記事提供:赤すぐみんなの体験記

たまにではあるが、夫と二人きりで出かけるようにしている。いわゆるデートってやつだ。

結婚記念日や互いの誕生日などに娘を実家にあずけ、普段は行けないような場所(子連れでは入れないレストランや映画館)へ行く。

子どもの世話から開放されて気分転換をする、という目的も当然あるけれど、わたしにとってはそれ以上に大きな意味を持っている。

前回のエピソード:わたしはいつも、いつでも、あなたに守られてきた ~父の日に思うこと~

娘(現4歳)が生まれてからというもの、夫に対して、「なんでこの人と結婚したのだっけ?」と分からなくなってしまうことがよくあった。娘がまだ0歳のとき、慣れない育児に目を回していた頃なんかは特に。

共に生活し、支え合い、子どもの成長を見守るパートナーであるはずの夫が、ただわたしをイライラさせるだけの存在に思えてきてしまうのだ。

「なぜ洗い物の汚れぐらいきちんと落とせないんだろう」

「なぜ何回言っても分からないんだろう」

「なぜわたしの気持ちを理解できないんだろう」

小さな不満も積み重なれば大きな山となり、それはそのまま夫への嫌悪感となってわたしの中に住み続けた。仕事に家事に子どもの面倒、毎日やることがたくさんあった。

わたしたちは互いの配偶者であり、共に子どもの親であるけれど、その役割を全うしようとすればするほど、心は離れていってしまうような気がした。

こうして、夫との結婚生活に自信をなくしつつあったわたしであるが、それを取り戻すきっかけとなったのが、冒頭で述べた夫とのデートなのである。

しばし子どものいる空間から離れ、「ただのわたし」と「ただのあなた」になって時間を過ごすことが、わたしの気持ちに変化をもたらしたのだ。

「なぜこの人と一緒にいるのか」ということを理屈ではなく、感覚でするりと受け入れることができた。

彼は、「お金を稼ぐ人」でもなく、「洗い物をする人」でもなく、「子の寝かしつけをする人」でもない。

わたしと共に生きてくれているパートナーなのだ。昔も今もこれからも、わたしのとなりで笑っていてほしい人なのだ。そんなことを思い出すことができた。

思えばわたしは、相手に「いい父親・いい夫としての役割を全うしてほしい」という思いに固執するあまり、広い視野で物事を見ることができなくなっていた。

どこからか借りてきた「都合の良い父親(夫)像」に夫を重ね合わせ、「これが出来て当然」「そうじゃなくてこう」と、まるで上司のように(しかも悪い)、彼の行動をチェックし、要求を押し付けていたのだ。

そしてそれは、わたしの中にある「母親としての不甲斐なさ」を覆い隠すのに役立っていたのだと思う。

わたしは夫にするのと同じように、自分自身に対しても、借り物の「いい母親像」を重ね合わせ、少しでもだめなところがあれば容赦なく自分を責めていたのだ。

けれども二人で過ごす時間を通して、生活するうえでは欠点に思えるような部分も、それは「愛するものの一部」なのだということを思い起こすことができたのだった。

今後もまた、環境が変わるごとにわたしたちの役割も変化し、それに伴い新たな問題にぶつかることだろう。けれどもその問題にぶつかったときに、わたしたちの関係が終わるのではない。

わたしたちのどちらか(もしくは両方)が、相手を愛することをあきらめたとき、この関係は終わるのである。それさえ分かっていれば、わたしたちはどんなときも「協力」できる。押し付けるのでも、命令するのでもなく。



子連れでは絶対に来れないだろうと思われる上品な雰囲気のレストランに、わたしたちはやってきた。今日ばかりは「どっちが子どもにご飯を食べさせるか」「ぐずったときどう対応するか」など気にしてソワソワする必要もない。

まるで恋人同士に戻ったような気分。けれどももう、わたしたちはあの頃とは違う。

「こんなところに娘ちゃん連れて来たらかなりヒンシュクだよね。笑」

顔を真っ赤にして泣く、「もう一人の家族」のことを思い浮かべて、わたしたちはクスクスと笑い合った。わたしの家族になってくれたのがこの人たちで本当によかった。そんな風に思った。

このあと、席に座ってニコニコとメニューを眺める夫に、「コート脱がなくていいの?」と促すと、急に 「しまった」という顔になり「コートの下、下着のシャツしか着てない」と謎の失態を告白されたわたしが、

しばしの間「は?」という顔のまま固まって、「なんでこんな人と結婚したんだろう?」という思いを巡らせることになるのだが、それはまた、別の話。

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