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2016年8月29日に発生した「和歌山立てこもり事件」では、31日、立てこもっていた溝畑泰秀(みぞばたやすひで)容疑者が持っていた拳銃で自分の腹を打ち、病院で手当てを受けるも死亡するという結末を迎えました。

立てこもる前には1名を射殺、3名が重体、パトカーにも発砲するなど大変危険な状態だった溝端容疑者。立てこもっていたアパート全11部屋のうち4部屋には住人がいる状態でしたが、立てこもっている部屋は空き室で人質がいない状態。その条件の中、なぜ警察が突入せず説得を続けているのか、ネットでは多くの疑問や憶測が飛び交いました。

理由は1970年に起きたある事件?

溝畑容疑者は、立てこもっている最中にも自分に拳銃を向けるなどの自殺の危険性がありました。強行手段に出て溝畑容疑者が命を落としてしまう可能性があり、それを避ける為に警察は説得を続けていたと思われます。

今回の様な凶悪犯罪でも、警察が強行手段に出にくくなったきっかけとも言われているある事件があります。それは、日本の犯罪史上初めて人質事件での犯人が射殺され人質を救出・解決した事件、1970年に起こった「瀬戸内シージャック事件」です。

事件の始まりは”追い越し禁止”の取り締まりだった

瀬戸内シージャック事件とは、1970年5月12日〜5月13日に瀬戸内海で発生した旅客船ぷりんす号の乗っ取り事件です。

事件の始まりは、その前日の5月11日。山口県の追い越し禁止の国道で、前の車を追い越したとして警察がある車両を取り締まりました。乗っていた男たちの様子がおかしい為、不審に思った警察官がナンバーを照会、その車が盗難車であると判明し、男たちはその場で逮捕されました。

乗っていた3人のうち1人はパトカーで、2人は盗難車を警察官が運転して護送しようとした時でした。盗難車に乗せられた男のうちの1人が、隠していた拳銃を警官に向けたのです。2人の男はナイフで警察官の胸を刺して逃走。警官は全治2週間の怪我を負いました。その2人のうちの1人が、この後「瀬戸内シージャック事件」の犯人となる川藤展久でした。

2人は軽トラックの運転手を人質に逃走

翌5月12日に警察官に発見されるも、川藤はたまたま通り掛かった軽トラックの運転手を人質にその軽トラックで逃走。広島市内の銃砲店に押し入ると、ライフルと散弾銃、実弾380発を奪って更に逃走します。この時、もう1人の男も逃走したものの、その後捕まって逮捕されています。

川藤は仲間が逮捕されたと言うニュースをラジオで聞き、奪った軽トラックを乗り捨てると、今度はタクシーに乗り換え広島港に向かいました。

その時、偶然停泊していたぷりんす号に

広島港にたどり着いた川藤は、待合室で銃を乱射しながら桟橋に向かうと、警戒中の警察官に発砲、怪我を負わせます。そして偶然停泊してい定期客船・ぷりんす号に押し入るとライフル銃で船長を脅し、船を乗っ取りました。この時、ぷりんす号に乗っていた乗組員11人と33人の乗客が人質となりました。

そして川藤は「どこでもいいから大きな街に行け!」と船長を脅し、船を出港させます。

船長の機転で乗客は解放。しかし…

船長は、川藤が船に不慣れである事を見抜き、警察の対応が間に合う様にと、時速およそ7キロというかなりゆっくりとしたスピードで船を進めていました。そして実際には燃料は充分な量が積まれていましたが「給油が必要だから、港に行かないといけない」と川藤に伝えました。

給油係に扮した警察官が乗り込む作戦もありましたが、警戒心の強い川藤は「油をつんでも、人間はつむな」と要求。そこで、給油を条件に人質の解放を交渉。松山港で給油を終えると、川藤は約束通り乗客33人と4人の未成年の乗組員を解放しました。そしてぷりんす号は、7名の乗組員を乗せて再び出港します。

ラジオの報道で全てが台無しに

周囲を警備艇や巡視船など、20隻もの船が取り囲む中、逃走を続けていたぷりんす号。しかし、ここで思わぬ事態が起こりました。今の様に報道規制の厳しい時代と違い、当時のマスコミはスクープ合戦の様な状態でした。その為、ラジオのニュースで 警察がわざとゆっくり給油して時間を稼いでいた事や、その間に隙を見て逮捕しようとしていた事などを放送、それを川藤が聞いてしまったのです。

これに逆上した川藤は、追跡する警備艇に向けてライフルを乱射。この時、警察官1人が撃たれて重傷、強行偵察中の警察のヘリコプターも撃たれて墜落寸前となるなど、事態はますます緊張した状態となりました。

5月13日、警察は最後の手段として肉親による説得を試みます。川藤の父親と姉が巡視船で近付き呼びかけると、川藤はその答えとして巡視船に向け発砲しました。このままでは、いつ人質となった乗組員に危険が及ぶかわからない状態でした。

事態を重く見た警察は特殊銃要員の派遣を要請します。人質事件で初めて、日本の警察が狙撃を目的としたライフル部隊を出動させたのです。

犯人が初めて指示した行き先とは

ぷりんす号が乗っ取られて約12時間後、この時、初めて川藤が行き先を指示しました。それは、最初に乗り込んだ広島港。そこに「逮捕された仲間を連れてこい」と要求したのです。そこで川藤は、仲間を乗せて再び船を出港させようとしていました。

5月13日、約16時間ぶりに広島港に戻ったぷりんす号を待っていたのは、多くのマスコミと野次馬たち、そして取り囲む警察隊。そこに仲間に姿はありませんでした。警察は川藤に投降するように警告しますが、川藤の耳にはその言葉は届きません。逆上した川藤は、港にいる警官や巡視船に威嚇射撃を始めました。

「死んでたまるか、もういっぺん・・・ 」

5月13日午前9時52分、船から約50m離れた防波堤の陰にいた大阪府警の狙撃隊員が、再び甲板に出てきた川藤を狙撃。その銃弾は川藤の左胸を貫通、その場に崩れ落ちました。この様子はテレビで生中継されており、国民に大きなショックを与えた出来事となりましたた。

この時、すぐに警察官に取り押さえられると病院に搬送された川藤は、搬送先の病院で11時25分に死亡しました。狙撃、逮捕された際、傍にいた船長が聞いた川藤最期の言葉は「死んでたまるか。もういっぺん…」だったと言います。

「裁判をしない公開死刑だ」

日本初の「犯人射殺による人質事件の解決」は、人が狙撃されるその瞬間がテレビで中継された事、そして翌日の新聞に血まみれで逮捕される川藤の写真が掲載された事などもあり、国民に大きな衝撃が走りました。「やむをえない」とするものもいれば「射殺は行き過ぎ」「これは裁判をしない公開死刑」などの批判もありました。

また、会田雄次京都大学教授は、模倣犯が出る可能性を示唆し「見せしめが必要」と主張、逆にその「『見せしめ』という発想で命が奪われる事が問題である」と主張する人もいました。一部マスコミは狙撃手となった警官個人を攻撃、誹謗中傷にあうという理不尽な出来事もありました。

しかし、川藤の父が「親として、死んでくれてせめてもの償いができた」と発言した事で、警察の狙撃を批判する声は小さくなっていきました。

警察が殺人罪で告訴

しかし、この事件はこれで終わりませんでした。弁護士により、狙撃した警官と、狙撃を命じた当時の県警本部長が、特別公務員暴行凌虐罪、及び殺人罪で告訴されたのです。これに対し広島地検は「警職法による正当行為」として不起訴としましたが、弁護士側は不服として準起訴手続きを行うも棄却、最高裁でも棄却され「無罪」が確定判するまでの数年間、当事者は辛い生活を強いられました。

この事件がその後、警察による銃器の使用に関して大きな影響を残しているとする人もいます。この事件で、川藤が発砲した実弾は116発。流れ弾を受けた警官が半身不随になったほか、民間人を含めた5人が重軽傷を負いました。この警察の判断が正しかったのかどうかは、今でも賛否が分かれる部分かもしれません。

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