街頭紙芝居がやってきた

激動の昭和の時代を振り返るとともに、現代に残したい当時の学びを探るコーナー「昭和土産ばなし」

1930年(昭和5年)、今の私たちには馴染みのない“あるもの”が子どもたちの大衆的な娯楽として人気を集めていました。

「ウハハハハハハ、黄金バット。正義の怪人、黄金バットの物語…!」

出典加太こうじ著:「紙芝居昭和史」(立風書房)

勢いのある語り口で、たちまち子どもたちを物語の世界に引き込ませた街頭紙芝居です。現代では、漫画やアニメがその技巧を引き継いでいるといわれていますが、一体どのようなものなのでしょうか?今回は、そんな街頭紙芝居について探ります。

「街頭紙芝居」とは?

出典三ツ沢グッチさん提供

空き地などで子どもたちに街頭紙芝居を披露する「紙芝居屋」。そのほとんどは、経営者である「貸元」から紙芝居を借り、活動していました。

紙芝居そのものは、貸元が制作業者に発注、調達しており、絵の制作は「絵描き」、台本の制作は「台本作家」が担っていましたが、絵描きと台本作家は兼業している人も多かったようです。

また、必ずしも絵描きのプロが手がけていたというわけではなく、将来小説家や画家を目指す学生がアルバイトとして関わっていたことも。平均10〜20枚ほどの画用紙に絵の具で絵をつけ、できあがると、塗装を保護するためにニスを塗ります。1枚につき約2銭で請け負い、台本を手がけていた人もいたようです。

知られざる紙芝居の工夫

こうして、できあがった紙芝居は貸元に納品され、紙芝居屋の手に渡ります。しかし、当時は絵と台本は別々だったので、紙芝居屋はどの絵がどの台本のものなのか区別がつかなくなることもありました。そのため、ある工夫が施されていました。

紙芝居の台本構成は、なるべく絵を見ただけでストーリーがわかるように作られていた。特殊な名前などは、絵の裏に簡単にそれだけを記入した。

出典加太こうじ著:「紙芝居昭和史」(立風書房)

「絵を見ただけでストーリーがわかるように…」というのは、観覧する子どもたちにすぐ物語を理解してもらうための工夫ともいえますね。

紙芝居屋はパフォーマンス自体に見物料を取っていたわけではない

紙芝居屋は、ただ台本を読みながら絵をめくるのではなく、セリフに合わせて、太鼓や拍子木をリズミカルに打ち鳴らすといったパフォーマンスをしていました。

絵が次から次へと変わる街頭紙芝居の場面展開は、当時は斬新な技法であり、たちまち子どもたちから人気を集めました。しかし、実は紙芝居屋はパフォーマンス自体に見物料を取っていたわけではないのです。収益には、子どもたちの大好きな“あるお菓子”が関わっていました。

それは、ずばり「アメ」。街頭紙芝居の見物料としてアメを売ることで商売が成り立っていました。アメは、駄菓子屋から買い付ける人もいれば、駄菓子屋へ卸売りをするアメ製造業者から、直接仕入れるなどして調達する人もいたそう。7本あたり約1銭で卸され、子どもたちには1本1銭で売られていました。

したがって、当時の紙芝居屋の仕事は、子どもたちを喜ばせようと紙芝居を披露していただけではありません。貸元から紙芝居を借りたり、アメの仕入れや販売をしたりと、商売人としての働きが前提だったのです。

紙芝居屋は稼ぎの良い仕事だった

紙芝居屋は、収入が不安定な仕事のように思われますが、どうやって生計を立てていたのでしょう?以下は、紙芝居屋の平均的な1日当たりの収支の内訳です。

【売上】
2円50銭

【支出】(各々1日分)
・アメの仕入れ代:35銭
・紙芝居のレンタル料:30銭
・自転車のレンタル料:10銭

【純利益】
70銭

紙芝居屋は一箇所を拠点として活動していたのではなく、子どもたちが集まるスポットを見つけて営業していたといいます。そして、できるだけ収益を上げるには1日に何箇所もめぐることが必要とされたため、移動には自転車が適していたのです。しかし、高価な自転車を手にすることができない人は、上記のようにレンタル料がかかっていました。そうして、最終的な利益は70銭となり、そのまま自らの給料として得られました。

なお、70銭と聞いてもどれだけの利益なのかピンと来ない人もいるかもしれませんが、1日70銭で月の平均営業数の25日を働いたとすると、42円50銭の月収です。これは、当時4人家族で暮らしていける月収だったといわれています。

中には、1日に4〜5円も稼ぎあげ、月収として換算すると、1930年当時で高給取りといわれていた銀行員の中でも課長レベルに匹敵するほどの「人気紙芝居屋」もいました。この当時は、世界恐慌の影響で多大な失業者を生んだ“大不況の時代”だったため、比較的始めやすく稼ぎもよかった紙芝居屋は窮地を救った仕事だったのです。

消えかけた「街頭紙芝居」

しかし、街頭紙芝居は、一時的に姿を消したことがありました。1937年の日中戦争により、紙芝居屋が徐々に軍事産業へ転身したためです。

1945年、戦後になってようやく復活した街頭紙芝居。しかし、戦前と戦後を比較すると、仕事としての意識には変化が現れるようになりました。戦前の紙芝居屋は、子どもたちにエンターテインメントを提供することへのこだわりがありましたが、戦後はアメ売りなどの商売に重点を置くようになったのです。

ただ、行商としての色が強くとも、娯楽を渇望していた子どもたちにとっては嬉しい復活でした。こうして、戦後は街頭紙芝居ブームが再来し、紙芝居屋の人数は膨れ上がりました。

人々が紙芝居離れしていった理由

最盛期を迎えていた街頭紙芝居でしたが、その後急速に勢いを失っていくことになります。原因は1955年に登場したテレビ放送です。

これまでになかった映像の娯楽は、子どもたちだけでなく、大人たちの心も鷲づかみにしました。かつては画期的であった紙芝居も、テレビを求める時代の流れにはついていくことはできなかったのです。

紙芝居屋の数は、1959年末には東京で約300人、全国では約1万人、1971年になると東京で約30人、全国で約300人と減少してしまいました。

こうして、時代とともに消えていった街頭紙芝居。かつて子どもたちが楽しみに待ち構えていた街頭紙芝居は完全に消えてしまったのでしょうか?

いいえ、現在にも街頭紙芝居を普及するべく、「街頭紙芝居パフォーマー」として活動している方はいらっしゃいます。次回は、その街頭紙芝居パフォーマーさんにお話を伺います!

【参考文献 加太こうじ著:「紙芝居昭和史」(立風書房)】

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