平安時代、人が亡くなると、その遺体は風葬の地に運ばれ、捨てられ、そしてそのままの状態で野ざらしにされていたのだそうです。

今では到底考えられないことですし、なんだか平安時代と聞くと雅なイメージがあるのですが、この時代に火葬されていたのは、ほんの一部のお金持ち(高貴な身分の人たち)だけだったのです。

そして、平安時代にはおびただしい遺体の山が、そのままの状態で野ざらしになっていた京都三大風葬地は、「鳥辺野(とりべの)」「化野(あだしの)」「蓮台野(れんだいの)」の三カ所だったそうです。

これって、現在のどの辺りなんでしょうか?



「東の鳥辺野(とりべの)」

鳥辺野とは、清水寺の南から泉涌寺近辺一帯、阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)周辺です。

この辺りには、あの世とこの世の分かれ目がある、=冥土への入り口をなしていたと昔の人は思っていたようです。
(だから、遺体を捨てていったのかもしれませんが…)

平安京の区画整理された一帯から少し離れただけのこの地には、たくさんの遺体が、野ざらしの状態で捨てられていたわけですから、夜、現在の様に外灯もない真っ暗な闇に包まれている鳥辺野あたりに行けば、それは異常な雰囲気で怖いこと間違いなしだったと思います。

だから、古来より都に恐ろしい妖怪や怪談話がいろいろ出来上がるのも、無理のないことなのだろうと思います。加えて、この時代は、死体置き場に運ぶことのない遺体も道ばたに転がっていたのだそうです。

例えば、貴族の館で働いている人でも病気になると、即、屋敷から出されて、道ばたに捨てられたのだそうです。

そんな人たちが、薬を貰うことも、ご飯を食べることも出来ずに、やがては捨てられたその場所で亡くなっていた…ということでしょうか。




※余談ですが、当時は、人が平気で売り買いされていた時代です。

そして売られた人たちは、牛や馬の様に持ち主をあらわす「焼き印」を身体につけられたのだそうです。

それは、お金を出して買ったものが、そこから逃げられないようにするためと、もし運良く逃げられたとしても、すぐに誰の持ち物なのであるかが分かるようにするために、「印(しるし)」としての焼き印を身体につけられたのだそうです。

この話を聞いた時は、今では想像も出来ない、あまりに酷い話だったので「・・・・」と、無言になってしまいました。



そして、東山区松原通大和大路を東に行くと、平安時代に空海(弘法大師様)が建立した辻堂、現在の西福寺があります。

その傍らには空也上人の六波羅蜜寺があるのですが、この辺りも人骨がおびただしく、
当時は「髑髏(どくろ)町」と呼ばれていたのだそうですが、現在、「轆轤(ろくろ)町」と呼ばれるようになっているのは、江戸時代に京都所司代が意図的に改名させたのだそうです。

そして、この六波羅蜜寺近くにある飴屋さんには、有名な「幽霊子育飴」のお話があるのです。



<幽霊子育飴のお話>

ある日の夕暮れ時に、飴屋の主人が店じまいをしようとしたところ、若い女性が飴を買いに来ました。

その日から、この若い女性は飴屋の主が店じまいをしようとする夕暮れ時に、毎日、飴を買いに来るようになりました。

その若い女性の様子に、何かいいようのない違和感を覚えた飴屋の主人が、その女性の後をつけてみると…。
その若い女性は、鳥辺野の墓地に姿を消したのだそうです。

そこで、翌日。

飴屋の主人が、お寺の住職とともに、最近埋葬された女性の墓を掘り起こしたところ、墓の中から生きた赤ちゃんが見つかり、脇には女性(死んだ母親)が買い求めた飴が散らばっていた…という、死んでもなお子どもを想い、その命を守りぬこうとした母親の愛情を伝えるお話が残っています。



「西の化野(あだしの)」

化野は嵯峨野にあり、化野念仏寺で知られています。

愛宕山麓にあって、この辺りも平安時代は風葬地で、野ざらしだった、たくさんの遺体を見て哀れに思った空海(弘法大師様)が、化野念仏寺の礎となる如来寺を建てて供養し、後の世に法然上人が念仏道場にあらためて、現在の化野念仏寺に通じているのだそうです。

竹林に抱かれた化野念仏寺の境内には、約8000体もの無縁石仏が安置されていています。

明治時代無縁仏を供養する行事として始まったのが、8月23日・24日の二日間(地蔵盆の時期)、陽が落ち始める頃、数千体もの無縁石仏に蠟燭が灯されて、千灯供養(せんとうくよう)が行われているのだそうです。


※因みに、「あだし」とは、「はかない」「むなしい」「変わりやすい」という意味があるのだそうです。


「北の蓮台野(れんだいの)」

蓮台野は、船岡山の西側一帯(大徳寺近く)を指します。

この船岡周辺を「紫野(むらさきの)」と呼びます。

一説には、遺体から流れる血で染まったことから(土の色が血の色に染まって、それが紫色に見えるくらいに、たくさんの遺体が野ざらしのまま、そこに捨てられていたということなのでしょうが…、想像するとちょっと恐ろしいことですね)、紫野という地名がついたとも言われているそうです。


※因みに、蓮台野に遺体を運ぶのに使った道を千本通りと言います。
この遺体を運ぶ際に通る千本通りには、当時、卒塔婆(そとば)が千本(無数)立てられていたことから千本通りと呼ばれたのだそうです。


<卒塔婆(そとば)とは>

卒塔婆とは、供養のために死んだ人の名前や、お経の言葉を書いて墓の後ろに立てる細長い板のこと。

卒塔婆を立てるのは「善」とされていて、故人の冥福につながり、尚且つ、自身の良い行い(卒塔婆を立てる=善を積む)につながるともいわれています。

「風葬とは…、」

風葬とは、死者をそのままの状態(=野ざらしのまま)で、その場に捨てて、(土に埋めることなどはせず)遺体を雨風にさらしたままで自然に消滅させる葬り方です。

ということを考えると、髑髏(どくろ)町と言われるほど、たくさんの髑髏が転がっていたのは、たくさんの野ざらしの遺体があったということですから、当時は死臭もすごかったのではないでしょうか。

それに、たくさんの遺体が野ざらしのまま放置されている状態では、何らかのきっかけで疫病も猛威を振るったのだと思います。
事実、平安時代に疫病が大流行し、たくさんの人が亡くなるという悲惨な出来事が起こります。

このとき、疫病の正体が分からない当時の人は、御霊の怒りをかったからだと考え、その怒りを鎮める為に行われたのが、現在の「祇園祭」です。



ですが、もとは恐ろしい御霊の怒りを鎮める為のお祭りだったものが、現在では誰もがみんな楽しみにする祭りに変わっているのですから、やはり京都という日本の古都は、とても不思議で、永い時間をかけて創り出した素敵な街でもあると同時に、

忘れ去られた時の中に…、

今では、清水寺への参詣者で賑わいを見せている地が、かつて平安時代には遺体の捨て場所であり、おびただし数の遺体が野ざらしで葬られていたという、ほんの少し怖い街の顔も持っているのだなとも思うのでした。




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知らないことが知りたくて、メンタル、カルマ、礼法に漢方スクール…etc.とお勉強。で、ですね、人を動かしているのは無意識、でも、この無意識を味方につけるとスゴいんだ~と気づいたら…、なぜか、「えっ?!そうくるかぁ~」と、色んな場面に遭遇しれしまう…という面白いことが起こりだすのでした。

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