記事提供:messy

ひと月ほど前のことですが、東京銀座のヴァニラ画廊で開催された『シリアルキラー展』(6月9日~7月10日)に行ってきました。最終日に足を運んだのですが、会場は長蛇の列で大盛況、男女比はおおよそ男3:女7という割合でした。

SNSなどで検索すると、『シリアルキラー展』は連日大賑わいであり、かつ大半が女性客であるという情報が散見されていましたので、この日も連日と変わらぬ賑わいを見せていたのでしょう。

この展示のパンフレットに記載されていた作品所有者であるコレクターH・N氏によれば、

「誰かに見せるわけでもなく、ましてや自慢できるようなものではない、孤独に蒐集してきたコレクションであるが、これらのものを通じて、彼らの精神世界を覗くことの意義はゼロではないと信じたい。

犯罪者への憧れをいたずらに増長させるものではなく、個々人がそれぞれに抱えているであろう人間の黒い穴と向き合う場になればと今回の展覧会に踏み切った」

という展覧会開催の経緯と意図があるようです。

『シリアルキラー展』が連日大盛況であった背景には、H・N氏が言うところの「人間の黒い穴」、決して足を踏み入れたくはない、得体の知れない底なしの深くて残酷な真っ黒な穴を覗きたい・紐解きたい欲望を持っている人がいること。

また、その穴は、シリアルキラーだけでなく、自分の中にも開いているのではないだろうか?と思っている人も少なくないことが考えられるのではないでしょうか。

殺人や暴行は憎むべき、この世からなくなるべき犯罪ですが、人間は誰しも、少なからず破壊や暴力的な衝動を抱えていることも確かです。

「いやいや、私は全く破壊や暴力的な衝動なんて持っていないです」と思っている人がいるとしても、人間同士がコミュニケーションをすれば、図らずも他者を傷つけるなど加害者になることもありますから、

やはり、暴力性と無縁に生きられる人はいないでしょう。

もちろん他者への暴力や他者の権利の侵害行為は許されてはならないものですし、破壊や暴力的な衝動は、抑圧したり運動や創作活動といった暴力とは別の形にして昇華したりしながら生きていかなければなりませんが、

抑圧や昇華をしたとしても、または出来るだけ破壊や暴力的にならぬよう、心静かに生きることに努めても、破壊や暴力的な衝動そのものをないものにはできません。

いくら暴力を嫌悪しても、自分自身が持っている暴力性から逃れることはできないのです。それに、自分自身の持っている暴力性を例外化したり、加害者意識への想像力を無くす方が、よほど暴力的です。

創作物の暴力描写などは、被害者を生まずに昇華された暴力性の形のひとつです。

それを、「似た属性を持つ人が内面化したり、影響を受けて暴力を働く人がいるかも」と批判する向きもありますが、有形化した暴力性をまなざすことは、己の中の暴力性や加害者性と向き合うことになり得ます。

もちろん、被害者の存在する犯罪を犯した人間の創作物ですから、創作物そのものに犠牲になる被害者は存在しなくとも、

「加害者がその加害行為に関連するかのように見える創作活動を行うことの被害者や被害者の家族や友人、遺族に対する二次加害性」や、「犯罪者であるというある種の知名度を利用して表現活動やビジネスをすることの是非」

という表現の自由と二次加害行為にまつわる問題が発生します。

アメリカでは、映画『It』のモデルにもなった殺人ピエロことジョン・ウェイン・ゲイシーは、元々絵画の素養があったため、刑務所の中でそれを一大ビジネス化し、ファンレターでリクエストを受付け、オーダーメイドの絵画販売をしたそうです。

ゲイシーの絵画があまりにも有名になったことにより、アメリカの刑務所では殺人犯の間で絵を売ることが流行しました。

しかしその際に、犯罪者の作品を一番多く購入したのは、犯罪加害者の創作物が被害者の二次加害になることをなくすことを目的とする被害者の遺族団体であり、彼らは購入した犯罪者の創作物を焼却処分したそうです。

このことからも、犯罪者の創作活動が多くの問題を孕んでいることがわかります。

『シリアルキラー展』に出品されたシリアルキラーたちの作品は、描写技術のクオリティが高いわけでもなく、純粋な芸術作品としての価値があるとも思えないものですが、そこには確かに「人間の黒い穴」とも言うべきものがあるように見えました。

とりわけ、前述したジョン・ウェイン・ゲイシーの「七人の小人」や「道化のポゴ」の絵などが顕著です。

写実的かつ厚塗りで描かれた背景に、平面的に陰影もなくのっぺりと描かれたゲイシーの七人の小人たちは、キャンパスにこびりついた得体の知れない染みのようです。

私は、こうした、「人間の黒い穴」とも言うべき人間の残酷さや有形化した暴力性をまなざす観客が、男性に偏らず、女性が非常に多かったということは、ジェンダー・セクシュアリティの観点から重要であると思いました。

それは、男性よりも女性の方が、より破壊衝動や暴力性を抑圧されている現状があると類推できるからです。

性別二元論において「ケア」や「育児」、「客体性」などの役割を強く求められ、男性よりも性暴力などの被害者になる割合が高い女性は、現実だけでなく、表現行為においても破壊衝動や暴力性を抑圧されてきた歴史があります。

絵画においては、女性が描くモチーフは、スケールの大きい(経費のかかる)風景や群像よりも、花や子供といった身近な(経費のあまりかからない)ものが推奨された過去がありますし、

現在においても、女性が創作した作品の評価に際して、「女性ならではの」「母としての」という視点が強く求められることもあり、

これは、「女性ならではの」「母としての」という性別二元論異性愛中心主義にとって都合の良い枕詞によって評されないような、性別二元論異性愛中心主義以外の欲望を排除するものと見ることもできます。

自らが抑圧している欲望をまなざすこと、抑圧された欲望をまなざすことによって、自らの中に確かにある破壊衝動や暴力性の存在を認めることは、抑圧している欲望を昇華すること、抑圧から解放されることにもなり得ます。

犯罪者の作品だけでなく、犯罪とは無関係で被害者の存在しない作品においても、過剰な暴力表現や過激な性表現などは、眉をひそめられ、時に規制を求める声が上がることもあります。

もちろん過剰な暴力表現や過激な性表現などがある作品は、ゾーニングされる必要はあると思いますが、

そうした表現をすることや、表現をまなざすことそのものを規制すれば、性別二元論異性愛中心主義によって女性に課せられた「客体性」は加速し、規範による抑圧からの解放も遠のくように思うのです。

『シリアルキラー展』の客層が女性中心であったことは、もっと深く、多角的に考えられるべきであるのではないでしょうか。

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