水玉をモチーフにした作品で知られる前衛芸術家・草間彌生さんが、2016年の文化勲章を受章することが明らかになりました。文化勲章の親授式は、11月3日に皇居で行われます。

草間さんは1929年生まれの87歳。2016年には米「タイム」誌で「アートの世界で急進的で革命的なことを成し遂げてきた」として『世界で最も影響力のある100人』に選出されるなど、海外でも高く評価されています。

病気による幻影に苦しんだ幼少時代

草間さんの描く「水玉」モチーフの作品は「ドット・ペインティング」とも呼ばれています。この独特な世界は、どうやって生まれたのでしょうか。

10歳ころにスケッチした母の絵が残っていますが、無数の水玉が顔や着物にあります。幻覚で水玉が見えたのです。田んぼのあぜ道を歩いていても景色の中に水玉が見えてきました。

出典 http://www.sankei.com

出典 http://tmlarts.com

(1939年10歳のときに母親を描いた絵)

スミレの花が人間に見え、話しかけてきたこともありました。見たものをスケッチブックに描いて、恐怖や驚きを鎮めたのです。それが私の絵の原点です。

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10歳の頃から統合失調症に苦しみ、襲いかかる幻覚や幻聴から自分を守るため、それらを絵に描き留め続けました。草間さんの作品モチーフのかぼちゃも、そんな幻覚の一つ。そんな幻覚に基づく体験は、現在も続いているのだといいます。

16歳で頭角を現し28歳で単身アメリカへ

草間さんが芸術家としての頭角を現してきたのは、16歳の時。「第一回全信州美術展覧会」にわずか16歳で入選を果たします。高等女学校卒業後は、京都市立美術工芸学校で日本画を学びました。寝食も忘れ、毎日数十枚を描き続けたいた日々。

その頃に開いた個展で、精神科医の西丸四方氏が作品に感銘を受け、草間さんをバックアップ、その後の生涯における理解者となるのです。

そして理解者を得た草間さんは、ますますその世界観を深め広げて行きます。そして28歳の時、単身アメリカへ渡ったのです。

命がけで独創的なことをやってきました

水玉は当時だれもやっていなかった。命がけで、独創的なことをやってきました。母は画家になることに反対し、絵を破られ焼かれてしまいました。アメリカへ行ったからこそ芸術家になれたのです。おそらく日本にいたら自殺していたでしょう。自殺を忘れるために描き、描くことで救われたのです。

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ニューヨークでは、日本から持っていった金も底を突き、貧しい生活でした。冬は寒く寝つけないのでひたすら絵を描きました。スタジオでは早朝から夜中まで大きなカンバスに網を描き続けていました。

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そして1959年10月、ニューヨークのギャラリーで個展を開いて発表した「無限の網」が、米紙ニューヨーク・タイムズや美術雑誌で取り上げられ高い評価を得ます。これをきっかけに1960年にはニューヨークの一流画廊と独占契約を結びます。そして、アンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグやジョージ・シーガルらとグループ展示を行うなど、世界のポップ・アートの波に乗って行くのです。

草間さんの活躍はそれだけに留まりませんでした。1967年以降はニューヨークを中心にオランダ、ローマなど世界的に活躍。芸術作品だけでなく、クサマ・ドレスやテキスタイルも手掛け、1969年には自身のブティックを開店と様々なジャンルで活躍して行きます。

ジョセフ・コーネル氏との出会い

ニューヨークを拠点にしていた1962年、草間さんの人生においてとても大きな出会いがありました。親友でありパートナーとなるジョゼフ・コーネル氏との出会いです。

コーネル氏は、着物姿の小柄でキュートな草間さん一目惚れ。出会った翌日から、郵便箱があふれるほどの詩を贈り、一日に何度も電話をし、5時間以上も話しこむ事もあったそうです。

お互いをモデルに絵を描いたり、コーネル氏から山の様に作品を贈られたりと、芸術家同士である2人は、深く理解し合い、共鳴する様に共に過ごし、作品を作り続けました。草間さんは今でも、この時のコーネル氏の作品を幾つか大切に所有しています。

出典 http://www.tate.org.uk

(コーネル氏の描いた草間さん)

パートナーの死、絶望の中から生まれた新たなる創造

しかし1973年、かけがえのないパートナー・コーネル氏が心臓の疾患で亡くなってしまいます。草間さんの悲しみは深く、この事が原因で大きく体調を崩し日本に帰国。入院してしまいアーティスト活動もしばらく出来ない状態でした。

しかしそこから、1975年には個展を開催。「冥界からの死のメッセージ」と題するコラージュ作品を展示しました。また、1976年には個展「生と死への鎮魂に捧げる-オブセッショナルアート展」を開催。コーネル氏の死に必死に向い合う草間さんの戦いだったのかもしれません。

1977年に再入院するも、草間さんはここから更なる世界を広げます。彼女の幼年期の幻視体験をモチーフに小説を執筆、1978年には処女小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表します。そして1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞するのです。

草間さんにとって、入院生活はマイナス要素になるどころか、作品を生み出す基盤となり、現在も病院を拠点とした制作活動を続けています。

小説という新たなジャンルで創作活動を再開し、深い悲しみから復活した草間さんは、1990年代の初め頃に再び芸術作品に活発に取り組み始めます。それと同時に、世界的に評価も高まり、2012年には世界的有名ブランドのルイ・ヴィトンとのコラボレーションを発表。活動の幅を更に広げて行くのです。

一生は一度、大いに戦っていきたい

「恐慌性障害で30年以上も苦しんだ。困難に勝つために描き続けた。芸術は私にとって最高の医師。私は描くのが大好きで、寝る時も描き、死ぬまで描くつもりだ。皆さんが私の作品を鑑賞し、愛してくだされば有難い。私の美術は愛、無限の宇宙に対するメッセージのようなものだ」

出典 http://japanese.joins.com

絵を描くときは無我夢中です。仕上がってみて、なかなか自分でもよく描けている、と思うのです。そこで初めてすこし客観的に見ることができます。最初から出来上がりが見えていることはありません。どうやって描くのかは、手に聞いてほしいくらいです。

出典 http://www.art-it.asia

10月27日に行われた記者会見では「とても感激している」としながらも「受賞は一瞬のこと。私は絵を描いている方が幸福」と語った草間さん。

現在は、2017年2月に国立新美術館で行われる過去最大級となる個展「草間彌生 わが永遠の魂」に向けて、週に6日、1日9時間描き通しの日々なのだそう。「毎日オリジナルの作品をつくるので、頭の中がいっぱいです。一生は一度しかありません、大いに戦っていきたいと思います」と語りました。

「私が死んだ後も、私の創造への意欲と、芸術への希望と、私の情熱を感じていただければ、それに勝る喜びはありません」

出典 http://www.j-cast.com

草間さんの文化勲章受賞を受けて、2008年に公開された草間さんのドキュメンタリー映画『≒草間彌生 わたし大好き』が、11月5日よりアップリンク渋谷にて期間限定で上映されることも決定しました。

草間さん自身「自分の映画に感動して、私は涙に咽びました」と語っているこの映画を見ると、作品への理解が更に深まるかもしれません。この機会に、ぜひ、映画館へ足を運んでみては如何でしょう。

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