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記事提供:ダ・ヴィンチニュース

2015年に大ベストセラーとなった『京都ぎらい』。そのもととなった本が出版された。『関西人の正体』(井上章一/朝日新聞出版)だ。

本書は、1995年に井上氏が出版した一冊であり、その内容を手直しせず、再出版したものだ。私は本書を読んで大変共感した。本の帯には「抱腹絶倒」と書いてあるが、全く笑えなかった。井上氏の気持ちが痛々しいほど分かったからだ。

エセ関西弁

ドラマやアニメで、たまに関西弁を喋る人物が登場する。関西人としては、このエセ関西人が登場した段階でゲンナリする。アクセントがひどいからだ。さらに井上氏は邪推する。

「関西弁の正誤はきっとどうでもいい」「とにかく関西らしさを誇張したいだけ」。つまり男性が女性に「女らしさ」を求めるように、関西弁を誇張することで道化的な役割を求めているのだ。私は全くその通りだと思った。

変な関西弁を聞いて、どうしてあんなに不快だったのかとうとう判明した。関西弁を喋る登場人物たちは、どうもコッケイな役が多かった。関西弁とは、偏見を持った東京人に押しつけられた悪役だったのだ。

嵐山でさえ洛外

みなさんお待ちかね、京都人の悪口を書こう。私は京都府出身だ。したがって、京都人のことは分かる。彼らは京都を誇っている。しかし、京都を誇るにも権利が必要だ。「どこに住んでいるか」が大切なのだ。

京都市の中心地「上京区」「中京区」「下京区」に住んでいないと、京都人が、京都人として、認定してくれないのだ。ややこしくて醜い話である。上記3つの区が洛中であり、それを外れると洛外だ。田舎モンなのだ。

嵐山は右京区なので、洛外だ。宇治市も洛外だ。もちろん「お前、田舎モンだな」なんて面と向かっては言わない。余計不快だ。私はこれが理解できなかった。この発想が「かつての都」として廃れた理由ではないかと思う。

そんな不快感を抱えて上京すると、東京でも同じことが起こっていた。皮肉な話である。練馬区は東京ではないらしい。中野区は物好きが住む街と言われた。東京にカブレた友人が「俺、港区に住んでいるんだ」なんて自慢してきた。

おう、勝手に住めや。地名ブランドに取りつかれて毎月高い家賃を払って満足できるなら、これからも不動産屋にたかられ続ければいい。

井上氏も私も、京都人からしてみれば洛外に住む人間だ。ひねくれているのかもしれない。いや、恥じているのかもしれない。『京都ぎらい』のルーツも、全くもって共感してしまった。

大阪の「底」力

1992年、NHKのラジオ局が画期的な試みを行った。「大阪弁でしゃべろうデー」なる企画を行ったという。その日の9時間、番組の枠を越えて、大阪弁で放送を押し切った。

井上氏はこの出来事を歓迎するどころか、嘆いている。NHKは方言撲滅運動の推進母体らしい。NHKこそが標準語を全国に広めていった張本人というのだ。

ところが、そのNHKが大阪弁を肯定する企画を行った。人間は、数が増えすぎた生物を駆除する。しかし、その生物の絶対数が減ってくると、一転し、保護に回る。つまり、大阪弁も保護の対象となってしまったのだ。

こんな話も書いてある。大阪の行政が、大阪を宣伝するポスターを東京に貼りまくった時期があるらしい。そんなものこそ「地方都市」がやるべき行為だ。

かつての日本の中心地である大阪がやるべきことではない。…いや、やらざるを得なくなったのか?そこまで大阪は堕ちたのか?私が関西に住んでいたとき、こんな言葉をテレビで聞いた。

「大阪には底力がある」。…は?「底」ってなんやねん。すでにジリ貧みたいないい方やないか。負けを認めとるんと違うか?東京のテレビでは絶対に「東京には底力がある」とは言わない。力が有り余っているからだ。

かつての天下の大阪も、とうとう正式に負けを認める時代になってしまった。

私は本書を誤解していた。てっきり、関西嫌いの井上氏が、関西の嫌なところを延々と書いているのかと思っていた。

しかし、実際は関西が大好きで、段々衰退していく関西が見ていられなくて、悔しい心情がありありと書かれている。

井上氏は本書で、関西の現状を、関西を誤解して喚きたてる周りの環境を、嘆いているのだ。私は痛く共感した。京都の「勘違い京都人」は滅べばいいと思っているが、それでも私は京都が好きだ。私は関西が大好きだ。

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