記事提供:TOCANA

昨年12月17日、元ヤクザで俳優、小説家と多彩な顔を持つ男・安藤昇が肺炎により死去した。満89歳。

安藤はかつて東京・渋谷を拠点とする愚連隊・安藤組を組織し、その最盛期には530人もの構成員を束ねる組長として君臨。

またその一方で、俳優として映画『血と掟』など、多数の作品に出演したほか、自身の経験を生かす形で、作家として『やくざと抗争』などの著作を残している。

銀幕の中でも外でも「やくざ一色」の人生を送るという、極めて数奇な運命をたどった人物であった。

そんな安藤と生前とりわけ親交が深かった花形敬(1930年~1963年)という人物を、読者諸兄はご存知だろうか。

比較的若い世代の読者には、板垣恵介の人気漫画『グラップラー刃牙』(秋田書店)シリーズに登場するキャラクター・花山薫のモデルになった人物と言ったほうがわかりやすいかもしれない。

その豪放磊落な生き様と、数多の武勇伝から「伝説喧嘩師」の異名をとる花形は、安藤が組織した安藤組の中でも、安藤から最も寵愛された部下として知られている。

彼の前科は実に7犯、都合22回もの逮捕歴を持つという、伝説のヤクザであった。実はそんな花形の眠る墓所が、東京・世田谷の閑静な住宅街にひっそりと存在している。

■伝説のヤクザ・花形敬の最期とは?

小田急小田原線の経堂駅から歩いて10分ほどの場所にある曹洞宗の寺院・常徳院の片隅に花形の墓所が建つ。

その墓碑を読むと、昭和三十九年九月の建之とある。

その前年である昭和38年の9月27日の午後11時15分頃、花形は現在の神奈川県川崎市高津区にあった自宅アパート近くの料亭・仙寅の前の路上で、敵対する暴力団・東声会が放った二人組の刺客によって刺され、絶命したのだ。

享年33歳。

折しもそれは、組長である安藤が服役中で、花形が安藤組の組長代行を務めていた時期であった。

この時に事件を目撃した人物らの証言によると、花形の刺殺に成功した東声会の構成員たちは、待たせてあった自動車での逃走の際に、携行していた拳銃を発砲。

追跡していた料亭の店員が銃創を負ったとされるが、そこから推察するに、この刺客たちは、花形を刃物による近接攻撃ではなく、身の安全を確保した上で銃による狙撃で殺害することも可能であったと考えられる。

だが、それをあえてしなかった点に、花形への復讐心の強さと、確実に仕留めたいという執念が、ひしひしと伝わってくるようだ。

世田谷で育ち、学生時代から番長争いをしていたほどの根っからの武闘派でも知られている花形は、昭和25年頃に石井福造の仲介で安藤の舎弟分となると、渋谷を拠点にヤクザとして活動を開始する。そこからの武勇伝には事欠かなかった。

■力道山を一喝、ヤクザ界の“花形”

たとえば昭和の大スターとして知られる力道山が、一時期、渋谷にオープンしたばかりのキャバレーで用心棒の真似事をしていた際に、

その地域を取り仕切る安藤組への挨拶を行わなかったため、筋を通そうとした花形が同店に乗り込み、出迎えた力道山を一喝して退けたという逸話が残されている。

こうした花形の活躍は、70年代のヤクザ映画全盛期にヒットした映画『安藤組外伝/人斬り舎弟』などに描かれているほか、後年、ヤクザをテーマにした数多くの作品に、そのキャラクターモチーフとして取り入れられている。

その短い生涯は、まさにヤクザ界における“花形役者”とでも言うべき、特異なものであっただろう。

刺殺事件後、経堂にある実家へと運び込まれた花形の遺体を前に、変わり果てた息子の無念を想った母は泣き崩れた。

だが、その通夜の際には、花形の母らしく気骨にも涙ながらに息子の弔い合戦をしないよう、安藤組の諸衆に訴えたといわれる。

おそらく獄中の安藤もまた、ほどなくしてその訃報を知ったと思われるが、その無念さは想像をするに余りあるものであったと言わざるを得ない。

現存する花形の墓には、施主として、小池光男、安藤昇、友人一同と刻まれている。その死後、数十年の時を生き、自身が見ることのなかった激動の時代を眺め続けた友との再会を、花形はどのような気持ちで待ちわびていたのだろうか。

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