部屋で、すぐさまガラスがはまった障子から玄関の土間を往来する両親のふたつの影を見つけた。

ホラ、私んちは当時電気器具店かなんかで玄関の土間に品物を置いていたから、それをあっちへやったり、こっちへやったりしていたんでしょう。

で、私は「フギャー」とやった。

返答はナシ。

そこで再び「フギャフギャー」。

返答はナシ。

「フンギャギャギャー」とやった次の瞬間、私は前のガラスにバリーンと顔を突っ込んだ。ガラスを突き破って顔を出し、そのまぶたの辺りにゃ血の色も。

そこで大きな影は腰を抜かし、抜かしたまんま両手を前に伸ばしてこの私に寄って来る。慌てふためくふたつの影に、小さなこの私は快かい哉さいの念を爆発させていた。「やってやったあ!ほーらいわんこっちゃない!!」

出典『ノッポさんの「小さい人」となかよくできるかな?―ノッポ流 人生の極意―』

情景だけでなく、当時の感情まで覚えているという。村上春樹の小説『1Q86』(新潮社刊)でも“乳児の記憶”が描かれていたが、それよりも遥かに鮮明なものだ。

もちろん嘘でもないだろう。それを驕るわけでもなく、超然と話すことのできるパーソナリティこそ、ノッポさんの魅力なのかもしれない。

<書籍情報>

■『ノッポさんの「小さい人」となかよくできるかな?―ノッポ流 人生の極意―』

発売中

価格:1,400円(税別)

発売元:小学館

公式サイト

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