記事提供:子ある日和

1990年12月半ばの夜明け頃に長男が生まれた。助産師さんが夫に電話しても出ないため、私の母に起こされて夫がやって来た。眠たそうで、正直あまり嬉しそうな顔ではなく、母に起こされた事に苛立っている様子だった。

初めての子育ては何をどうして良いか全くわからず、育児雑誌を読んだり、母親学級や助産師さんから教わったことを頼りに何とかその日その日をこなすのが精一杯。母乳を飲ませるとそのまま途中で寝てしまう。

もうお腹いっぱいなのかな?とベッドに寝かせると起きて泣き出す。そんな がむしゃらな毎日だったが、息子は日々成長し、それを写真に撮ることと、育児日記をつけることが楽しかった。

これはまだ息子が私達夫婦が共に暮らし、毎日が平穏で、幸せと呼べる時だった頃の話。

息子が一歳半の時、夫の実家で初節句のお祝いが行われた。民宿を営んでいたため、大広間に親戚や民宿組合の方々やご近所さんなど、100名近くが招かれていた。

息子は初節句用に着物を着せられ、100名近くの一人一人に抱っこされ、人見知りも始まっていたため、ワンワン叫ぶように泣いていた。私まで可哀想で泣けてきた。幾ら風習だからとはいえ、なにも泣き叫んでいる子供をたらい回しにすることはないだろうと、怒りも湧いてきた。

それでも大人達はやめようとはせず、夫に泣いて頼んだが、最後まで息子を私のところには返してはくれなかった。

私達夫婦は結婚前にある約束をしていた。その約束とは私は両親が40過ぎてからの子供で 一人っ子、せめて両親を見送るまでは近くに住まわせて欲しいということを話し、彼も納得してくれたのだった。

義父母はその頃まだ50を過ぎたばかりで、うちの両親を見送ってから帰っても遅くはないと言ってくれていたのだ。

しかし… 初節句のお祝いの頃を境に事態は急変し、職場や私の両親に義父からの嫌がらせと思われる電話や手紙が送られるようになり、二人の実家の中間に引っ越して、住み込みで夫婦で働ける寮の賄いの仕事に就くことになった。

ようやく仕事や住む場所にも慣れてきた半年目頃から、夫が度々仕事に出て来なくなってしまった。私は息子をおぶったりしながら、朝は60名、夜は100名近くの賄いを作った。夫は肩が痛いと言っていたが、仕事が終わり帰るとゲームをした形跡がありありと残っていた。

私は段々我慢出来なくなり、ある日息子を連れて寮を出て、実家へと向かった。実家に帰ってからは、直ぐに仕事を見つけて働き出し、保育園も見つかった。ところが、夫は「俺も寮を辞めてそっちに帰るから やり直そう」と言ってきた。

もう一度信じてみようかな、などと甘く考えてしまったのだ。私達は三人家族として再出発した。しかし、それからひと月も経たないうちに、私はよく眠れない様になり、処方してもらう薬を飲んでも憂鬱感、脱力感、悲哀感などを強く感じるようになっていった。

その後、私は退職し、息子は保育園を辞めてうちで過ごすようになり、何とか毎日公園に連れて行くのだが、私はボンヤリと座って、息子が遊ぶ姿を眺めているのが精一杯になってしまった。

家事や息子の世話すら、何からどうやって始めたら良いのか、頭の中で組み立てられなくなり、感情が無くなっていき、無表情になり、果てには死にたいとまで思うようになっていった。

夫には話したがうなずくばかりで、休みは同僚と釣りに行ってしまう。たまに雨だからと 休みに家にいても、息子を連れて出掛けはするものの、スーパーでおもちゃ付きのお菓子を買って与えるだけで20分もしないうちに帰って来て、一人でゲームを始めたり、一人でドライブに行ってしまうのだった。

私達夫婦はもう無理なんだなと、やっと気付き始めたのもその頃だった。しかし、離婚を切り出す気力すら私にはなく、更に自殺願望が強くなり、夫に「精神科に連れて行って欲しい」とお願いし、入院施設のある精神科に向かった。

担当医師は、私に「死にたいですか?」と聞いた。私は「はい」と答えた。すぐに入院の手配がとられ、夫が「ちょっと待って下さい。入院されたら俺は仕事はどうしたらいいんですか?」と医師に噛み付くように聞いた。

横にいた息子はまだ3歳になったばかりで、ただ不安そうな目をして、私を見ていた。ベッドの準備がなされ、看護師さんに抱えらながら私は診察室を出た。

息子は私が離れていくとわかると「ママ~!ママ~!」とすがるように泣き叫んでいた。私も泣けてきたが、自殺するわけにはいかない。このまま家にいても治る見込みは無いとわかっていたので、振り返ることはせず、黙って看護師さんに連れられ入院部屋に向かった。

夫は翌日から息子を連れて職場に通った。息子にクレヨンとスケッチブックを渡して、絵を描いて遊ばせていたそうだ。ただ、その絵に問題があると同僚から指摘されたらしく、面会の日に私にその話をした。黒と灰色しか使わないという。

それだけで息子の心がどれだけ不安で、クレヨンと同じに真っ黒と灰色の闇の中にいるのかがわかった。涙が溢れたがどうしてやることも出来ない自分にジレンマを感じた。それからしばらくして、私の鬱は快方に向かい始めた。

医師には止められたが離婚を決意した。もうやり直すことは無理だともわかっていたのだ。離婚を切り出すと、一度は夫は荒れた口調で詰ってきたが、案外すんなりと受け入れてくれた。

息子は私の実家で預かってくれることになり、おじいちゃん、おばあちゃんと暮らし始めてから、段々と元気を取り戻し、息子は空を見上げて「春になったらあの雲に乗ってママが帰って来るんだよ!」と 言ったそうだ。

そして「あの子はもう黒いクレヨンも灰色のクレヨンも使わないよ」と母は言い、スケッチブックを広げて、赤や青や緑やオレンジのカラフルに描かれた絵を見せてくれた。私は入院した時とは違い、嬉し涙が止まらなかった。

幼少期に辛い想いをさせてしまった息子も、もう今年の年末には 26歳になる。立派に社会人として働いている。私はまともな子育ても出来なかった、ダメな母親。しかし、息子はいつも私の味方で居続けてくれた。

彼は現在、私の一番の心友であり戦友でもある。LINEで相談に乗ってくれたり、時には音楽の話なんかもする。彼には 一生共に歩める伴侶を見つけて、私が築いてやれなかった、温かな温もりある家庭と、なだらかで平和な人生を歩んで欲しいと願っている。

そして、今になり振り返ると、どんなに過酷だった日々も懐かしい思い出に変わる。前だけを見て生きてゆきたいと思う。悔やんでも過去は変わらないのだから…。

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