出典 https://commons.wikimedia.org

記事提供:まぐまぐニュース!

今年で友好150周年を迎える日本とベルギー。先日、首都ブリュッセルで起きた連続テロ事件で悲しみに包まれるベルギーの人たちに、私たちが力になれることはないのでしょうか?

無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、日本とベルギーが古くは大正時代から、お互いの苦難を何度も支え合って乗り越えた「絆」の歴史を紹介しています。

日本・ベルギー交流史

東京墨田区にある東京都復興記念館には、有島生馬が描いた1枚の絵が掲げられている。

どす黒い煙が上がる暗い色調の中で傷ついた人々がうごめき、地面には多くの死体が横たわり、キャンバスの右脇には1台の車が停車。その側に双眼鏡を手にした山本権兵衛首相が描かれている。

この絵は言うまでもなく関東大震災を描いたものだが、山本首相の傍らに白い夏服を着た外国紳士と赤い服の小さな女の子が立っている。

いったいこの2人は何者であろうか。有島生馬は誰を描いたのだろう。じつはこの疑問を解明していくとき、近代日本の知られざる横顔が見えてくる。

周知の通り、大正12年9月1日、関東一帯を襲ったマグニチュード7.9の巨大な地震は未曾有の被害をもたらした。

とくに東京・横浜の被害は目を覆うばかりで、全壊したり焼失した家屋は約50万戸、死者・行方不明者は10万人を超え、その他の被災者は約240万人以上にものぼったという。

この大震災の二ュースは世界各国に報道され、諸外国から援助の手が差し伸べられることになるが、群を抜く支援活動を見せたのがべルギーだった。

9月3日に報せを受けたべルギー本国では、5日には「日本人救済べルギー国内委員会」が結成されて活動を開始。

上智大学教授の磯見辰典氏によれば、「音楽会、講演会、バザー、さらに『日本の日』が各地で催された。…新聞はもとより、カトリック教会もこのキャンぺーンに積極的に参加した。

この活動の結果、約264万2,000フランを集めて日本に贈ったが、これはアメリカ、イギリスに次ぐ多額の援助金となった」(「文藝春秋」1997年4月)という。

このときべルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と題する日本への支援を訴えた文書を見ると、9年前の第1次世界大戦の際、ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して数々の援助を尽くしてくれた日本人への賛辞が述べられ、

べルギーの元兵士はこのときの恩義を今こそ日本に返そうではないかという趣旨が書かれているのである。

これがべルギーが関東大震災に見舞われた日本に惜しみなく最大級の援助を施した歴史的背景にほかならない。

ではわが国は第1次世界大戦中のべルギーにどのような支援をしていたのだろうか。

苦難のべルギーを支援した大正日本

周知のように第1次世界大戦に際してロシアおよびフランスと戦うことになったドイツは、フランスを一気に叩くためにべルギー領内を通過して攻め入ろうとした。

当然、永世中立を標榜するべルギーはドイツ軍の無法に対して立ち上がったが、圧倒的優位を誇るドイツ軍の前に国内は蹂躙されていった。

それでも、当時の国王アルべール1世は、フランス国境のフェルヌに近い寒村に踏み止まって抵抗を続けた。

こうした連日の報道に接した日本人は、勇敢に戦い続けるべルギー国民を激励するために支援活動に立ち上がる。

朝日新聞社長村山龍平は「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも親しく陣中に在はして将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義皇帝アルバート陛下の勇武を欣仰」(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)して、

愛蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の特派員杉村楚人冠を通じて献上している。

かくして日本国内の新聞各紙をはじめ雑誌その他の刊行物を通じて、苦衷に立つべルギーへの支援活動が日本国内で熱烈に展開されていく。わが国の近代史に際立つ光彩を放っている史実である。

前述したごとくべルギーが関東大震災に見舞われた日本にあらん限りの援助を尽くした背景には、あらまし以上のような史実があったからなのである。

そのことを有島生馬は熟知していたに違いない。だからこそ、当時両国の間に立って奔走した日本駐在べルギー大使バッソンピエール男爵とその姪を、日本支援の象徴としてキャンバスに描いたのである。

虐殺事件の嘘を暴いたべルギー公使

そもそもべルギーと日本との本格的な交流は、1866年の日本国白耳義国修好通商及び航海条約の調印に始まるが、とりわけ明治26年から43年のあいだ日本公使を務めたアルべール・ダネタンが、敢然として明治日本の名誉を守った史実も特筆にあたいするものである。

例えば日清戦争での日本軍による旅順港占領の際に、無事の住民に対する虐殺が行われたとする記事が諸外国の新聞に報道されたことがある。

ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗り出し、結局米国記者によって捏造された「虐殺事件」がまぼろしだったことを突き止め、べルギー本国政府に対して注意を促す次のような報告書を提出している。

旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたものであった。

私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。

旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった。

出典磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著『日本・べルギー関係史』

こうした史実はほんの一例にすぎないが、いずれにせよ、日本に対する偏向や捏造の記事を次々に修正し、公平な情報を送信して列国の誤った対日観を是正したべルギー公使アルべ-ル・ダネタンを知己とした明治日本の幸福を思わざるを得ない。

ダネタンは特命全権公使のまま日本の地で死去、雑司ケ谷墓地にこの日本の名誉を守った恩人の墓が立っている

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス