記事提供:ORICON STYLE

『シン・ゴジラ』は、今年の映画界のエポックメイキングな興行になった。最終の興収で60億円突破がほぼ確実になり、今後の展開いかんでは、さらにその上の成績も見込まれる。

ハリウッド版のゴジラ映画を凌駕し、ゴジラ映画初期でも6本しかない500万人動員以上(本作の興収なら70億円を超える)に迫ることもありえる。

つまるところ日本ゴジラは『シン・ゴジラ』により、再び息を吹き返し新たな時代を迎えることになったのである。

企画段階でバイアスがかけられることが多い製作委員会方式

中身に関しては、すでにいろいろ取りざたされているが、ひとつ製作面で重要なことがある。本作が、東宝による“単独”で製作されたことだ。これは、製作委員会方式と言われる企業数社参加型の製作体制が主流の今の映画界では、全く稀なことなのである。

東宝は、これまですべてのゴジラ映画を自社単独で製作してきた(ハリウッド版は除く)。ゴジラ(映画)は、東宝が戦後長く培ってきた同社のブランドであり、これに他社の参加を募ることはしないということだ。

その東宝による単独製作が、今回の興行に好影響を見せたという説がある。製作委員会であれば、多くの企業が中身にいろいろ注文をつけると、まことしやかに言われる。お金を出すから、口も出すということらしい。

だが今回は単独だったから、監督を筆頭とした製作陣は、東宝1社と対峙するだけでいい。東宝の意向を汲めば、あとは自分たちが伸び伸びと製作に専念できる。

製作の過程で、いわば自由さがある程度担保できた。これが作品の成果となり、大ヒットに結びついた。一理あると思う。

だが、各企業が製作に注文をつけるという事実は、どこまで信憑性があるかといえば、それはかなり曖昧なところもある。あくまで出資に専念し、中身への注文はあまりしないという意見も聞くからだ。だが、とここで思う。

製作委員会方式は、そもそものスタートから、企画にバイアスがかけられることが多いのではないかと。各企業に出資を募る以上、自ずと安全パイ路線、つまり危ない要素がある題材や、過激な中身をもつ企画は排除される。そんな気がしてならないのだ。

日本映画界に投げかけられた、東宝が単独製作で成し遂げた意味

『シン・ゴジラ』は、ゴジラの出現が大災害や軍事的な緊急事態を想起させる作品構造になっていることからも、極めて野心的な中身をもつと言える。

東日本大震災以降、大きく揺らぐ日本という国家と日本人の像が、国家権力中枢という限定的な領域ながら、実に生々しく描かれている。娯楽大作のなかに、このような視点を取り入れるのは珍しくはない。

だが、その緊迫感、リアル感が半端ないので、観る者にとても強く訴えかけてくるのである。

これを東宝単独の製作で成し遂げた意味は、今の日本映画界にとって、計り知れないほど大きい。もちろん、製作委員会方式で作れないこともないとは思う。

だが、庵野秀明総監督をはじめとするスタッフの力量に賭け、10億円以上とも言われる製作費を捻出し、さらに高額な宣伝費を投入した。

興行の成果がどこまでか判断できないなかで、これらをすべて東宝が単独で担った。1社で責任を負うことが重要なのである。

製作委員会方式はこれからも、当分の間は邦画製作の主流であり続けるだろう。製作のリスクヘッジ、宣伝面での効果など、多くのメリット部分が、まだまだ存分にあるからだ。

だが、先ほども指摘したように、その弊害は実はあまり目立たないところに出てくる。最大公約数的な企画の無難さ、凡庸さのなかから、そつのない娯楽作が連発されていくということである。

そうした作品も必要ではあるが(というより、こちらが邦画のヒットの主流)、しだいにマンネリ化を呼び起こし、邦画はいつの間にか、チャレンジ精神を忘れていく。これを恐れるのだ。

『シン・ゴジラ』の空前の大ヒットは、日本映画界の製作(委員会方式)構造を、今一度考えさせる機運を与えてくれたのではないか。

作品の中身や興行面ばかりが、映画の成果ではない。映画における荘厳なゴジラの問答無用のすさまじい放射光は、実は映画界にも、その矛先が向いていたことを知るべきだろう。

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