GAPのポスターがネット上で大バッシング

出典 http://www.infowars.com

あなたはこのポスターを見て、何か違和感を感じますか?先月、子供たちをモデルにした「GAP KIDS」のポスターがネットで大炎上し、GAP側は「不適切な抗議があったため」と弁明することなくこのポスターの出稿を急きょキャンセルする事態になったのです。

ポスターでは4人の女の子がそれぞれポーズを取っています。キャッチフレーズも「女の子は何だってできる」としており、アクティブに逆立ちしたりバレエの格好で足をあげたりしている女の子もいます。

どうしてこのポスターが大バッシングを受けたのか。ポスターの3人は白人の女の子。そして1人は黒人の女の子ですが、この黒人の女の子の頭の上に腕を休めるようにしてポーズしている白人の少女を見たネットユーザーたちが「黒人は白人のひじ掛けではない」「女の子は何でもできる、って黒人以外はってこと⁉」「上から押さえつけているようなポーズは人種差別だ」と批判を寄せたのです。

Pinned from infowars.com

「黒人に対して受け身の差別表現」だという批判が相次いだために、GAP側はこのポスターの差し止めを決定。不愉快な思いをさせたことを謝罪しました。

時にネットの力は思わぬ方向へ行き、「批判」することを当たり前のようにしている社会が存在するのが今の世の中ではないでしょうか。批判をすることは決して間違っているのではなく、批判を受けた側も、自分では気づかなかったことに気付かせられるということで物事の改善へと繋がっていくケースが多々あります。

それゆえ、必ずしも批判=否定的とはいえないのですが、最近どうもこの「批判」が目立っているように思えてなりません。

日本でもどこでもテレビやネットの世界で誰かが何かを言えば、瞬く間に炎上。良かれと思ってしたことでも批判され、叩かれる…。メディアの世界で何かを伝えることは、もはや批判を覚悟しておかなければならないというのが正直なところでしょう。

このGAPのポスターが、もし黒人の子供が3人で白人が1人という全く逆のシチュエーションだったら、世間の反応はどうなっていたでしょうか。

「白人の女の子に押さえつけられている黒人の子の表情が暗い」といった批判は、たまたま黒人の少女がその表情であって、差別を受けているということには直接は結びつかないのではないかと指摘する人も中にはいます。

でも、ネット上ではこうした「見た目」の印象が明らかにユーザーたちの批判を煽る火種になっていることは否めません。

社会には「批判」という武器での言葉狩りが増加

Licensed by gettyimages ®

各メディアは、ユーザーの目を意識してピリピリと神経を尖らせ報道を行うようになったものの、テレビを見ている視聴者、もしくはネットユーザーからその揚げ足を取るかのように次から次へと出る批判。

コメディアンも以前は口にできた風刺表現も、現在では不適切だとバッシングを受けるなど、批判という言葉狩りによって非常にやりにくい世の中になってしまっている気がしてなりません。

肯定と否定のバランスが社会には必要

Licensed by gettyimages ®

「そのぐらいのことで…」と思わざるを得ないことでも批判を受け大炎上になったりすることは決して少なくありません。社会には「それぐらいのこと」と事案を肯定する人が存在してはいるものの、批判の嵐に負けてしまい否定と肯定のバランスが上手く取れなくなってきているように思えてならない筆者。

確かに、「誰が見てもこれは悪い!」というようなことはあります。でも周りの批判に便乗するだけでなく、ちょっと引いて社会を見てみる目を養うことも大切ではないでしょうか。肯定の余地なき事柄に肯定することはできなくても、違った視点からの受け入れも批判に便乗しない方法の一つでは、と思うのです。

人の思考というのは当然一人一人が違うもの。でもネットの力はその異なりを一つにまとめてしまうほどの威力があるのです。ちょっとしたことで誰かがそれに水を差せば、他のユーザーたちも批判的な態度を見せてしまうようになり、ネット上での発言は誰しもが神経質にならざるを得なくなっているといっていいでしょう。

人の見た目や人種による差別に対して社会はとても敏感。それは実際にはいいこと。でも社会が肯定と否定のバランスを崩してしまうと、そこにはただの攻撃性しか残りません。差別を肯定するというのではなく、「そういう意図ではないのではないか」という思考も私たちに必要なのではないでしょうか。

表現の自由が消え去ってしまう社会になるのでは…

Licensed by gettyimages ®

人種や性別などあらゆる差別発言や行動を社会から排除すべきという理論は「ポリティカルコレクトネス」と欧米では呼ばれています。この極端すぎる「ポリティカルコレクトネス」は表現の自由さえも奪ってしまいます。

表現の自由を奪われた社会には、正直何の面白みも残らないでしょう。意思の自由、表現の自由は誰しもが持つべきもの。企業側は当然細かな部分に配慮をするべきですが、「これぐらいどうってことないじゃないか…」と受け入れ側が思えることまでも徹底して排除してしまうことは、自由な思想を持つためにしていたことでも、逆にそれが自由を奪ってしまう羽目になってしまうのではないでしょうか。

社会の中で、どこからどこまでを受け入れるかというその線引きは実は非常に微妙なものだと言えるでしょう。個人の思想があるようにそのラインも様々。ただ、「否定」や「批判」をするだけでは周りに伝えたいことの半分も伝わらない結果となってしまうのではと思う筆者。

GAPのポスターの一件はそうしたことを私たちに伝えた典型的な例だったといえるのではないでしょうか。企業側は意図的にしたことではないけれど、批判を受けたことによりすぐに差し止め。それにより、子供たちの表情や表現力の自由がそこから奪われてしまったのです。

私たちがネットの世界について考えなければならないこと、また、姿勢を正さなければならないこと、視点を変えなければならないことはまだまだあるでしょう。それにまず気付くということから始めなければいけないのではないでしょうか。私たちの生きる社会がこの先「批判」だらけになってしまわないことを願う筆者です。

この記事を書いたユーザー

Mayo このユーザーの他の記事を見る

公式プラチナライター。イギリス在住22年目。いつも読んで下さる皆さんに感謝。Twitterアカウントは@mayonesque18です。よろしくお願いします。

得意ジャンル
  • 話題
  • 社会問題
  • 動物
  • 海外旅行
  • 育児
  • テレビ
  • カルチャー
  • 美容、健康
  • ファッション
  • 感動
  • コラム
  • おもしろ

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス