古代に創られたパレルモの街ですが、2000年余という悠久の時を経ても、その昔と変わらない“いつもの時間”が流れています。時には無謀な戦いに紛れた街ですが、でも、こうしてとても大切にした“今という時間の流れ”を誇示し、旅人を迎え入れるのです…。

シシリー島パレルモの街の中心ベッリーニ広場に面した南の高台に建つこのサン・カタルド教会は1160年に創建された歴史ある教会です。

シシリー島の州都パレルモの街の中心地に建つ「マッシモ劇場」Teatro Massimoは、イタリア国内でも由緒あるオペラ劇場としてその名を馳せていましたが、マフィアのボスとして絶大な権力を握ったマイケルの最晩年の物語として1990年に公開されたアメリカ映画「ゴッドファーザー PART3」の上映から、国内だけではなく国内外にその名を知らしめました。

名画「ゴッドファーザー PART3」の舞台になったマッシモ劇場Teatro Massimo in Palermo(Sicily in Italy)

《名画「ゴッドファーザー PART3」の舞台になったマッシモ劇場Teatro Massimo in Palermo(Sicily in Italy)》

作品の監督はフランシス・フォード・コッポラ。1970年代後半から約10年間におけるバチカン金融疑惑やそれに関連したとされる1978年のヨハネ・パウロ1世の急死など、実際の事件がほぼそのままに近い形で作品に織り込まれたという、センセーショナルな内容も話題を呼び、世界中の映画ファンの注目を集めました。そして、そのラストシーンの舞台となったのが、このマッシモ劇場なのです。

オペラの開演時間から始まった劇場でのそのシーンは、ドラマチックに仕立てられました。

コッレオーネ・ファミリーの息子が舞台に出てオペラを歌う最中、コッレオーネは狙撃者に狙われはするものの、的が合わず何度も狙いを定められます。そのシーンは張りつめた緊張感のまま延々と続きました。結局、劇場内ではその機を得られず、幕が降りて観客共々コッレオーネが外に出たそのとき、銃弾が放たれます。でも、銃弾はコッレオーネではなく、後を追いかけてきた愛する娘メアリーに命中。

コッレオーネはこの階段にひざまずき、血だらけになって息絶えた娘を抱きしめ泣き叫びます。自分の身代わりとなって凶弾の的になった愛する娘を抱きしめて泣き崩れます。悲しみに打ちひしがれ、立ちつくし家族の姿もここに…。

パレルモのメインストリートのコルソ·ヴィットーリオ·エマヌエーレ沿いに人知れず建つサン·フランチェスコ·ダッシジ教会。

通り沿いから見える大きなバラ窓と正面扉の繊細な彫刻が見事なロマネスク様式のファサードに誰もが惹かれ、その重厚さに立ち止まります。

コッレオーネ・ファミリーの幸せを一瞬の内に奪った「ゴッドファーザー PART3」のラストシーンの舞台となったことで、世界中の人々がこの劇場の存在を知ることになりますが、それ以前からオペラファンには格式ある劇場としても知られ、日本からも多くの人々がここを訪れ、オペラを楽しんでいます。

オペラ劇場としての規模も誇る劇場ですが、ちなみにどれほどかといいますと、ミラノのスカラ座が2300席、ローマ歌劇場が2200、トリノの王立劇場が1800、ナポリのサン・カルロ劇場が2500席。 そして、このマッシモ劇場は客席数3200。もちろん、その規模はイタリア国内屈指の大きさを誇りますし、音響効果の素晴らしさでも知られる名門の劇場でもあるのです。

建て物は1875年に着工し、12年後の1897年という長期に渡っての工事で完成したネオ・クラシック様式の壮麗な外観を誇ります。もちろん、内部の豪華さと重厚さは、劇場の自慢とするところですが、1897年5月16日の杮落としの際の上演作品は、オペラファン間では今なお話題になるほどの作品で、それも自慢の一つとしているのです。

それはイタリアが誇る巨匠ヴェルディの78歳(1892年)のときの作品である喜劇「ファルスタッフ」が上演されたからです。それはまさかの演目でしたから誰もが驚きました。

というのも、作品は1893年にミラノのスカラ座で初上演されたものです。しかもその折には、喜劇のオペラ(オペラ・ブッファ)として絶賛された作品ですから、それを上演したということは、暗黙の内にマッシモ劇場はスカラ座と並ぶ格式ある、そして、名門の劇場であることを内外に知らしめることにつながるからでした。でも、劇場を開業した時から名門らしい演目を上演し続けていますし、社交界のみならず名画の舞台になったりして、様々な話題を提供し続けているのですから、それは間違いはなく、名門中の名門劇場として君臨し続けているのです。

ネオ・クラシックの気品漂う姿を誇示し、憂いある情景を見せるマッシモ劇場。ここに静謐な時間の流れを感じるのは私だけしょうか。素敵です…。

1787年この地を訪れた文豪ゲーテが魅入られたパレルモの国鉄駅近くに広がるこのヴィッラ・ジュリア公園

公園の起源は日本では江戸時代、杉田玄白たちがようやく“解体新書”を著した頃の1778年、当時の総督ジュリア・ダヴァロスの妻ジュリア・ダヴァロス・グエヴァーラに捧げて造園したことにあり、“ヴィッラ・ジュリア”と名付けられた公園は、その後、1886年に拡張され、一般にも公開され今に至ります。

公園の設計者はパレルモの多くの宮殿を作り人気建築家で知られたトラパーニ生まれのニコロ・パルマ。彼らしい独創性にあふれたそのデザインは、正方形の平面に放射状の線が集まるように幾何学的に道路を配して空間を構成したもので、当時としては整然とした秀麗さとその斬新なデザインが話題となり、市民たちを魅了しました。

なかでも当地に滞在したドイツの文学者ゲーテの賞賛は格別のもので、彼は「イタリア紀行」の中でこう書き残しています。

「とある公園には馬のあしがたやアネモネの広い花壇があった。空気は穏やかで暖かく、芳しい香が漂って、風はなまぬるい。それにまるい月が岬の後ろからさし昇って、海面を照らした」

「波止場のすぐ傍らにある公園で、私はもの静かな、楽しい時間をすごした。ここは世にも不思議なところである。この公園は法則どおり設計されているが、それでいて仙境めいた感じがする。樹木を植えたのはさして古くはないのに、まるで古代にあるかのような思いを禁じ得ない。…あの不思議な公園の印象は、深く私の心に刻みこまれた。北方の水平線に見える黒味がかった波、それが紆余曲折の入江におし迫る有様、水蒸気の昇っている海の独特の香り、このすべてが私の感官にもまた記憶の中にも、幸福なファイアケスの島を呼び起こしたのだ。すぐさま、私はホメロスを買いに出かけた」

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe=1749年8月28日~1832年3月22日)はドイツの詩人であり劇作家でもあり、小説家、自然科学者、政治家、法律家、など数多くの肩書を持ちます。1786年9月、37歳のときゲーテはイタリアへ旅立ちます。ゲーテの父がイタリア贔屓であったことで、幼い頃からゲーテにとってイタリアは憧れの地でしたから、ゲーテはまずローマに着くとイタリア人らしく装うためにイタリアの衣服を購入し、イタリア人になりきっての滞在でした。その後ナポリを経て、このシシリー島にやってくるのです。島での生活は長く、当初の予定をはるかに超えて、約2年間イタリア滞在を楽しみ、地元の文人や芸術家たちと交流をしたりして、イタリアについて多くを学びます。ゲーテはその2年間に人生観も変わったと伝えられるほどで、その30年後にはイタリア滞在中に書き綴った日記や書簡をもとに「イタリア紀行」を出版します。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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