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今年も、ひとりの日本人投手がMLB(メジャー・リーグ・ベースボール)デビューした。ロサンゼルス・ドジャースの前田健太だ。決して前評判は高くなかったが、開幕から絶好調。5/7現在、6試合38回を投げて3勝1敗、防御率は1.66。

完璧すぎるメジャーデビューに、アメリカ・メディアも手放しで大絶賛している。しかし、彼とは反対に、大きな期待をされながら結果を出せず、「反逆者」扱いされた日本人投手もいる。そう、伊良部秀輝(享年42歳)だ。

「I‐rob‐you!(アイ・ロブ・ユー、お前から奪い取ってやる!)」かつて、ヤンキース・ファンは、伊良部に向かってこう叫んでいた。

1997年、ニューヨーク・ヤンキースに入団した伊良部は、当時ロサンゼルス・ドジャーズに所属していた野茂英雄のような活躍を期待されていた。実際、彼はヤンキースのエースになると思われていたし、彼の発言も威勢が良かった。

ヤンキースの名物オーナー、ジョージ・スタインブレナー(George Steinbrenner)も、すったもんだの末、ようやくヤンキースのいち員になった伊良部について、「彼は日本とアメリカ全体を敵にしてまで、ヤンキースのために立ち上がった」と、誇らしげに語っていた。

しかし、それから2年も経たないうちに、「ヤツは太ったヒキガエルだ」と糾弾するのだが。そして1999年の冬、モントリオール・エキスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)とのトレードで、伊良部はカナダへと追いやられた。

ニューヨーク・ヤンキースの歴史上、最も前評判の高かった日本人投手の獲得は、失敗の烙印を押されたのだが、そこには伊良部本人にも非があったことは否めない。

千葉ロッテ・マリーンズで活躍していた伊良部は、「日本のノーラン・ライアン」と言われていた。今思えば、これは「次世代のボブ・ディラン」のように、レッテルを貼られる人物たちが辿る運命の前触れだったのかもしれない。

しかし、実際に彼には、そのような過大評価をされる理由があった。

伊良部は、当時の日本球界では珍しく球速150Km/h前半から後半のストレートを投げ、1993年5月3日の登板では158km/hをマークした。これは、当時の日本での最速記録であった。

また、パ・リーグで最多勝利(1994年)、最多奪三振(1994年、1995年)、最優秀防御率(1995年、1996年)と、数々の個人タイトルも獲得していた。

NPB(日本プロ野球)とMLBのレベルの差を超えた能力を伊良部は持っており、したがって彼も、「寿司」、「宇宙戦艦ヤマト」、「ポケモン」のようにアメリカで大成功を収めると期待されていたのだ。

そして伊良部もヤンキースを愛していた。彼はメジャーリーグではなく、「ヤンキース」に拘っていた。当時、NPBとMLB間に、ポスティングシステム(※1)は存在していなかった。

まず、伊良部がMLBに移籍するには、千葉ロッテが承認するか、野茂がドジャースに移籍したときのようにNPBで「引退」し、自由契約選手になるしかなかった。

そこで「MLB移籍なら、どこでもいいだろう」とばかりに千葉ロッテは、伊良部の保有権を提携関係のあったサンディエゴ・パドレスに売却し、いくらかの保証金を回収しようと画策した。

しかし伊良部は、パドレスでのプレーにはまったく興味がなかった。

彼は、ベーブ・ルース(Babe Ruth)、ルー・ゲーリック(Lou Gehrig)、ミッキー・マントル(Mickey Mantle)といった偉大なヤンキース選手たちの足跡を辿ることを熱望し、パドレスとの契約を保留し続けた。

そこで、千葉ロッテ、パドレス、ヤンキースの間で三角トレードが行われ、300万ドル(約3億2千万円)の金銭プラス、将来を嘱望されていたルーベン・リベラ(Ruben Rivera)を含む2選手がヤンキースからパドレスへ移籍。

最終的に伊良部は、4年1280万ドルという条件でヤンキースとの契約を勝ち取った。一連の騒動を大々的にメディアでも取り上げられた伊良部は、過剰なまでの期待とともにニューヨークに到着したのである。

彼はマイナーリーグで調整登板(先発登板6試合、防御率2.32、与四死球1、奪三振34個、登球回31回)をしたのち、1997年7月10日に先発デビュー。その投球内容は6回2/3を2失点4四死球9奪三振。素晴らしいスタートだった。

しかしその後は、先発するたびに炎上した。彼の防御率は7.97まで跳ね上がり、マイナーリーグでの調整を命じられる。

当時のヤンキースの監督だったジョー・トーリ(Joe Torre)は、伊良部が精神的に「とても追い詰められている」と感じていたそうだ。しかし、再びメジャーに昇格してからも先発からは外され、さらに、救援投手としても失敗を繰り返し続けた。

伊良部がマイナーに降格したとき、スタインブレナーは、「ピッチャーとしての彼には大満足だ」「誰かを非難したいのであれば、私を非難すればいい」とスタインブレナーらしくない、寛大な態度を取っていたが、そんな姿勢もそう長く続かなかった。

伊良部が期待通りに活躍できなかった理由は多々あるが、なかでも際立っていたのは、彼の球が打者にとってホームランを打ち易かったことだ。

彼のストレートはバカ正直過ぎた。また、速球以外の球種でストライクを取ることがほとんどできなかったので、バッターは速球を待ち構え、それが来ればフルスイングするだけで良かった。

1998年のシーズン当初は好調を維持し、5月には月間MVPを獲得したが、6月上旬から調子を落とし、6試合連続でホームランを許している。この時期の伊良部の成績は最悪だった。

先発6 投球回30.0 被安打36 被得点21 自責点21 与四球14 奪三振21 被本塁打12 防御率6.30

ちなみに、メジャー在籍6年間で、彼と同等、もしくはそれ以上の投球回を数えたピッチャーのなかで、伊良部以上にホームランを打たれたピッチャーはいなかった。

打たれたホームランの数を帳消しにするほどの「愛すべきキャラクター」も、彼は持ち合わせていなかった。伊良部は無愛想だった。そしてブクブク太っていった。また、メジャーリーガーは、エンターテイナーでなければならない。

われわれ野球ファンは、喜びを与えてくれる選手には拍手を送り、そうでないものにはブーイングを浴びせる。あたりまえのことだ。

しかし、彼にはそれができない。降板する際には、ブーイングするファンに向けてツバを吐きかけ、マスコミを賑わせたこともあった。とにかく気難しい性格で、1998年のキャンプでは、日本人の記者団と騒動を起こし、記者の足を踏みつけた。

また、通訳がついていたにもかかわらず、アメリカ人記者からの質問にも答えたがらなかった。気に食わない質問をされれば、いつも呆れ顔をして無視をしていた。言語の壁もあったのだろうが、チームメイトたちも伊良部に近づかなかった。

数年後の2004年、阪神タイガースの投手として、日本球界に復帰していた伊良部は、ヤンキース時代のチームメイトたちが所属しているタンパベイ・デビルレイズ(現タンパベイ・レイズ)との練習試合に登板。

「彼らとの再会は嬉しかったか?」との質問に、「ノー」と英語で答えている。

テッド・ウィリアムズ(Ted Williams)、タイ・カッブ(Ty Cobb)、レフティー・グローブ(Lefty Grove)など、性格に難があっても、殿堂入りした選手の名前を挙げることはできる。

もし伊良部が、彼らレベルの成績を上げていたなら、彼の悪態は問題にならなかったかもしれないが…。

さらに彼の周りの人間をイライラさせたのは、時折、伊良部はとんでもない実力を発揮したことだ。1998年のシーズン、彼は開幕から、先発登板の11試合で、防御率1.68の好投をし、アメリカン・リーグ5月の月間MVPを受賞した。

しかし、その後は先述した通り、ホームランの集中砲火に遭った。6月以降の防御率は5.88となり、ヤンキースは伊良部をポストシーズンの先発ローテーションから外した。(皮肉にもその年、ヤンキースはワールドシリーズを制覇している)

翌1999年の伊良部は、前年と同様に不安定だった。6月から7月にかけては連勝し(先発登板10試合、6勝0敗、防御率2.88、投球回68回2/3)、7月には自身2度目となる月間MVPを受賞した。しかし、その後はやはり滅多打ちに遭う。

好不調の差が大き過ぎたのだ。その冬、彼はモントリオール・エクスポズへ放出された。

「伊良部は、新たな国、そして新たなチームで、チャンスを掴むだろう」と、ヤンキースのゼネラルマネージャー、ブライアン・キャッシュマン(Brian Cashman)は語った。

「ニューヨークは厳しい。もちろん、すべての選手に当てはまりはしないが伊良部には当てはまった」。ヤンキースに拘っていた伊良部が移籍に同意したのは、彼自身も置かれた状況を理解していたからであろう。

もし理解していなかったとしても、ヤンキースファンやメディアなど、何百万もの人々の中傷によって、彼はその事実を十分に思い知らされていたに違いない。

今考えると、スタインブレナーからファン、メディアまで、ヤンキースに関わるすべての人間は、伊良部に対して真摯に接していなかった。彼は、MLB通算6年のキャリアで34勝35敗、防御率5.15という成績を上げている。

もちろん、この成績では、いくらか非難されても仕方ない。しかし、必要以上に彼を野次ったり、「イーラーブー(I‐rah‐boo)」と、ブーイングをする権利がわれわれにあったのか。叩く権利があったのか。

伊良部は、愛するヤンキースでの失敗だけで十分辛かったはずだ。

出典 YouTube

「なんで伊良部に大金を払ったんだ!」国民的コメディ・ドラマ『となりのサインフェルド』でも伊良部はネタにされている。

伊良部はモントリール、そして、その後のテキサス・レンジャーズでも理想の投球ができなかった。飲酒が原因で意識不明となり、病院に搬送されたりもした。さらに怪我や肺血栓なども見つかり、メジャーリーグでの活動を終える。

2003年、彼は日本球界に復帰、阪神タイガースのリーグ優勝に貢献した。当時の阪神を牽引していたのは、その後のヤンキースにとってもうひとつの大災難となるピッチャー、井川慶だった。

まるで伊良部と井川がお互いの運命を交換し、反対の方向に歩み出したようだった。その後、度重なる怪我もあり、伊良部は引退したが、2009年の40歳のときに現役復帰。

アメリカ西部、カナダ、メキシコのチームで構成された独立リーグ「ゴールデンベースボールリーグ(Golden Baseball League)」のロングビーチ・アーマダ(Long Beach Armada)で、先発ローテーションの一角を担った。

かつてのスター投手、ホセ・リマ(Jose Lima)も同じチームにいた。

レベルの高くない独立リーグは、試合後にファンたちが帽子を回し集金し、選手の給料の足しにするような環境であったが、伊良部はコンディションを整えるため、20kgも減量し、成績もまずまずだった。

その後、四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団したが、それ以上のレベルでプレーする力はもう無かった。2010年に二度目の引退を発表した。

そして、2011年7月27日、彼は首を吊って自殺した。

伊良部は、遺書を残していなかったが、彼には妻と2人の子供がいた。プライベートな問題と、ビジネスの両方でうまくいっていなかったようだ。

伊良部が死を覚悟したとき、何が彼の脳裏をよぎったのか、私にはわからない。

伊良部の自殺と野球は、関係ないかもしれないし、もしMLBで素晴らしい成績を残していたとしても、彼がどんな人生を送っていたのかを知る由もない。

彼が愛されるプレイヤーの要素を持っていたり、殿堂入りを果たすようなキャリアを歩んでいたり、彼の背番号がヤンキースタジアムの壁に飾られるような存在だったとしてもわからない。物事はそんなに簡単ではない。

ただ、辛い出来事に直面した際、色々と思い返してしまうのも人間なのだ。

ブーイングを一身に集め、フェンスを越えるボールばかりを見届けた伊良部のMLBでの選手生活は、彼の自殺とは関係なかったと願いたい。彼のMLBでの失敗からは、大いに学ぶものがある。

それは彼の短いMLBでのキャリア以上のものを示している。「お前には価値がない」などと罵られ、あたかもそれが真実であると納得させられそうになったならば、そんなことを言う連中は、あなたから大切なものを奪い取ろうとしているだけだ。

連中は他人を思いやる気持ち、そして、私たちすべてに必要とされる寛大さを奪い取ろうとしているのだ。「I‐rob‐you(アイ・ロブ・ユー、お前から奪い取ってやる)」なんて声は聞かなくていい。

※1)ポスティングシステム:入札制度による移籍システム。

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