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1987年、ジョイス・キャロル・オーツ(Joyce Carol Oates)による『オン・ボクシング(On Boxing)』が出版された。

この著書の中でオーツは、「ボクシングは、純粋たる男性的行為であり、純粋たる男性的世界に存在する」と述べている。

オーツのボクシングへの情熱は、この文章が書かれた同時代の研究の視野を狭めてしまったのかもしれない。

あるいは、女性ボクサーの存在を知ってはいたが、ボクシング自体、そしてその概念に関しては、本質的に「男性的」という特徴を持ち続けると考えていたのかもしれない。おそらく彼女のその考えは間違っていないだろう。

一般的にスポーツ(特にボクシング)は、男性が挑むべきものとして、われわれの集団的無意識のどこかに刻まれている。

現在でも、われわれが女性ボクサーについて語るときは、ただの「ボクサー」ではなく「女性」という申し送りが必要だ。この風潮は格闘技に限らない。

ジェンダーについて研究するマイケル・キンメル(Michael Kimmel)は、権力の中心にいる人物は、自らの特徴を示される必要がない、という事実を見出した。

つまりスポーツをする男性は「アスリート」だが、スポーツをする女性は「女性アスリート」なのだ。

「女性」という修飾語句がつくと、力の中心から追いやられる。「アフリカ系アメリカ人女性」、「アジア系アメリカ人女性」など、他の修飾語句が加わると、周縁化がさらに進む。男性は常にスポーツの中心に、ひいてはスポーツの歴史の中心にいる。

格闘技は男性優位のスポーツなので、女性は格闘技の世界には身を置けない、と主張する人は、ここ300年ずっと存在している。

女性の身体は格闘技に不適格だ、という批判もあるし、ボクシングやレスリングは、常に男性のスポーツであったのだから、女性はその世界に足を踏み入れるべきではない、という主張もある。

しかしそれらの主張は、歴史的には誤りだ。リングの上もマットの上も、金網の中も女性がいるべき場所ではない、という意見は長らくあるが、実は何千年ものあいだ、女性は格闘技の世界で活躍してきたのだ。

都合のいい忘却や過去の改ざんにより、女性格闘家の歴史は消されてしまい、男性主体の体制が残り、女性は、今までもこれからも、そんな男の世界には属せるハズがない、という誤解が蔓延してしまったのだ。

こうして、女性の公式競技による格闘技への参加を阻もうとする人間や、現代の女性…例えば、軍隊、政治、アメフトに参加する女性を邪魔者扱いしたがる向きにより、女性格闘家の歴史は都合良く忘れ去られた。

しかし、印刷機の誕生や、丁寧に保存されたドキュメントのおかげで、この500年間に女性格闘家が存在した、という事実を明らかにする1次資料が、マイクロフィルムとインターネット・データベースに残されている。

そのなかでもエリザベス・ウィルキンソン・ストークス(Elizabeth Wilkinson Stokes)という女性格闘家は、1720年代、新聞に彼女への挑戦状を掲載していた。当時から、闘いはリングだけではなく、メディアでも繰り広げられていたのだ。

全盛期に活躍した格闘家にはビッグマウスが多い。現代の格闘家は、Twitterで大袈裟な発言をするとファンに批判されるが、当時は、大声で喋る人間ほど世間は注目し、さらに、チャンスも手にできたのだ。

18世紀はじめのボクサーたちは、当時の民衆の識字率と新聞の普及率の上昇を生かし、新聞上でのプロモーションを展開した。試合相手を指名し、自ら次の試合を宣伝した。

「国際ボクシング・ホール・オブ・フェーム」で、「ボクシングの父」と認定されているジェームズ・フィグ(James Figg)は、当時のチャンピオンたちがそうしたように、引退してからイギリスで正統な格闘ジムを開いた。

彼の「護身術スクール」では、ボクシング、剣術、棒術を教えていた。フィグはライバルたちを貶めるのに新聞を利用した。無敗を誇る自らのキャリアを読者に思い出させ、自らのジムが最高のトレーニング・スクールである、とプロモートしたのだ。

その生徒のひとりがエリザベス・ウィルキンソン・ストークスであった。彼女は、格闘家としての短いながらドラマティックなキャリアのなかで「アメリカとヨーロッパの女性チャンピオン」として名を馳せた。

エリザベスについて、われわれに与えられている知識は、彼女が新聞に掲載した挑戦状だけだ。1次資料は紛失したり、火事で燃えたり、洪水で流されたりと散逸しがちだが、彼女の挑戦状だけは現存する。

しかし、この挑戦状以外の資料はないため、18世紀(もしかしたら史上)最高の女性ボクサーの実像はいまだ謎のままだ。

エリザベス・ストークスは、18世紀初頭にボクシングの「ヨーロッパ女王」と自称した。そう、彼女は間違いなく「ヨーロッパ女王」であった。

記録されている最初の試合は、1722年、対ハンナ・ハイフィールド(Hannah Hyfield)戦。ストークス側が挑戦状を送った試合だ。ストークスは、ハイフィールドを激しく打ちのめし、24分で完全勝利する。

女子ボクサーの試合は、珍しいものだったので、『London Journal』は、エリザベス・ストークによる挑戦状を再掲載した。

「公共闘技場でのボクシングは、目下、男性のあいだで流行しているが、女性のボクシング参加は今までなかった。しかし先週、2人の女性が初めて、ホックレー・イン・ザ・ホールの闘技場で、勇敢な闘いを繰り広げ、観衆を大いに湧かせた」

同紙はさらに、試合前にエリザベス・ウィルキンソンがハンナ・ハイフィールドに送ったそのやりとりも再掲載した。

「私、クラーケンウェルに住むエリザベス・ウィルキンソンは、ハンナ・ハイフィールドと口論をした。それに対し、償いを要求する。リングに上り、3ギニーをかけボクシングで勝負していただきたい。両手にそれぞれ半クラウン銀貨を握り、最初に銀貨を落としたほうが敗北だ」

ハイフィールドも同じように応えた。

「私、ニューゲート・マーケットのハンナ・ハイフィールドは、エリザベス・ウィルキンソンの断固たる意志を聞き入れ、神が許したまわれば、彼女に与えた言葉以上のブローを必ず与えるだろう。本気のブローでかかってきてほしい。一切の慈悲は不要だ」

ウィルキンソンとハンナ・ハイフィールドは、おそらくこの試合の前にも戦っているが、1722年以前に、ウィルキンソンの名が掲載されている記事はない。

また、「エリザベス・ウィルキンソン」という名前は、歴史家たちのあいだで議論の的でもある。

同時代に殺人を犯し死刑となったロバート・ウィルキンソン(Robert Wilkinson)と、何らかの関わりがあるのではないか、と推測されているのだ。

ロバートは殺人者であったが、同時にボクサーでもあった。1927年にアーサー・L・ヘイワード(Arthur L. Hayward)が『Lives of the Most Remarkable Criminals』という著書を上梓した。

その著書は、18世紀に生きたイギリスの犯罪者たちの伝記集で、1735年の新聞の原本コレクションを元に編纂された。

その中に、ロバート・ウィルキンソンのストーリーも含まれており、そのストーリーを締めくくるのは1922年に再版されたエリザベス・ウィルキンソンとハンナ・ハイフィールドの挑戦状のやりとりだった。

著者はそれについて解説していないが、殺人者ロバート・ウィルキンソンとボクサー、エリザベス・ウィルキンソンのつながりを暗に示している。

ボクシング史の熱心な愛好者は、2人の関係を幅広く研究した。

血の繋がった親戚や配偶者では、という説、凶悪な元ボクサーの殺人者を崇拝したエリザベスが「ウィルキンソン」という姓を拝借しリングネームとして名乗った、という説までさまざまな説がある。

前説は、「エリザベス・ウィルキンソン」という名前が、ハンナ・ハイフィールドに対する公の挑戦状以前の歴史的記録に一切登場していないのをヒントに、エリザベスが改名した、と推測する。

しかし、18世紀のイギリスの若い女性にとっては、成文化された書類に名前が載らないのは、ごくごく当たり前である。

もし、1722年の挑戦状以前の文書があったとしても、それらの文書が長い年月を経てさまざまな事情により散逸し、残っていない可能性がある。

ウィリアム・ホガース(William Hogarth, 1967‐1764)によるジェームズ・フィグ。

ハンナ・ハイフィールドに勝利したのち、エリザベスはジェームズ・フィグ格闘ジムの「主」になった。試合を続けた彼女は、リングの覇者になった。

エリザベスはボクシング活動を通して、当時のジェンダーロールを公然と無視していたが、英国社会から非難されたりはしなかった。むしろ、ちょっと風変わりなブリテン諸島のヒロインだった。

19世紀英国のスポーツ・ジャーナリスト、ピアース・イーガン(Pierce Egan)が英国文化におけるボクシングについてのシリーズを著している。

イーガンは、イギリスで生まれた男たちに固有の「男らしさ」と勇敢さを引き合いに、ボクシング人気を英国のナショナリズムと関連づけた。

しかしイーガンは、ボクシングにおける「国の誇り」は男性社会を超えた、ともいっている。

「女性ボクシング」と題された小さな項では、エリザベスとハンナ・ハイフィールドのやりとりを引き合いに、こう記している。

「女性戦士であってもボクシングの名誉の証を渇望したのだ!」

1722~26年のあいだに、エリザベス・ウィルキンソンは、同じくボクサーのジェームズ・ストークス(James Stokes)の妻、エリザベス・ストークスになる。

ジェームズはエリザベスのプロモーターであり、伝説のボクサー「ジェームズ・フィグ」の仲間(のちに対戦相手となる)だった。

ジェームズとエリザベスのような格闘家同士の結婚は、18世紀の女性ボクサーにとって、一般的であった。その後、エリザベスとジェームズは、夫婦ペアでの挑戦も受けていた。

1726年10月1日土曜日、『The British Gazetteer』で、イギリス人のエリザベス・ストークスとアイルランド人、メアリー・ウェルチ(Mary Welch)の試合が発表された。

会場はエリザベスの夫ジェームズが所有するストークス円形闘技場。広告の下部には注意書きがある。「選手はジャケット、膝下程度の短いペチコート、ホランド・ドロワーズ、白の長靴下、そしてパンプスを着用する」

「私、アイルランド王国のメアリー・ウェルチは、高潔な防衛技術の手ほどきを受け、それを体得した。そして、この競技においては、ヨーロッパ唯一の女性選手だと信じてきた。

しかし、このグレートブリテン王国には、公の舞台で試合をしてきた女性がいるのを知った。それは、ストークス夫人であり、彼女はイギリスの女王だ、と認められている。そこで、この場を借りて私は彼女に、互いの技術で勝負する旨を申し入れる。

会場は彼女の所有する闘技場。彼女がイギリスの女王である事実に疑いないが、私の判断力と勇気のほうが優れているのを証明するためだ」

ウェルチに対してストークスは、自分がリングの上では無敗である、と主張した。

「私、高名なロンドン市のエリザベス・ストークスは、上記で言及されている『技術』と判断力の高さによって、『ロンドンの無敗の女王』という名で知られ、常に勝利と喝采で試合の終わりを演出している。アイルランドの女王の挑戦を受けるのに、何ら逃げ口上を弄するつもりはない。これまで築いてきた名声を保持し、女王エリザベス・ストークスが我が国に名誉を献上する試合になるだろう」

試合の広告はイギリス全土で何度も刷られているが、残念ながら、試合の結果について詳述している書類は、公的なものも私的なものも一切残っていない。しかし、エリザベス・ウィルキンソン・ストークスは無敗のキャリアを誇ったようだ。

1727年7月1日、ストークス夫妻は、エリザベスに敗北を喫したであろう挑戦者メアリー・ウェルチと、彼女のトレーニングパートナーで同じくアイルランド出身のロバート・ベイカー(Robert Baker)、2人のペアから挑戦を受けた。

ペアでの試合だったが、それぞれ男同士、女同士で別々に戦った。その挑戦状で、アイルランドの二人は「ストークス氏と『アマゾネスの女戦士』に試合を申し入れた。『女戦士』は『大したことのない勝利』を重ねただけで天狗になっている」と指摘した。

ストークス夫妻はそれに対し、これまでにないほど皮肉を利かせた、嘲笑的に応えた。

「われわれロンドン市のジェームズ・ストークスとエリザベス・ストークスは、これまでの自分たちのパフォーマンスによって、素晴らしい名声を打ち立てた、と信じている。そのため、これ以上アイルランド人の挑戦を受ける必要は無いはずだ。

しかし、名誉を欲す『アベック』は、われわれにかなわないのを信じようとしない。ただ、彼らの支払いはかなりの額になるので、今回だけは彼らの挑戦に応じよう。もし彼らの夢が、2人で有名になる夢が、2人で敗北を共有する結果になっても、われわれにケチをつけるのではなく、自らの無分別さを認めるくらい彼らが慎み深い人間であるのを願う」

ヨーロッパのボクシングチャンピオンでありつつ、エリザベス・ストークスは若いボクサーたちを育てるインストラクターでもあった。

メアリー・ベイカー戦告知の最後に注釈があった。「女性たちの試合のあいだに、ストークス夫人の教え子2人によるクオータースタッフ(六尺棒)の試合もあり」。

教え子たちの性別など、詳細は見つからないものの、大きな試合会場で教え子を戦わせる当時のエリザベスの権力を表している。

1728年、エリザベスは、かつてないほど厳しい挑戦を、ストーク・ニューイントンのアン・フィールド(Ann Field)というロバ使いの女性から受ける。

歴史家はこの挑戦状をよく引用する。それは、アンの生業が興味深いからでもあろうが、それに対するエリザベスの返答に自信が漲っているからだ。この紙面上でのスマートで笑えるやりとりは、1728年10月7日の試合そのものが霞んでしまうほどだ。

「私、ストーク・ニューイントンのロバ使い、アン・フィールドは、どんな人間と対戦しようとも、自らを守るボクシング能力の高さで知られている。そんな私が、『ヨーロッパの女王』と自称するストークス夫人から攻撃を受けた。そこで、彼女がどれだけすごいボクサーなのかを見させてもらうべく、10ポンドで私と闘うよう、申し入れる。正々堂々と戦おうではないか。私の判断力を提示し、私がステージの女王である、と彼女に認識していただこう。そうなれば私の友人たちも喜ぶであろう」

フィールドの勇気ある挑戦へのストークスからの返事はかなり辛辣だった。

「私、ロンドン市のエリザベス・ストークスは、6年前にビリングスゲートの有名な女性ボクサーと闘い、29分で決着をつけ完全勝利を収めて以来、こういった試合はしていない。しかし、ストーク・ニューイントンの有名なロバ女が10ポンドで私に闘いを挑んでいるので、それを獲得するために彼女に会う、と約束しよう。私のブローは、彼女がこれまでロバたちに与えた打撃よりも間違いなく強いだろう」

続く1728年12月、さらにストークスは再び公共の場での試合を申し込まれる。しかし、今回の彼女に対する挑戦状は、挑戦者の夫が書き手であった。

アイルランド・ダブリン出身トーマス・バレット(Thomas Barret)。自身は「600余りの試合を闘った」といい、妻の「美しいサラ・バレット(Sarah Barret)」をエリザベス・ストークスの「深遠な」才能と戦わせたい、と書いた。

「妻のサラはアイルランド、スコットランド、イングランドで35試合を戦ってきて、これまで一度も負けていない。『ヨーロッパの女王』と同じくらい素晴らしい選手である」と、トーマス・バレットは表現する。

それに対しエリザベスとジェームズは、多くを語らないスタンスで返信した。

「私、ロンドン市のジェームズ・ストークスとエリザベス・ストークスは、もう公共の場で闘うつもりはなかった。しかし、グレートブリテン島北部にいるアイルランド人の新チャンピオン、そして新女王の勇姿について、スコットランド紳士、アイルランド紳士たちから聞き及んでいた。このめぐり合わせには驚きもしない。彼らが劣る、と明らかにしよう。私たちは、必ず名声を手にし、観客全員に満足を与える」

こんな風に、1730年までエリザベスのキャリアは紙面を賑わせ続けた。

1729年5月には、ダブリン出身のチャールズ・ライト(Charles Wright)と、彼の「教え子」であるメアリー・ウォーラー(Mary Waller)が、「高名なロンドン市チャンピオン」ジェームズ、「現在ブリタニア最強の女傑とされている」エリザベスに挑戦状を送った。

その後も挑戦状は続いたが、そのなかでも、最も美辞麗句の多い冗長な挑戦状は、ジョゼフ・パッドン(Joseph Paddon)によるもの。

パッドンは、ストークス夫妻を「2つの金城鉄壁」と称し、2人に向けて、彼自身と「ゆりかごから戦場まで」彼が面倒を見た生徒と闘ってくれ、と挑戦した。

残念ながら、これらの試合の情報は「試合前の冷やかし合い」しか残っていない。19世紀にならないと、イギリスでもアメリカでも、ボクシング専門の出版物は登場しないからだ。

エリザベスは基本的に、ボクシングで格闘家としてのキャリアを積んだが、短刀や短剣のスキルでも知られていた。

エリザベス・ウィルキンソン・ストークスは、イギリス史上、最も尊敬された女性ボクサーだろう。

しかし、性別の規範をものともせず、ボクシングのリングへ上がっていく女性は、彼女が最初でも最後でもない。

彼女がどう生きたかについては、史料が不足しているためにわかるべくもないのが残念だ。

歴史家クリストファー・スラッシャー(Christopher Thrasher)は自著『Disappearance:How Shifting Gendered Boundaries Motivated the Removal of Eighteenth Century Boxing Champion Elizabeth Wilkinson from Historical Memory』の中で、男性優位の時代に合わせて、「社会」が意図的にエリザベス・ウィルキンソン・ストークスの名をボクシング史から消し去ったと主張している。

格闘家のジェームズ・フィグは、現在「ボクシングの父」と称され、彼のキャリアについての文献は何百もある。

しかし、スラッシャーによると、彼らが生きた当時、フィグよりもストークスが人気だったようだ。

スラッシャーは、18世紀から21世紀まで、Google Booksのデータベースを調査した結果、19世紀にはストークス人気が高く、20世紀になるとフィグが彼女を追い抜き、その後、彼女は無名になった、という結果を導きだした。

後期ヴィクトリア朝時代に「男らしさ」というものが復活した際、歴史家たちがこぞってジェームズ・フィグを祭り上げ、逆にエリザベスをコーナーに追いやってしまったのであろう。

※1)ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間を指す。

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