テレビ番組の企画で絵を描いたことがきっかけとなり、1993年に初の個展を開催。その後、創作活動に専念する為、1996年に芸能活動を引退した…元お笑い芸人のジミー大西さん。なお、その後の活躍はご存知の通り…

天然ガスタンカーの外装デザインやオブジェ、モニュメントの制作など、活動範囲は多岐に渡り、また、1999年にはブラジル・パラ州政府より文化功労賞を受賞するという快挙を成し遂げ、日本だけではなく、世界が認める画家となったジミー大西さんですが、そんな彼が小学生時代に体験したという…初恋のエピソード。これが『切なすぎる!』『泣ける!』『映画化して欲しい!』と、ネットを中心に話題となっていたので紹介したいと思います。

ちなみに、過去に何度かTV(いつみても波瀾万丈等)で話し、その度にTwitter等で話題となっている…この初恋エピソード。では、ジミーちゃんらしい、純粋な文章にも注目しながら、彼の著書『天然色日記』に書き綴られた初恋エピソード。ご覧下さい!

小学校三年の時でした。

小学校の二年生まで、僕は友達にも父母にも、まったく口をきかない少年でした。

話が、できない少年でした。そんな僕が、話をできる相手が一人だけいました。

その女の子がしゃべりかけてくると、その時だけは、しゃべれるのです。


その子が、初恋の人でした。


僕はその女の子としか、しゃべれなかったのです。ほかの子がしゃべりかけてきても、まったくしゃべれなかったのです。

僕はその子としか、遊ぶことができませんでした。

その子はみんなと仲よく遊んだり、しゃべったりしていたけれど。

僕はいつも、ひとりぼっちでした。みんなの輪の中には、入れなかったのです。

輪の中に入ろうとも思いませんでした。

出典『天然色日記 (朝日文庫)』より引用

でも、みんなで、花いちもんめをする時だけは別でした。

その初恋の子が、僕の手をひっぱって、輪の中に入れてくれたからです。

終わりはいつもいっしょでした。

僕一人だけ残って、

「花いちもんめ、まきさんがほしい」

と、その子の名を言う。

「花いちもんめ、大西君はいらない」

それで終わりでした。

でも、まきさんは、

「花いちもんめ、大西君がほしい」

と、僕の国語のノートに書いてくれていたのです。

僕はそれからずーっと、まきさんのことが好きで好きでたまらなくなり、えんそくの時でも、まきさんのそばから離れなくなりました。ほかの子からは、

「大西君、女の子どうしでごはん食べているから、むこうに行って食べて」

と言われても、ぜったいにまきさんのそばから離れませんでした。

それから、朝のちょうれいの時でも、本当は背の低い僕は前から二番目に立っていなくてはいけないのですが、真ん中のほうへ行って、まきさんのよこに立っていました。みんなから、

「大西、いつからそんなに背が高くなってん」

と、背中とかつねられても、その場所から離れませんでした。先生にもおこられましたが、次のちょうれいの時には、また、まきさんのよこに立っていました。


僕は本当に、まきさんのことが好きだったのです。

出典『天然色日記 (朝日文庫)』より引用

そして、長い夏休みに入りました。

その夏休み、僕は何回か、まきさんの家をたずねました。でも、いつもみんな出かけていて、だれもいませんでした。たまにおばちゃんが出てきて、

「いなかに帰っているの」

と言ってくれるだけで、まきさんとは、夏休み中、会えなかったのです。

いよいよ夏休みも終わり新学期が始まる日、僕は母のけしょう水をふくにつけて学校へ行きました。

まきさんと会える、と思ったからです。

でも、まきさんは学校に来ていませんでした。

僕は、「明日は会える」「明日は会える」と思って、母のけしょう水をふくにつけて、学校へ行きました。

でも、まきさんは来ませんでした。

夏休みは終わったのに、まきさんは学校には来ませんでした。

出典『天然色日記 (朝日文庫)』より引用

そして九月十六日の朝のことでした。先生が、

「実は悲しいお知らせがあります。昨日、まきさんは病気のため、おなくなりになりました。みんな、目をとじて」

と言うのです。僕は、何の意味かわかりませんでした。

先生に聞いたら、先生は、

「まきさんは死んでしまったのです」

と言うのです。

僕は生まれてから、この時まで、知っている人が死ぬことがなかったので、人が死んでも、また会えるとばかり思ってました。

みんなでおそう式に行くことになって、教室に集まっていると、まきさんが教室の外のろうかのところに立って、僕を見て笑っているのです。僕が、

「まきさん。まきさん」

とさけぶと、みんなから、

「きもちわるー」

と言われました。

おそらく、ゆうれいを見たのは、あの時が最初で最後だと思います。

それから、みんなとそう式に行きました。それまで、そう式と言えばタダでおかしをもらえるところだとばっかり思っていました。

でも、まきさんのそう式では、おかしをもらってもうれしくなかったし、食べようと思ってものどに通らない。--まだ、会えるような気がしてたまらなかったのです。

そして次の日、学校に行くと、まきさんのつくえの上に花がかざってありました。

僕はみんなが帰ってから、一人だけのこって、まきさんのつくえにすわり、まきさんが国語のノートに、

「花いちもんめ、大西君がほしい」

と、書いていてくれたことを思い出してました。

出典『天然色日記 (朝日文庫)』より引用

そして次の日から、だれよりも早く教室に行って、花の水をかえて、いちど家に帰って、それからみんなといっしょに登校することを始めました。

僕はその日から、そのことがバレるのがこわくて、みんなにむりしてでもしゃべりかけるようになりました。


それで、人としゃべれるようになったのです。


毎日、毎日、花の水をかえていました。

花がかれかかったら、自転単に乗ってしぎ山の下まで行って、ざっそうの色のきれいなのを三本ほど抜いて、かびんに入れてやりました。クラスのみんなは、

「花がかってにふえている」

とか言うので、もしバレたらどうしようと思っていました。そうしたら、先生が、

「みんなが帰ったあと、先生が花をいけているのです」

と言ってくれたのでホッとしました。

そしてクリスマスイブの日、先生にしょく員室によばれて、

「大西君がまきさんの花をいけていることは、だいぶん前からわかっていたのよ」

と言われたんです。

僕は、はずかしくてたまりませんでした。先生は、

「この二学期で、つくえの上に花をかざるのはやめて、せきがえをしようと思っているの。いい? 大西君」

と言いました。僕は、首を、たてにふりました。

二学期最後のせきがえをしたら、前にまきさんが使っていたつくえに、ぐうぜん、僕がすわることになりました。

つくえの中を見ると、奥のほうにハンカチが残っていました。

おそらく、まきさんのハンカチだと思います。僕はそのハンカチを、小学校をそつぎょうする時まで、ずーっと持ってました。


これが、僕の初恋でした。

出典『天然色日記 (朝日文庫)』より引用

切なすぎる…。

今もなお、ジミーちゃんの心に残る…まきさんとの思い出。なお、Twitterではたくさんの人々が感動し、涙していました。

今のジミーちゃんがあるのは…きっとマキさんのおかげだと思う。

切ない話ではあるものの、内気な少年が人前で話せるようになったのは、紛れもなくまきさんのおかげ。もし出会わなかったら、芸人としてのジミー大西は…きっとこの世に存在していなかったに違いありませんね。

純粋さがトレードマークのジミーちゃん。これからも、まきさんとの思い出を胸に、私達にたくさんの笑いを届けて欲しいですね。

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