記事提供:conobie

2015年、幼児教育への注目度が高まっている中、幼児の学びと切っても切り離せない「遊び」についても今一度見つめなおしておく必要があるだろう。

「遊び」の本質とはなにか。大人が遊び心を持って子どもと接するためには、どうすればいいのか。筆者の見解を述べる。

最近あらためて注目を集めている幼児教育。

幼稚園や保育園、幼児教室などの習い事のプログラムにおいても、「遊び」は最も重要な要素と言っても過言ではありません。

しかしこの「遊び」をめぐって、時折大人と子どもの間で認識のズレがおこることがあるのです。

今回は、そのことについて掘り下げて考えてみましょう。

例えば、こんなエピソードを聞いたことがあります。

ある幼稚園での話。

園庭の隅で一人で遊んでいた子を見かけて、先生はみんなでやっている大縄跳びに誘いました。

するとその子は「先生、この大縄跳びが終わったら、遊んでいい?」と聞いてきたのだそうです。

大人が思っている遊びと、子どもの思う遊びが見事にズレてしまったこのエピソード。なぜこのようなことが起きてしまったのでしょうか。

あなたには「名のない遊び」が見えるだろうか

大人が子どもの遊びを勘違いしてしまう背景には、大きく分けると、

①「遊び=何かをすること」と捉えてしまう

②名前のない遊びを遊びとして認識できない

の2つの要素があるように思います。少し解説します。

①「遊び=何かをすること」と捉えてしまう

これは、遊びというのは何かを“する”ことだと考えてしまうことです。しかし、遊びの本質は何を“する”かではなく、“どのように”するかです。

先ほどのエピソードの例で言うと、先生はより楽しい遊びに誘ったつもりの「大縄跳び」(=すること)は、その子にとっては遊びではなく、「誘われたからやったこと」でしかなかったのでしょう。

そこに本人の「遊び心」は宿っていない。いくら形式的には遊びのカタチをしていても、その子にとっては遊びじゃなかったわけです。

大人はどうしてもプログラムとして遊びを用意したがります。しかし、肝心な「遊び心」がついてこなければ、鬼ごっこであっても、ゲームであっても、遊びでは無くなってしまうのです。

②名前のない遊びを遊びとして認識できない

自分が小さかった時の遊びを思い返して見ましょう。

・近所のみんなで「鬼ごっこ」をした。

・○○ちゃんと、リカちゃん人形で「おままごと」をした。

・遊戯王カードで遊んだ。

いろんな記憶が蘇ってくると思いますが、どれもちゃんと名前がある遊びばかりではありませんか?

しかし、子どもの頃の遊びはそれだけではなかったはずです。

・道路の白線の上だけを歩いて家に帰ったり

・ただただ虫の様子を観察していたり

・その場でくるくる回って目が回るのを楽しんだり

「○○遊び」と名前こそついていないけれど、確かに遊び心があった瞬間はたくさんあったはず。この視点が、どうしても大人は抜け落ちてしまいやすいようです。

「遊び心」を忘れちゃった大人たちへ

私が子どもたちと関わる中で一番むずかしいと思うのは、この「遊び心」を持つということ。

「お友だちともっと関わってほしい」「どうせならより学びにつながるような遊びがいい」などと、どうしても自分の中にある大人の願いや都合がでてきてしまいます。

こればっかりは「こうすれば遊び心が取り戻せるよ!」という特効薬はないのですが、(ちょっと抽象的になってしまいますが)私は「未来を手放す」ことを意識しています。

子どもたちが遊びに没頭しているとき、彼らは今を生きています。そこへ、未来に片足を置いたまま関わるのではなく、未来を手放して、今に心を置いた状態で関わること。

もちろん現実にはいろんな都合がありますから、いつも遊び心全開!というわけにはいかないのですが、なんでこの子たちと気持ちが噛み合わないんだろうと悩んでいた昔の私にとっては、この考え方があることで、その理由が分かった気がしたのです。

大人になっても思いっきり遊ぶのは気持ちがいいもの。

お子さんと一緒に、遊びの世界に浸ってみてはいかがでしょうか。

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