難病を患う

20歳で向かえた春の出来事。
大学の集団検診を終えてから数週間後に・・・

掲示板の片隅に自分の「学籍番号」が控えめに貼られていた。
詳細は、「事務室に至急、来る旨」が記載されていた。

事務室にて

何も悪いことはしていないつもりだが、
事務室に向かうまでに、胸のつかえや締め付けられる感を覚える。

悪いお告げでも下されるのか。

事務員さんに学番を告げると、
事務員さんは「保健室に行って下さい。」と囁き声で私に告げた。

何故?
囁き声

違和感を感じながら私は保健室に向かった。

保健室にて

身体に違和感を感じながら緊張の面持ちでドアを開ける。
保健医に名前を告げると・・

保健医は、
「直ぐに○○大学病院か○○病院で検査をして下さい。必ずどちらかの病院でお願いします」。

青天の霹靂とは、こういった事態に遭遇したときに使う言葉なのか・・

頭が混乱している中、自分に検査が、なぜ必要であるのか保健医に問うと
「肺に影が確認されたので細胞をとったり画像にて診断する必要があります」と・・

大学病院にて

大学病院の検査をすることに決めた自分。

酒、煙草はやらず、人よりも身体を動かし、
気を使ってきたつもりであるのに何故なんだと
自問自答しながら数ある検査をこなした。

検査内容は、細胞診(細胞を採取する検査)、
CT、MRI、採決、採尿と検査のオンパレード。

「病院」という閉鎖的な空間の中ということも相まってか、
健康優良児だと思い込んでいた自分には、強い痛みを感じないものの、
非常に苦痛な時間だった。

検査結果

検査結果は、黒ではなく・・「良性」。

「良性腫瘍」だと医師から告げられた。

医師は、「ただ、神経線維から成長しているものであり、今後のことを考えると成長する腫瘍で手術が必要です。」
「手術事態は難しいものではなく、取りきれば99%以上再発はないです。」と。

手術

「99%を超える再発がない、術式も難しいものではない。」

医師の言葉を信じ、手術に臨んだ。

肋骨を数本、肺の一部を切除したものの
医師の言葉をかりれば、手術は成功と言えたようだ・・

しかし、1年半後の定期健診にて「リンゴ大の影」が画像にて確認される。
医師からは、前回の手術で取りきれなかった腫瘍が成長したと告げられた。

2度目の手術

当時、医学の知識に乏しく
医師にいわれるがままに、同意していた自分にできることならば一言かけたい。

セカンドオピニオン、インフォームドコンセントなどの認識が、
医師、スタッフと私の間には無く、医師の「即入院、手術です」の言葉に
その場で首を縦に振ってしまった。

結果、18時間の手術。
大量の輸血。
意識は4日戻らず肋骨、片肺を全摘出

意識はどこからが戻っていたのか判らず、
はっきりと判ったのは体中に痛みを感じた時だった。

モルヒネ、麻薬などは全く効かず、
家族が見守っている手前、口には出さなかったが、
いっそのこと殺してくれと思うほどの全身の痛みだった。

その後、ICUから一般病棟へ移り、1ヶ月後に退院となった。

新たな腫瘍

退院から半年後の定期検診にて「メロン大の影」が確認された。

私の疑問、説明に対し、回答があいまいな医師。
さらに信じられない言葉を発した。
「うーん、3回目の手術をやっちゃおうかなー、3度目は危険ですよ」と・・

無責任な発言を聞き絶句するとともに
さすがに自分の身体をこの医師に預けられないと感じ、セカンドオピニオンを受けることにした。

大学病院の闇、思惑、実験台?
後々、判ることだが・・

私にとっての「ブラックジャック先生」

15以上の病院の診察を受診したが、あいまいな回答をする医師達、
自身で納得のいく治療方法もなく時間は刻一刻と過ぎていく。

190cm、72kgの身体から44kgに、身体の全ての機能が減退した。
生気が枯渇した感覚が、自分の身を襲い「死」を覚悟するようになる。

そして、最後に受診したS病院の内科医は、「はっきりとした病名は付けられません。日本で唯一の難病でしょう。ただ、文献でドイツに同じような症状の方がいまして放射線・化学療法を試してみませんか」と。

明確な回答を得たのは初めてであり、
衰弱し、横になっている私に対し、膝をついて目線を合わせ話す姿に感動した。
この医師にかけてみようと。

ちなみに大学病院の肺外科医師には、「内科に診てもらって大丈夫かな」と
嫌みたっぷりに言われた・・・

治療中の自分へのメッセージ

治療はほぼ定刻通り決まったスケジュールで行われた。
治療を終えれば、残りの時間はベットの上で静養する毎日。

日々、襲ってくる発作、衰弱していく中で考え、思うことは「死」についてであった。

病室から覗く景色は、のたうちまわってみえる。
治療効果は表れない。
歯を自分で磨くのも精一杯になってきた。

そんな中、携帯の着信音に気がつく。

友人Iからだった。
「19:00に病室から隅田川の景色をみてくれ。以上。」
とだけを残し、粗雑に切られた。

何を考えているんだ・・
Iは、いつも自分勝手な行動をとり、予想不可能なことばかりをする奴だ。

19:00を向かえのたうちまわっているであろうと思われる景色を覗くと・・

覗く先には、規模は小さいものの
絶え間なく打ち上げられる、秋の夜に開花する「花火」だった。

その花火は幻想的且つ芸術的で、
私の病室からは距離があり、腹に響く重低音を感じないものの
荘厳、見事で呼吸するのも忘れ、瞬きもせず我慢し凝視し続けた。

彼の感性でつくられた「花火」はいままで鑑賞したことがないものであった。

規模は小さいものの、絶え間なく打ち上げられ、生気を失い「生きること」を諦めかけていた自分に問いただす「何か」を感じろとのメッセージだった。

私が敬愛する北野武監督の映画「HANA-BI」の病に冒され、余命いくばくもない岸本加世子演じる妻と妻を支える夫、演じていたビートたけしが、ラストシーンに寄り添う姿と「打ち上げ花火」がリンクし私の心に響いた。

芸術的な景色は、滲んで徐々に観えなくなっていく・・

母の言葉

全ての治療を終え、1ヶ月が経過したが目に見える効果が未だみられずにいた。

嫌気、自虐といった感情が増し
家族にまで負の感情が伝播していた。

ある朝、ベットに横たわる私に不意に前置きなしに母が残した言葉がある。
「病気になっても病人になってはいけない」と・・。

友人Iの打ち上げ花火と母の言葉に今一度、自分を変える必要性を感じた。

治療効果

医師、スタッフの言葉を借りれば奇跡」と言えたようです。

治療を終えてから4カ月後に画像に写る影、腫瘍が
やや薄く消えているのではとの見解があった。

効いている・・。

退院

まだ、歩くことも出来ない状態であったが、退院した。

治療も出来ない身体であり、病院に居るよりは、
自宅に戻った方が、精神面を考えれば良いのではとの、医師の配慮であった。

その年は、大学に通うことも出来ず留年。
なんとか卒論を書き上げ、卒業をしたものの
その年、翌年と放射線、化学療法の治療により、
社会人としてデビューすることが出来ない日々が続き悶々とする時間を過ごす。

未だに定期的に病院に通っている。

しかし、入院していた時期とは自身の考え方に変化があります。
それは、「自覚」「愛情」に関してです。

医師やスタッフの皆さん、友人達や家族の「愛」によって、自分は生かしてもらえていると思うことであり、お世話になった方達へ、一生をかけて恩返しをしなければならないということを学んだことです。

国内唯一の難病を患ったことは悔やまれるが、
自分しか経験することができない、素晴らしい「花火」を鑑賞でき、
生気が失われていく中、母からは計り知れない「愛情」を受けたことです。

現在、自分が自分であることに感謝できることが、なにより嬉しいと感じます。

ちなみに「花火」ですが、友人Iは打ち上げ前に
マンション1戸、1戸、付近の住民に頭を下げ、打ち上げの許可を得ていたようです。

おまえはどれだけの時間をかけたんだ・・

この記事が、難病で苦しむ方へのメッセージや
少しでも勇気を与えられることができれば幸いです。

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