記事提供:TOCANA

あの未曾有の震災から5年が経つ。山谷、築地と“失われつつある風景”を撮影してきた写真家新納翔が震災直後の被災地を捉えた写真と文章を寄稿した。

■黙れこの偽善者どもが!

出典 http://nerorism.rojo.jp

3.11直後からSNS上では震災から目を背けるなというような言葉が流れていた。瞬時に流されていくTwitterの画面に虚しく浮かぶそれらの言葉に、得体の知れない気持ち悪さを感じていた。

言葉には出さなかったが、モニタ越しに黙れこの偽善者どもが!と思っていた。

被災者の方はともかく、現場を見ることもなくネットに溢れる情報だけを鵜呑みにして正論をふりかざしているように見えて仕方なかった。自分の眼で見てから判断する、それが私の写真家としてのスタンスだと考えている。

そんな矢先、知人の編集者が福島第一原発に行くから一緒に行かないかと声をかけてもらい同行することになった。

他には元東電の職員で原発の設計に携わったAさん、現東電の職員で情報がコントロールされた中、実際に何が起きているのかこの眼で見たいという新入社員と計4人となった。

■情報化社会に霞む被災地

私が被災地に行ったのは地震から三カ月後。知人の写真家にはその翌日にバイクに機材を積んで福島入りした人もいた。福島駅まで夜行バスに乗りそこから先は南相馬市に住む元東電のAさんの車で移動することになった。

東京ではとにかく「放射能が危険だ」という声ばかり聞いていたので、福島についてその温度差
を感じざるを得なかった。

Aさんの持参したサランラップでまかれたガイガカウンターが4台、車内の中に鳴り響く。この耳障りな音さえなければ震災のことも忘れてしまいそうなのどかな田舎道だった。音だけが知らせる放射能の恐怖、目に見えないというのは実に恐ろしい。

その日はホットスポットを何箇所か回りつつ原町の方へ進んでいった。震災後まだ通れない道が多くカーナビは糞の役にもたたない。地元民であるAさんがいなければ海岸の方にたどり着くこともできなかっただろう。

震災から三カ月、まだそのまんまといった感じだ。

途中立ち寄った南相馬市の中川ダムでガイガーカウンターをかざしたらマックス100マイクロシーベルトという異常な値が出た。湖底に放射性物質が沈殿し行き場がなく濃度が日に日に増しているからだとAさんは言う。

予想以上の値に一行はすぐに車に戻った。しかしもしガイガカウンターがなければこの事態に気づくことは不可能であろう。

震災から福島第一原発の事故と連鎖的に起こった災難と、それを伝えるインターネットという一見便利なものを介して、時にテレビ・ラジオよりもTwitterの方がいち早く情報を得られるといった利点もある反面、根拠のない憶測まで高速で拡散されていく。

情報化社会は本当に怖い。あたかも事実を知ったかのようになってしまうことへの怖さを目の当たりにした。

■被災地はただただ美しい

時間か車を走ってようやく海岸の方に近づいてきた。

ネットで見ていた被災地の景色が頭の中でオーバーラップする。だんだんと瓦礫の様子が見えてきた。破壊された常磐線の踏切を超えると急に景色が変わった。震災から数カ月たって、ところどころ既に草が生えている。被災地は自然に還ろうとしていた。

一体どういう思いで被災地にレンズを向けていたのかは覚えていない。少なくとも被写体としてはフォトジェニックではある。自然の脅威に圧倒されながら道無き道を走る。もはや地図などない。

瓦礫が積み重なったところで写真を撮っていると海岸線の方から警察車両が近づいてきた。なにか法を犯したわけでもないのに感じる背徳感。

警察の方は車を止め自分の方に近づいてきて「ご苦労様です」と敬礼して去っていった。報道の方と思われたのであろう。

被災地に入って1時間、私は想像していなかった感情を抱いていた。

非難を覚悟でいえば「ただただ被災地は綺麗だった」、そして撮ることに「飽きてしまった」


今思えばそれは当然の話で、被災地がかつてどのような場所であったのか身を持ってしらぬ自分がそこへ行ったところで、本当の悲しみを抱いたり、怒りを感じるようなことはないのだ。私にとっては、ここはこういう場所だと思ってしまえばそれまでなのだ。

被災地はただただ美しい。正直な感想はこれだ。そこが古代ローマの遺跡だと言われればそうなのかと納得さえしてしまうだろう。

■南相馬で聞いたTSUNAMI

日が暮れて18時すぎ宿に着く。驚いたことに、国道沿いにぽつんと建っている旅館はちょうど福島第一原発から20キロの境目だった。宿と眼の鼻の先に立ち入り禁止制限の看板と点滅灯がチカチカしている。

自分の部屋は安全ですぐとなりは立ち入り禁止区域というのはなんだか腑に落ちない話であるが、コンパスで書いたような区域はそういうことになるのだろう。客は私たちのほか、東電関係者と思われる方や作業員の方のみだった。

夜、Aさんの提案で地元の飲み屋に行った。内心東京から物見遊山で来た自分に怒りをぶつけられても仕方ないと思いつつ、スナックのような所に入った。娯楽を失った人々の憩いの場となっており、満席状態。

地元の人も別段「そうなんだ」程度のリアクションに過ぎず内心ほっとした。しかしそんななか事件は起きた。誰が言い始めたのか、カラオケ大会が始まって一曲ずつマイクを回している。

自分は部外者だからスルーされるかと思いきや、ほいさとマイクを渡された。

私の脳裏には津波のこともあって、「流れる」「水」等に関係する曲を選んではいけないと、セクシャルバイオレットNO1を歌って隣の人に渡したら、驚いたことにサザンの「TSUNAMI」を歌うではないか。

「ははは、そんなこと気にしていたらやってられないよ。復興?そんなの無理だよ。誰もそんなことに期待なんかしていないよ」、東京との温度差を感じた夜だった。

■被災地のボーダー

二日目、相馬港やら相馬市内のほうへ行った。どうにかして福島第一原発に近づこうとしたが昼間だとどうにも目立つ。

Aさんいわく、海岸線に間近までいける道があるとのことだったが、闇雲に行ってもしかたないので今回は断念ということで個人的に行きたい場所があったのでそちらに車を回してもらった。

ヨッシーランド


36人が犠牲になった介護老人保健施設である。平屋建てということもあって予想以上に大きな建物だった。到着した時にはとうに日が暮れて電気も途絶えた施設内は真っ暗だ。

単身中へ入る、ここで大勢の方が亡くなったのかと思うといやでも背筋が寒くなる。何も見えないので定期的にフラッシュをたき通路を確認する。

長い廊下の途中でフラッシュをたくと、床にちょうど人のような白いものが見えた。これは出くわしてしまったかと思ったが、丸まったシーツだった。

あらかた遺体は片付けられているとはいえ、逃げ遅れた人たちの痕跡がいたるところに残っている。波に流されまいと壁に残った手形、散乱した靴。

私が被災地で多くの方が犠牲になったと真に感じた一番記憶に残っている場所。いや、なんというか、一番実感した場所というべきか。

老人介護施設ということで津波到達予想地点より遥か高台に建てられ津波など来ないはずだった。

しかし自然の力は人間の予想を遥かに上回っていたのだ。皮肉なことに、この建物が津波最終到達地点だった。車道から少しおりた所に建物があり、もしそうでなかったら被害は免れたやもしれぬ、と地元の方は言っていた。

生と死を分けるボーダー
、まさにほんの小さなものなのだ。その方は私に「被災地のボーダー」を撮って欲しいといった。

間違いなく近いうちに施設は取り壊されるだろう。当事者でもなんでもない私だが、もし震災の風化につながるかもしれないと考えるとなんだか複雑な心境である。

ヨッシーランドの一室には入居達が手作りでこしらえたカレンダーが貼ってあった。どうしたわけか3月のカレンダーだけが壁から剥がれ床に落ちていた。

■新納 翔 Niiro Sho

写真家。1982年横浜生まれ。早稲田大学理工学部応用物理学科中退。日本の三大ドヤ街のひとつである「山谷」にて、実際に働きながら7年間写真を撮り続ける。

写真集に『Another Side』(Libro Arte)等がある。2015年築地のギャラリー「ふげん社」にて、写真展「築地0景」を開催。写真評論家の飯沢耕太郎氏より高い評価を受ける。今月4月「新宿ベルク」にて個展開催予定。

ホームページ
Facebookページ

山谷における作品はこちらより見ることが出来ます。
AnotherSide(2012)

写真集は下記Amazonか私のウェブサイトよりご購入できます。サイトからであればサイン入りで郵送可能です。

出典 http://nerorism.rojo.jp

『築地o景』(ふげん社)

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