記事提供:messy

いま、賛否両論で大盛り上がりの『シン・ゴジラ』ですが、個人的には、素直に面白く見ることが出来ました。

今回はなぜ私が『シン・ゴジラ』に乗れたのか、個人的な理由を書きたいと思います…。

という断り書きをいれなくてはいけないことが、この映画がたくさんの人に見られていて、それぞれに違った感想があることを物語っている気がします。

東京湾で大量の水蒸気が噴出し、間もなくそこから現れた巨大生物が、都内を破壊し、東京湾へと戻っていきます。

政府は矢口内閣官房副長官(長谷川博己)を事務局長とした巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)を設置して、ゴジラと名付けられた人知を超えた生命体と対峙するのだが…というのが『シン・ゴジラ』のストーリーです。

ネットでも話題になっていますが、前半は官僚と政治家たちの会議に次ぐ会議が繰り広げられます。

そのウワサを聞いたときは、「どんなホモソーシャルな会議が繰り広げられるんだろう」と思っていたのですが、最終的にホモソーシャルな世界は広がっていないように私には見えました。

なぜなら、繰り返される会議の中で誰もイニシアチブを取ろうとしないのです。

今まで誰も見たことのない生命体に対しては、誰にも正解がわからない。憶測でものを言って間違えたら誰が責任を取るのか、という心配ばかりをしてしまう。矢面には絶対に立ちたくないのは、内閣総理大臣とて同じです。

ゴジラが現れるという想定外の事態は、誰から見ても東日本大震災を意識して描かれています。

これは現政権ではなく、3.11時の政権をモデルにしていると見ていいでしょう。現政権を描いたのなら、誰もイニシアチブを取ろうとしない、権力に及び腰な政治家像にはならなかったはずです。

そして、この権力に対して及び腰なところが、ホモソーシャルを感じさせない所以でもあります。

おまけに会議にずらっと並んだ背広姿の男性達も、ファーストカットでは圧巻でしたが、よくよく見てみると、男の強さを表していると見るよりも、むしろ昭和の日本のサラリーマン的な、個の色を消した表現のように見えてきました。

ずらっと並んだ姿からは、力強さよりも画一化のほうが色濃く出ていたのです。

Twitter上では、彼らのスーツが微妙に体にフィットしていないことを指摘していた人がいましたが、

そのダボっとしたスーツには、あかぬけなさと同時に、誠実さのようなものも感じられました(単純に肯定するわけではありませんが、ホモソーシャルを描いた映画では、男たちはスーツの着こなしにもこだわりがあるような気がします)。

のんびりしたトップ、「ああでもない」会議にも意味がある

さて、ここからネタバレを含みます。

権力を「責任」ととらえて及び腰だった総理大臣は、あっけなく映画からいなくなります。

ただ、総理大臣が悪人かというとそうではない。想定外の事態にあたってリーダーシップがとれるような器を持っているわけでもなく、かといって逃げ出したりするほど無責任でもない。彼がいなくなっても観客がなんの感慨も持てない普通の人なのです。

こう説明すると、この映画が前政権を揶揄していて、現政権のような力強さを待望しているように見えるかもしれません。

しかし私には、このちょっとのんびりしたトップにも、それなりに良いところがあると描いているように感じました。

それは、優秀な政治家や官僚の言うことにふわふわと同調してしまう総理であるからこそ、危機に際してヒロイズムに酔ったり、独断で暴走することはない、ということではないかと思います。

もちろん、ふわふわした総理は、危険でもあります。

助言をする政治家や官僚がとんでもなく独善的な人間だったら終わりでしょう。

その意見に引っ張られて安易に決断をしかねません。そう考えると、一見無駄に見える、「ああでもない、こうでもない」とダラダラやっている会議も、独断を許さないという意味では機能しているということがわかります。

もちろん、それではいけないから立ち上がるのが、矢口なのですが。

諦観の中で、自分がするべきことをする矢口

そんなふわふわした中で、リーダーとして頭角を現すのが、冒頭で紹介した矢口内閣官房副長官です。

ただし、彼はリーダーであって、ヒーローではありませんでした。彼にはヒロイズムが感じられないし、それどころか、多くの人が指摘しているように、家族など守るべき何かも見えてこないのです。

家にも帰らず、睡眠もとらず、国のために働くモチベーションがどこにあるのかわからない、ただただ正義感だけで動いている。そんな矢口を不気味に思う人もいるようです。

しかし、あのモチベーションも、矢口を仕事オタクと見れば納得がいきます。

矢口にかかわらず、巨災対に集められた人は、どこか浮世離れしていて、人知を超えたゴジラを目の前にして、ちょっとワクワクしているような表情を浮かべているようにすら見えました。

また、未知のものに挑む、専門家としての血が騒いでいるようにも感じられました。矢口も、ヒロイズムで血が騒いでいたのではなく、「仕事をしている」ということで、不眠不休で働けるほどのアドレナリンが出ていたのではないでしょうか。

矢口や巨災対の人びとをみていると、ヒューマニズムだけがモチベーションになるのではない、と感じます。

この映画が、巨大なゴジラを目の前に、自分が死ぬかもしれないのに人々のために楽器を演奏したり、巨災対の中の女性の父親が元自衛官だったりして、国民のためにゴジラに特攻するといった、

鍵かっこ付きの「ヒューマニズム」溢れる映画だったら、それはそれで嫌なんじゃないかと思うのです(上映当時は、『タイタニック』でも『アルマゲドン』でも涙しましたが、今はそんなシーンで感動する時期でもないですよね)。

この映画では、「好きなことをする」が一つのテーマになっています。

聞くところによると、制作時、庵野秀明監督が外部の意見で左右されないように、周囲も注意を払っていたそうです。映画の中でも、「人の意見に左右されないで、信じたことを貫いてもいいのだ」ということが描かれています。

矢口のように不眠不休で仕事をしたからといって、それが望ましい結果を生むとは限りません。

また「人の意見に左右されず、信じたことを貫く」ことを危惧することもわかります。

しかし、少なくとも矢口は、権力をただ持ちたいという人物でもなければ、ヒューマニズムに溢れる人物でもなく、「誰も責任をとらないのなら、自分がやるしかない」という、諦観の人に見えました。

そして、国をなんとかしようと思うのも、「最悪な中で自分が生きるのが嫌だからこそ、よりマシにならないか」というモチベーションがあるように見えたのでした。

私たちは正解がない中で生きている

この映画を見ていると、『踊る大捜査線』をどうしても思い浮かべてしまいます。

『シン・ゴジラ』では、事件は現場で起こっているのに、『踊る大走査線』同様に会議室での決定を中心にしか対処できません。

また、『踊る大捜査線』には、「正しいことをしたければ、偉くなれ」というセリフがありますが、この想定外の状況をなんとかしたかったら、矢口もこの先、偉くなるしかないでしょう。

それは、今ある日本の法律の中で、なんとか良い道を示して立て直すには、自分の知識と権力を使うしかないという苦肉の策だと思われます。

決して、矢口に出世欲があるわけではないように見えました。

先日、この映画とはまったく関係ないインタビューで、ある劇団の演出家が、「今の日本は、間違えるしかないから、よりマシな間違え方をするしかない」と言っていたのを聞いて、深く印象に残りました。

この映画もまた、100%の正解はありません。なぜなら、どの道を選んでも人々にはゴジラの被害で死んでしまう可能性があるからです。そんな中で、より、ましな間違い方を探すにはどうするか、という話だったのではと思うのです。

どれを選んでも間違っているからこそ、その間違い方を巡って、見た人の意見が分かれたのだと思います。

そこには、その人の考え方が如実に現れてしまう。この作品が多くの人々に語られるということは、現実も同じように正解のなくて、我々はそんな世の中を生きているということではないでしょうか。

西森路代

ライター。1972年生まれ。大学卒業後、地方テレビ局のOLを経て上京。派遣、編集プロダクショ ン、ラジオディレクターを経てフリーランスライターに。

アジアのエンターテイメントと女子、人気について主に執筆。共著に「女子会2.0」がある。また、TBS RADIO 文化系トークラジオ Lifeにも出演している。

twitter:@mijiyooon

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