記事提供:conobie

今回は「虫を殺すのは悪意から?大人が困る子どもの遊びとどう向き合う?」として、時に大人から見ると喜べない様な遊び方をする子どもに対して、親がどういう心もちで関われば良いのかということに関しての様々なお話をしていきます。

あなたが子どもだった頃、好きだった遊びは何ですか?

ちょっと思い出してみてください。

みなさんは子どもだった時に、「どこで」「どんなこと」をして遊んでいましたか?

わたしは、東京都の昭島市というまちに生まれ育ちました。

家の周辺は都営住宅の建設予定地。その当時はまだ草がぼうぼうに生えた原っぱだったので、来る日も来る日もカマキリ、バッタ、トンボ、カナヘビなどの生き物を捕まえることに没頭して遊んでいました。

実はその原っぱは、丸太杭や番線でできた柵や緑色の網目のフェンスなどに囲われた「立ち入り禁止」の場所でした。

しかし私も、近所の子どもたちもそのことを全く気にせずに柵をくぐって遊んでいたし、親も、近所の大人たちもそのことを咎めることはなかった。

知ってはいるけど見守ってくれていたのです。

子どもは大人を喜ばせるために遊ぶわけではない

みなさんの遊びの思い出の中でこんなものはなかったでしょうか?

・公園のブランコのチェーンを梁の部分に何周か巻いて高さを変えてこぐ
・大人に内緒で秘密の場所で猫を飼う

・駐輪所の屋根に登る

・ピンポンダッシュ

・蟻の巣を掘り返す


ここにあがっていないことでも、親や周りの大人に見つかったら…という様な遊び方をしたことがある方は多いと思います。

しかし大人になった私たちは、目の前で子どもが上記の様な遊び方をしたら、声をかけずにはいられなくなる。

自分が子どもの頃していた遊びを思い返してみるとわかりますが、大人がダメと言ってしまいそうになる行動のひとつひとつも、子どもにとっては遊びそのものです。

子どもは大人を喜ばせるために遊ぶわけではない。

つまり、善悪という概念、大人の価値観や倫理観、そして常識や社会通念、とは別の次元で行動しているのが子どもの遊び、なのです。

これは同時に「良い遊び」も「悪い遊び」も実際は存在せずに、大人の捉え方によって生じているだけということを表してもいます。

「虫を殺してはいけない」と子どもに言いますか?

前述したように、私も生き物を捕まえることに夢中になった少年時代がありました。そして「捕まえたバッタの首をちぎること」に熱心だった時期があります。

恐らく小学3年~4年生の頃ではなかったかと思います。そこに悪意はなく、純粋に「やってみたい」という気持ちがあっただけで、草を抜いたり、紙をビリビリと破くことと何ら変わらぬ感覚でした。

何の躊躇いもなく捕まえたそばから千切っては次のバッタを捕まえる、ということを繰り返していたのですが、ある時ふと千切ったバッタと目が合って、

「あ、自分はバッタを殺しているんだな…」
という気持ちが、心にモクモクと湧いてきたことを鮮明に覚えています。

そして、それきり私は捕まえた虫を殺めるということができなくなりました。

誰かに押し付けられた価値観ではなく、真の意味での「命」の大切さ、自身の行為の重大さを実感した瞬間でした。

子どもの遊びで困る瞬間とどう向き合うか

ちょっと視点を広げてみます。

「虫の命を奪うこと」の他にも、みなさんが子育てをする中で、もしくは子どもの遊びに関わる立場として困る瞬間にはどのようなことがありますか?

「子どもの遊びに関わっていて困ること」として親御さんたちがよく話題にしていることをリストアップしてみました。

・子ども同士のケンカ
・おもちゃなどの取り合い(取る・取られる)

・片づけずにやりっぱなし

・危なっかしいことばかりする

・ぐずると手がつけられない

・どうやって一緒に遊んだらよいかわからない

・集中力がなく雑


この中で1つのことに悩んでいる人もいれば、ほぼ全てが当てはまるという人もいました。

どれも目の前にいる大人にとってはどう対応して良いのか葛藤することであり、特に親にとっては「生活をともにする」という利害関係があるため一大事ですよね。

正直、先ほどの虫の件は、自分自身が実感するまでの間、無理にとめる大人が周囲にいなかったことは良かったと思っています。子どもが自ら気づいて得た実感に勝るものはありません。

しかし私が子どもだった20数年前と現在は社会も変化し、子どもたちは大人が管理した遊び場で過ごすことが多くなりました。

この様に状況が変化した中で、それでは私たち大人はどのように子どもの遊びに向き合えば良いのでしょう。

「遊びのレンズ」で覗いてみよう

私は様々な地域の方たちと遊び場づくりプレーリーダーとして仕事をしているのですが、時にわが子もその遊び場にやってきます。

ある日、ふと「明日はわが子も遊び場に来るから、一緒にたき火で好物のウィンナーを焼いて食べたら喜ぶだろう」と思いつき、美味しそうなウィンナーをスーパーマーケットで購入したんです。

そして、翌日の遊び場で頃合いを見計らい、わが子に声をかけようと探しました。

見つけたわが子はペンキ遊びに夢中。掌を真っ赤に塗りながら鼻歌を歌って上機嫌です。

私:「ウィンナー一緒に焼いて食べようよ!」

息子:「…」

私:「食べた後にまたペンキやったらいいじゃん」

息子:「じゃあ、焼いてきて~」

私:「…」(怒りの気持ち)

この時、私にはわが子の行動が理解不能でした。

「ウィンナーが好きなのに、何で一緒に焼いてくれないんだろう。せっかくたき火で焼きて食べるというおもしろい遊びができるのに!」そんな気持ちで怒りが湧いたり、悲しくなったりしたのです。

でも今冷静に思い返してみると、私は「わが子に私の楽しいを押し付けていた」んですよね。

多くの子どもたちにのびのびと好きなことをして遊んでほしいと思いながら場を開いているはずなのに、わが子に対しては知らず知らずの内に、私の好きな遊びを彼にもして欲しいという“親の期待”のようなものを押しつけてしまっていたのです。

この親の期待を通して子どもを見ている時、親は子どもにより良い体験をして欲しいという思いを持った「子育てのレンズ」をかけている、と私は考えています。

また、大人は「子育てのレンズ」の他にも「教育のレンズ」「しつけのレンズ」なども持っており、これらは子どもを育てていく大人としては持っていて当然であり、大切な価値観でもあります。

しかし先ほどの瞬間でいえば、わが子は家庭や学校ではなく、“遊び場”にいました。

遊ぶ時は、自分の好きなことに没頭する時間が大切。

だからこそ、「遊びのレンズ」をかけて、子どもの世界を覗いていきたいと思うのです。

善悪を超え、生きるエネルギーに満ち満ちた子どもの遊びに触れることは、時に大人にとっては消耗でもあります。全てを受け止めることは難しくもあり、私自身も常に「遊びのレンズ」をつけ続けることが難しいこともあります。

でもパートナーや子育て仲間と一緒なら、お外にいる時なら、と「遊びのレンズ」をかける余裕がある時を見つけて、ぜひそのレンズで覗いてみてください。

きっと見えてくるものがあるはずです。

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