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リオデジャネイロ五輪でフェンシング男子フルーレ個人の太田雄貴選手が、まさかの2回戦敗退を喫し、現役引退を表明しました。

「相手の勢いどうこうよりも、自分ですね。全部、僕のミスだと思っています」

出典 http://rio.yahoo.co.jp

「本当に支えてくれたすべての人に申し訳ない気持ちでいっぱいなんですけど、これで未練なく現役を退けるかなと。たぶん今回は僕の中で五輪に対する覚悟というのが、ロンドンや北京のときと比べて弱かった気がしています。やっぱり五輪は特別な場所。金メダルを取りに行っている人しか取れない。僕はその覚悟が弱かったんじゃないかと思っています」

出典 http://rio.yahoo.co.jp

試合後、引退を表明した太田選手はすっきりとした笑顔を見せました。今の日本のフェンシング界は、間違いなく太田選手の存在があるからこそ。改めて太田選手が残した功績を振り返ってみたいと思います。

1. 史上初のインターハイ3連覇

太田選手がフェンシグを始めたのは小学3年生の時。高校時代にフェンシングをしていた父から「スーパーファミコンを買ってやるから」と誘われて競技を始めたそう。小、中学と全国大会を連覇、平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成!

2. 北京五輪で日本フェンシング史上初の五輪メダル

9位だった初出場のアテネ五輪に続き2度目の出場となった北京五輪では、日本フェンシング史上初となる銀メダルを獲得!1896年の第1回アテネ五輪で正式競技に採用された8競技の中で、日本が唯一五輪メダルを獲得していないのがフェンシングでした。それまで日本人に馴染みが薄かったフェンシングが、太田選手が銀メダルを獲得したことで一気にメジャーに。

太田選手は、2008年同志社大学を卒業後は、北京五輪に集中する為に就職先を決めずに競技に専念してました。その為、北京五輪のインタビューで「就職先募集中って書いておいてください」と語り『ニート剣士』なんて呼ばれていました。

30社以上のオファーの中から、学生時代からサポートを受けていた森永製菓に正社員として入社。入社会見で涙を見せ「メダルを取っても泣かない男が泣いた」とこちらも話題になりました。ちなみに、この時の涙の訳を太田選手は「両親や周りのサポートを思って、今まで本当にいろんな人に支えられてきたと感謝の気持ちが溢れた」と語っています。

3. 2009年日本選手史上初の国際フェンシング連盟ランキングで1位に

2009年にはロシアのサンクトペテルブルクで行われたワールドカップ(W杯)個人戦で準優勝し、国際フェンシング連盟(FIE)ランキング1位に。もちろん日本選手初の快挙!

しかしこれを受けて思わぬハプニングも。武者修行の一環として、フランスの古豪クラブのエクサンプロバンスに期限付きで加入して、フランス選手権に出場していた大田選手。チームは準決勝進出を果たしました。しかし「太田は強すぎるから不公平」という不満が他のチームから噴出。

これらの「外国から強い選手を連れてきて勝つのはずるい」という不満に対し、フランス連盟は「外国籍選手が出場する場合は6カ月以上の滞在が必要」という規定を提示。太田選手は急きょ出場資格を取り消されてしまったのです。

このニュースを受けて、日本国内のフェンシングファンからは「アジア人に勝たせるのが嫌なんじゃないか」という声も。しかし、これも太田選手の強さあってこその出来事。フェンシング界での日本人選手の存在感が、格段に強くなっていることを感じさせる出来事でした。

「最後までチームの一員として戦いたかったので残念ですが、今回の渡仏では中身の濃い充実した経験を積ませていただきました」

4・2012年フェンシングをメジャーにと団体「SUPER FENCING」を立ち上げ

太田選手は、フェンシングの魅力を多くの人に伝えたいと団体「SUPER FENCING」を立ち上げます。

フェンシングの魅力をもっと多くの人に知ってもらいたい。夢を叶えることのすばらしさ。努力することのすばらしさ。フェンシングから教えてもらったことをより多くの人に伝えたい。そんな想いからSUPER FENCINGが立ち上がりました。

出典 http://super-fencing.com

フェンシングの魅力を伝えると共に「太田雄貴先生があなたの学校にやってくる」「フェンシング用具一式プレゼント」などの企画も行い、より身近な競技として感じてもらえる様に様々な活動を行っています。

5. ロンドン五輪で日本史上初の団体銀メダル獲得に貢献

ロンドン五輪の団体戦では劇的な勝利を飾っての銀メダル。念願のチームでの日本初メダルの獲得しました。

ドイツ戦は3点リードで迎えた最後の太田雄貴(26=森永製菓)が1度は逆転を許したが、残り1秒で40-40の同点。サドンデスの延長では3度のビデオ判定の末に競り勝ち、イタリアとの決勝戦に進んだ。

出典 http://london2012.nikkansports.com

最大6点リードを3点差にまで追い上げられて迎えた最後の太田も、ヨピッヒに5連続得点を許して逆転された。残り9秒で2点差。だが、あきらめなかった。残り6秒で1点を返すと最後の1秒、太田の剣が相手の胴を突いた。世界7位の日本にとって奇跡の同点劇だった。

出典 http://london2012.nikkansports.com

終わりました。3度目のオリンピック。もちろん、悔しいですが、自分たちの精一杯の事は出し切ったと信じています。あの時間を僕たちは強烈に生きていた、そんな時間でした。

北京が終わってからの4年間、色々なことがありました。良い事もありましたが大半は思い通りにいかない事でした。怪我もありました、スランプもありました。そして個人戦の結果。僕自身、団体戦だからここまで頑張れたと思います。仲間の為に。だから頑張れた。

出典 http://ameblo.jp

このチームで良かった。4人はもちろん、最後まで一緒に練習してくれた福田さん、恭也先輩、有君、大機。この誰が欠けてもこの結果はなかったと思います。

感謝です。最後に駄目な時も僕を信じて応援してくれた人に本当にありがとうと伝えたいです。ありがとう。

出典 http://ameblo.jp

6. 東京五輪の招致に尽力

ロンドん五輪後は1年の休養期間に。その間には、東京五輪招致アンバサダーとして開催実現に貢献しました。2013年9月に行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会の最終プレゼンテーションにオリンピアンの代表として登壇、この時の想像力を掻き立てられる五感に訴えるスピーチは高い評価を得ました。

想像してみてください。東京という都市のまさに中心で生活することを。目覚めれば素晴らしい水辺の景色があることを。寝室から見える競技会場で競技することを。

出典 http://www.sankei.com

どの国からいらっしゃるアスリートも熱烈なサポートを楽しみにしていただけます。知識が豊富で、アスリートの活躍とフェアプレーを尊ぶ日本のファンから。昨夏、私たち2012年ロンドン大会の出場アスリートを祝福するために、平日にも関わらず50万人を超える人々が東京の都心に繰り出しました。
そして、2020年でのこの情熱を想像してください。各会場は満席になるでしょう。全てのスポーツが光り輝くでしょう。

出典 http://www.sankei.com

太田選手のスピーチ全文はこちらのリンクで読むことができます。

2010年の東京五輪決定の瞬間、号泣する太田選手の姿は印象的でした。

7・日本スポーツ史上初の国際フェンシング連盟のアスリート委員長に

また、競技復帰と共にFIE(国際フェンシング連盟)のアスリート委員長に当選します。現役選手が国際競技団体の委員長に就任したのは、日本スポーツ史上初の事例となりました。

8. 2015年日本フェンシング史上初のオリンピック・世界選手権優勝

東京五輪の招致活動を通じて五輪の持つ重みを再確認した太田選手は、1年以上のブランクを経て現役に復帰。2015年7月にモスクワで行われた世界選手権では日本人選手初の金メダルを獲得します。オリンピック、世界選手権を通じて世界一となったのは、日本フェンシング史上(個人・団体共)初の快挙でした。

「人生の最後の世界選手権になるかもしれないと思って挑んだ。最後の最後でこうやってタイトルを取れて本当にうれしい。次は(2016年に)団体でのリオ五輪の金メダルをみんなで分かち合いたい」

出典 http://www.huffingtonpost.jp

「こうして最後にずっこけて負けるあたりが僕らしいなと思います」

4度目のオリンピック出場で、日本フェンシング界初の金メダル獲得を目指していた太田選手でしたが、誰もが予想もしていなかった2回戦敗退という結果で太田選手のリオ五輪は幕を閉じました。最後にピスト(試合会場)を触って会場を後にした太田選手。その理由をこう語りました。

「4回もあの場に立てたのがうれしかった。感謝の気持ちしかない。五輪にここまで育ててもらった。取れなかったけど金メダルを目指したからこそ、今日の僕がある。五輪にめちゃくちゃ感謝している」

出典 http://www.huffingtonpost.jp

リオ五輪でのまさかの結果に悔しさをにじませながらも「こうして最後にずっこけて負けるあたりが僕らしいなと思います」と話していた太田選手。

北京五輪で銀メダルを獲るまでスポンサーもなく、海外遠征費用もすべて自腹でした。当然「フェンシングでは食っていけなかった」といいます。しかし太田の活躍により、今ではすっかりフェンシングはメジャーな競技になりました。

フェンシングをやってみたいという人も増え、体格的に不利な日本人でも五輪でメダルを取ることができる、大田選手はそんな可能性を見せてくれました。

今、フェンシング界では、多くの若手が成長しています。2016年4月の世界ジュニア選手権では、フルーレ個人で法政大の敷根崇裕選手が優勝し、これからの世界での活躍が期待されています。

「彼らと一緒にいることで自分の置かれている立場も変わりましたし、彼らに対してお手本となる先輩でいることが必要だと思っています。今の若手は技術もスピードも持っている。彼らになくて僕にあるものはメンタリティーであったり、日本人が持っている精神性の部分だけだと思うので、そうしたことを僕は伝えていきたいと思っています」

出典 http://rio.yahoo.co.jp

「スポーツ選手が引退したあとに残る選択肢が日本には少ない気がしていて、コーチになるとか、スポーツ関連の仕事をするというのが多いですよね。そうした中で、僕はまったく違うことをやるという選択肢を増やせるような役割を担っていければと思っているので、世の中の人を違う場面で驚かすことができればなと考えています」

出典 http://rio.yahoo.co.jp

日本フェンシング界の歴史を塗り替えてきた太田選手、今度はどんな姿で私たちを驚かせてくれるのか。新しいステージでの、太田選手のこれからの活躍が楽しみです。

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