大仏と聞いて多くの方が思い浮かべるのは「奈良の大仏」だと思いますが、かつて京都にこれを優に超える「日本一大きな大仏」があったことをご存知でしょうか? 無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、豊臣秀吉が建立したというこの大仏にまつわる悲しいエピソードが紹介されています。

日本一大きい大仏が京都にあった?

かつて京都には大仏がありました。

三十三間堂の近くに京都国立博物館があります。その博物館のすぐ隣に豊国神社と方広寺があります。大仏殿はこの辺りにあったのです。昔、京都にお住まいの方ならご存知かもわかりませんが、この場所に昭和48年まで大仏があったのです。

この大仏を造ったのは、戦国時代の天下人・豊臣秀吉です。派手好きの秀吉は、奈良の東大寺にある大仏よりも大きな大仏を京都に造ったのです。

1595年に方広寺の大仏は完成しました。この時大仏を造るにあたって導入した制度があります。有名な「刀狩」ですね。この大仏の工事で必要となった金属類は、刀狩りによって調達されているのです。

当時の農民たちから刀や槍を取り上げて非武装化するのに都合のよい理由だったのです。秀吉もよく考えますよね!完成した大仏の高さは約19メートルで、大仏殿の高さは50メートルもありました。ちなみに東大寺の大仏の高さは約15メートルです。

日本一の大仏が京都にはあったのです。しかし、この大仏は完成した翌年に地震で崩壊してしまいます。ただ、大仏殿は崩れなかったため、善光寺の阿弥陀如来像を京都に移転して安置しました。

しかし、この阿弥陀如来像はすぐに善光寺に戻され、すぐにまた大仏が造られました。その後、大仏は完成しましたが、開眼供養を行う前に秀吉は亡くなります。そして、この大仏殿が後に豊臣家滅亡の引き金となりました。

大仏を次々と襲った「不運」な出来事とは

秀吉の死後、間もなく大仏は今度は火災によって焼失します。その後、徳川家康は、豊臣家の財産を使い果たさせるために、秀吉の子・秀頼に大仏の再建を薦めました。秀頼は家康の薦めに応じて再建を行います。そして、大仏殿の総仕上げとして鐘が造られました。

その銘文に「国家安康」と「君臣豊楽」という2つの言葉がありました。この言葉を見て、徳川家康の側近、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が言いがかりをつけます。「これは家康を呪う言葉と豊臣の繁栄を願う言葉である」と豊臣家に忠告したのです。

この金の銘文がきっかけとなって大阪冬の陣が始まります。そして、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅びてしまいました。秀吉が造った大仏が息子・秀頼の代に豊臣家滅亡のきっかけとなってしまったのです。とても皮肉な結末ですが、それも運命なのでしょう。

その後、大仏は豊臣家の滅亡後も京都に残っていました。しかし、この大仏には不運なことが度々起こります。江戸時代初期、1662年に、再び京都に地震が起こり大仏は崩壊します。この時崩壊した大仏に使われていた金銅は鋳つぶされて銅銭にされました。

そして、今度は木造の大仏が造られたのです。この時に造られた大仏も落雷によって焼失を繰り返しました。しかし、この大仏も昭和48年に火災によって焼失し、それ以降再建はされていません。

今も残る「豊臣家滅亡」の原因となった鐘

今では、方広寺大仏殿跡が残り、近くには豊臣家滅亡の原因となった鐘が残っています。その鐘には今でも「国家安康」と「君臣豊楽」という2つの言葉が残されています。目立つように白くその部分に印がついているので、近くで確認することが出来ます。

三十三間堂、智積院、国立博物館などを訪れる際には是非方広寺に立ち寄ってみて下さい。いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス