記事提供:LITALICO 発達ナビ

相模原で起こった、痛ましい障害者殺傷事件。犯人の言動や人格を異常なものとして語る声が多く聞こえてきます。でも、私たちも子育ての中で「障害者なんてこの世にいない方がいい」そんな考えを我が子に植え付けているかもしれません。

相模原で起きた障害者殺傷事件に寄せて

7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員の男が刃物を持って侵入して入所者らを次々に刺し、19人が死亡、26人が負傷する事件が起こりました。

逮捕された容疑者は、

「障害者は不幸を作ることしかできません」

「安楽死にすればいい」

などといった発言を犯行前後にしており、私も、知的障害のある子を持つ母として、非常に悔しい思いで、涙が出てしまいました。

テレビやインターネット上でも、この容疑者の言動や人格の異常さを非難する声が多く見られますが、そうした意見を目にするなかで、私にある問題意識が浮かんできました。

この犯人を「異常な心理を持つサイコパス」とし、“別世界の人”と見てしまうだけでよいのだろうか?

実際にこんな事件を起こさなくても、同じような考え方の根っこを、まだまだ世間や私たちは持っていないだろうか?そしてそのような考え方を子どもたちが持つきっかけを、私たち大人が与えてはいないだろうか?

今回の記事では、『1人でできる子に育つ テキトー母さん流 子育てのコツ』の著者、立石美津子が、障害のある人への排除の問題と、インクルーシブな共生社会に向けた考え方をお話します。

世間にまだまだはびこっている、「障害者差別」の考え方

近年は障害者差別解消法の施行やインクルーシブ教育の浸透によって、以前よりも障害者に対する偏見は改善しているようにも見えます。

しかし、障害者に対する差別的な姿勢は、世間からまだまだ消えていないように私は思います。今回の事件の報道のあり方にもそれが表れているでしょう。

今回の事件で、殺された被害者の実名や写真が何日経っても報道されないことについて、私は疑問に思っていたところ、以下のような記述を発見しました。

県警は26日の事件発生以降、被害者名を「A子さん19歳」「S男さん43歳」などと記号化して公表している。非公表の理由は「(現場が)障害者施設で障害者という条件のため。遺族による強い希望もあり、そのような判断をした」という。

出典 http://headlines.yahoo.co.jp

私はここで、「何がなんでも被害者名を報道すべきである」ということを言いたいわけではありません。

被害者名が公開されれば、自宅に報道陣が押し寄せ、その友人や近所の人にも取材が行き、出身の学校まで報道陣が押し寄せます。ご遺族の方が公表を拒否したというのも、無理はないことでしょう。

ですが、今回の神奈川県警の発表で気になるのは、事件が“障害者施設で障害者という条件”で起こったため、実名を非公表にしたという、その理由付けです。

障害者施設での事件だからということを理由として、通常とは異なる「例外対応」をすることそれ自体が、障害者を特別扱い、あるいは差別しているように思います。

本来なら、事件報道における実名・写真の公表が、被害者の障害のある無しに関わらずどうであるべきかを考えた上で、犠牲者一般に対して同様の原則を適用すべきでしょう。

こうした報道姿勢にも、「障害者の生きる世界は、自分たちとは違う特殊な世界」という差別の考えが、無意識下に働いてはいないだろうかと、懸念を覚えます。

大人の無意識な言動が、子どもの考えの根っこをつくる

こうした私たち大人がつくりだす障害者に対する差別的な姿勢は、子どもの考え方にも大きく影響していると思います。

私は、知的障害のある自閉症の息子を育てる母として、また学校や塾の教師として、さまざまな先生、保護者の方々と関わってきました。

子どもたちが最初に障害のある人とかかわる場面は、多くの場合学校だと思います。

残念なことに、「障害のある子どもが一人でもいると通学、通園させたくない」と望んだり、特別支援学級が併設されていない小学校をあえて選ぶ保護者の方がおられる現状を、私は見てきました。

「我が子を勉強させるために通わせているクラスに障害のある子がいて、学習環境を妨害されたら困る」とその方が思うのは、親心としてはある種自然なことかもしれません。事実、障害のない子が授業中に迷惑をこうむってしまう場面はあると思います。

しかしだからといって、障害児の存在そのものを否定する言動や、「障害児は絶対排除」という姿勢を親が子どもの前で見せてしまうと、今回の犯人と同じ考え方の種を植え付けてしまうのではないでしょうか。

「障害者は絶対排除」とまではいかなくとも、障害者に対する差別的な考えを、親も無意識のうちに子どもに植え付けてしまう可能性は十分あります。

たとえば、我が子を褒めようとするときも、出来ていない友達と比較して「あの子は努力しなかったから○○になったのね。その点あなたは頑張っているから○○できたね」などと言えば、“弱者を馬鹿にする考え”がついてしまうのです。

相模原で起きた事件の容疑者も、26年前は人の子として生まれ、可愛い天使のような赤ちゃんだったのでしょう。

容疑者がどのような環境で幼少期を過ごしたのかは定かではありませんが、少なくとも私たち大人の考え方は、純粋な子どものその後の価値観に大きく影響しているのです。

人間は全員が健常者として生まれ育つわけではない

私が特別支援学校の教員免許をとるとき、授業でこんな話を教授から聞いたことがあります。

「鉢植えに100個の種をまいたら全部同じようには成長はしない。種のまま芽が出ないこともあるし、途中から成長スピードが変わるもの、曲がってしまうものがある。人間も生物だから同じこと。全員が健常者として生まれ成長するわけではない」

これは「1人ひとり成長の凸凹はあって当然」というメッセージなのだと解釈しています。私は一人の親として、また教師として、いつもこの言葉を胸に留めています。

学校という教育の現場で、障害のある子どもとない子どもが一緒に過ごすことで、「世の中には色んな人が存在するんだ」ということを子どもたちは身をもって体験することができると私は思っています。

そのような環境で、

「背が高い子、低い子、眼鏡をかけている子、かけていない子、色んな人がいるよね。走るのが早い子、遅い子、給食をおかわりする子、しない子。人間はみんな一人一人違っていて、得意なこと苦手なことがあります。

○○君はじっと座っていることが苦手で、歩くことが得意なのよ」

というように、大人が子どもに働きかけていけば、子ども同士が関わりあうなかで、「多様な人が共に生きること」「鉢植えの中には色々な種があること」を学んでいくのです。

誰だって障害者になりうる。だから、社会でもっと支えあおう

できれば我が子には障害のない方が良い、と願うのは親として自然なことかもしれません。新型出生前診断でダウン症児だと分かると、90%の妊婦が中絶をしているという現実もあります。

しかし、新型出生前診断で分かる障害は一部の障害だけで、視覚障害や聴覚障害、自閉症などの発達障害はわかりません。

さらに、出産時の事故で子どもが脳性まひになることもあれば、障害なく生まれてきても、交通事故に遭ったり病気で脳にダメージを受けたりして、障害児になる可能性もあるわけです。

また、親を含めた大人自身が、事故や病気、鬱病や統合失調症などの精神疾患によって、障害者になる可能性だってあります。

そんなとき「あなた(の子ども)の存在は大変な税金がかかり迷惑をかけている。最初から生まれていなければよかった」と言われたら、どのように感じるでしょうか?

生きている限り、誰がいつ障害者になってもおかしくはありません。だからこそ、同じ鉢植えの中の者同士、互いの存在を認め合い、支え合って生きていく必要があります。

障害者を“自分とは関係のない人”として、そして今回の事件を“異常な人がやったこと”と他人ごとにせず、私たち自身の障害者に対する考え方を、もう一度見直す必要があると思います。

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