記事提供:子どものこころが穏やかに育つ魔法の育児法

ひー!!これまたかなり前に書いたものを投稿し忘れていたので今更ですが載せます!

遅くなってすみません!

「いい子」はダメ?

に寄せられたコメントにお答えします。

「(親の都合の)いい子やーめた!」と言えるチカラが子どもにあるかどうか。というところからまず私の考えをお伝えしたいのですが、

私は「(親の都合の)いい子やーめた!」と言える子は、そのこころのベースに【愛され実感】がきちんとあった子だと思います。

それまでそれなりに「親の都合のいい子」であったとしても、ある時に自分が「親の都合のいい子」であることに疑問を持つことができ

更に「いい子やーめた!」と言っても、そんな自分でも親や周りに許され、認められ、生きていけることを知っているチカラを持っている子、ではないかと思います。

でも、子どもの中には、その『「いい子」をやーめた』と言えない人がいるのも事実なのです。

同じ→「いい子」はダメ?←のコメント欄にそんな苦しい想いを抱え今まで生きてきた読者の方からのコメントもいくつかありましたし、

その記事に貼った→いい子に育てると犯罪者になる←という記事も、

『誰かにとって都合の「いい子」』をやめられないまま生きてきた人たちのことが書かれています。

犯罪まで犯さなくても、

虐待やネグレクトなどを受けた子どもたちは、自分の存在意義に不安を覚えたり、その寂しさから行動が荒れる人もいるし、

そのこころの真ん中を埋めようとして誰彼構わず愛情を求めてしまったり、

大人になっても親の前で「いい子やーめた」と言えずに、自分の人生を生きられないまま苦しんでいる人もいるのです。

そして何よりも私自身も「愛されたくて」「いい子」でいた時期があります。

そんな私からお答えさせてもらうと、

子ども全員に「(親の都合の)いい子やーめた!」というチカラがあるか』と聞かれれば、答えはノーです。

家庭はその人における最小の社会であり、親子はその人にとって最小の人間関係です。

そして、子どもは生まれてからある時期まで(人によってその期間は異なるかと思いますが)はずっと、その親との関係の中で生きていくのです。

『自分がこうした時に周りはこう反応した』という経験として脳に記憶される最たるものは、きっと親の反応でしょう。

「こうしたら愛してもらえた気がする」

「こうしたら誰かに愛してもらえるんだ」

小さい頃からのその記憶は、時間をかけてその人の脳とこころに蓄積されていきます。

そして成長するにつれて、その対象が親から、友達、先生、恋人、伴侶、姑…などに替わるだけで、根本のこころに抱えた問題は同じであることが多いです。

もちろん多くの人は大人になったら自分で選択できるようになるかと思います。

私も「いい子」だった時期もありましたが、

私の場合は親の都合のいい子、というよりは、とある人たちから苦しめられていた母を守りたくて、

母が周りから非難されたりしないように、そして私自身も散々嫌な思いをさせられてきたので、『周りからの評価の「いい子」』でいることで自分の身を守ろうとしたのだと思います。

でも私のことを大切に想ってくれている人との出会いや、自分が思い込んでいただけで実はちゃんと親からも愛されていたことに気付けた時に、自分の生き方を自分で導けるようになりました。

自分はどうなりたいのか、どんな生き方がしたいのか、考え方や使う言葉、何を信じるか、そのすべては自分で選んでいいのです。

全ての人にその権利があります。

でも親がいて初めて自分の存在を確かなものにする小さな子どもたち、特に自己肯定感が育まれず【愛され実感】が足りていない子どもにとって、

「いい子やーめた」と言えるチカラを持つことはなかなか難しいのではないかと私は思います。

親(養育者)がいないと赤ちゃんや子どもは生きていけません。

親や養育者に愛してもらうことが小さな子どもにとっては生きることです。

もし成長する過程で「いい子やーめた」と言える人は、親や養育者以外の人に、「誰かにとって都合のいい子じゃない自分」を愛して(必要として)もらえた経験がある人なのではないかと思います。

それは友達かもしれないし、恋人かもしれません。

(それが時に非行や犯罪の入り口になってしまうことも、中にはあることも事実ですが…)

「あ。私いい子じゃなくても生きていけるんだ」ということに気付けたひと。

もしくは「親の都合のいい子」をやめても、親(養育者)がそんな自分のこともちゃんと愛してくれていることを実感出来たひと。

そしてもし言えたとしてもある程度大きくなってからだと思います。

小さな小さな子どもたちにとって生きる世界である家庭や親の枠から、自己肯定感を得られないまま自分の意思で出ることは、とても、とても難しいことではないかと思うからです。

何度でも伝えたいです。

小さな子どもたちにとって「愛されること」は「生きること」です。

子どもは、人は、生まれながらに「愛されたい」生きものです。

自分を愛してもらい、自分のお世話をしてもらうことで赤ちゃんや子どもは生きていけます。

泣くことで快・不快を伝え、空腹を伝え、眠いことを伝えます。

それらの生理欲求が満たされることがまず生きていく上で1番大切なことなのです。

自分の生理欲求が満たされること。抱きしめられること。甘えさせてくれること。話しかけてくれること。自分はここにいていいのだと思えること…。

これらはすべて【愛され実感】として子どものこころのベースになります。

物理的にも、精神的にも「愛されたい」と願うことは、赤ちゃん、子ども、そして人としてごく自然な欲求です。

だから「(親の都合の)いい子」になってしまうのは、その方法でしか愛してもらえないと思い込まされ、思い込んでしまっている人が多いのではないかと思います。

つまり、どんな自分でも愛されてるんだという無意識下の自信のようなもの…【愛され実感】が足りないということなのではないかと思っています。

泣きたい時に、泣く。

怒りたい時に、怒る。

甘えたい時に、甘える。

愛してほしいと、要求する。

子ども時代をこれらの子どもらしい欲求を満たし生きることって、とても大切なことです。

それらの子どもとしての自然な欲求を認めてもらうことはその後の子どもの人生にも大きく影響を及ぼすこともあるでしょう。

『子どもに「いい子」でいようと思わせないこと』

それも子どもがのびのび生きるために大切なことだと思います。

でも質問者さんが仰っているようにそこまで細かく『子どもに「いい子」でいようと思わせないように』と、あれもこれも意識しなくて大丈夫だと私も思います。

子育てにこうでなくてはいけない、なんてものはないし、もちろん自由に楽しむものだと思います。

でも子どもの人格を傷付ける親(養育者)だけの自由であってはいけないとも思います。

良い自分も、ダメな自分も、どんな時も自分自身を肯定し、どんな自分でも、許し、愛してあげられるチカラを子どものこころの中に育てること。

自分の生き方を、他でもない自分の手で決めていいということを知ってもらうこと。

それはつまり、やっぱりこんな時も大切なのは、子どもの話に耳を傾けてあげたり、食事の時に目が合って笑ったり、どんな時も私はあなたの味方であるということを感じてもらったり…。

そんな(誰かに)【愛され実感】を子どもたちに手渡すことではないか、と私は思っています。

出典 http://ameblo.jp

イライラしちゃうこともある。怒ってしまうこともある。

それでも、日々の暮らしの中に子どもにちゃんと愛された実感があったら。

子どもとそんな関係を積み重ねていけたら。

叱られたことも、怒られたことも、親子喧嘩したことも。

全部愛された思い出として、子どものこころに残るのではないかなぁ…。

私はそう思います。

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