明日は阪神淡路大震災から21年という事で、2015年1月30日に放映されたNHKの番組「傷ついた人に寄り添って」の録画を、今朝また見ました。

日本のナイチンゲールと呼ばれた看護師、黒田裕子さんの物語です。東日本大震災の翌日には兵庫県から仙台の被災地に入り込んだ看護師さんです。「災害看護」という概念を、被災者支援の歴史を0から作り上げた看護師。

阪神大震災の際、体育館に救護所を作って支援し、その後仮設住宅にテントを張って寝泊まりし、被災者を支援し続けた看護師でもあります。避難者の場所を奪ってはダメ!と体育館の片隅に置いてある平均台を2本並べてその上で仮眠を取り、支援活動を行う看護師さんでした。

まだまだ書ききれないくらいの多くの支援を行った看護師さんでした。かつて私も大変お世話になったナースです。私のことを「妹みたいに思えるのよ~」と言ってくださいました。(妹というよりも、娘くらい年齢は離れていますが・・・)

あの阪神大震災の日が近づくと、いつも黒田さんのことを思い出します。

あなたは、平均台の上で眠れますか??いったい、いつ寝ているのだろう?「仙人だわ」と周りの人たちからは言われていた、人間離れしたすごいナースを紹介します。

テントの中で暮らす

私が黒田さんに初めて出会ったのは今から29年前、1987年の1月末、宝塚市立病院の病棟でした。当時黒田さんは病棟婦長をされていました。私は手術を受けることになっていたのですが、その病院始まって以来の疾患で前例のない手術でした。

術前術後2日間病院に泊まり込んで、看護して下さいました。ICUで共に戦ってくださった戦友だと思っています。

黒田さんは、阪神大震災当時はこの宝塚市立病院の副看護部長を務めておられました。
震災当日は、気になる患者さんがいた為できるだけ早く病院へ行こうと、いつもより早く起きておられました。寝ていたベッドにタンスが倒れてきたのですが、いつもより早く起きていたことで、難を免れました。

「これは、大変な被害が出ているはずだ!!みんなはおそらく体育館に逃げ込むだろう」とすぐさま部屋を飛び出し、近くの体育館へ向かわれました。そして自ら提案して、体育館内に救護所を作って支援にあたりました。

避難所になった体育館は、ただ雑魚寝をするだけの場所でしかありませんでした。しかし、黒田さんはプライバシーを守るために、様々なアイディアを出しました。段ボールで仕切りを作る、更衣室を作る、夜中にトイレへ行く人が気兼ねなく行けるように通路を整備する・・・・etc

そして、避難者が仮設住宅へ移ったあとも支援を続けました。最大級の仮設と言われた、神戸市西区の第7仮設。プレハブの住宅で1800人が暮らしていました。テントで寝泊まりしてボランティアで被災者の支援をされている」と聞いたときはびっくりしました。

看護部長も目の前なのに・・・??なぜ高い地位を捨ててまで、ボランティアで、わざわざ不自由な不便な過酷なことを・・・???と私にはなぜなのか、最初はわかりませんでした。

被災者にとっては、土地勘もなく知り合いもいない仮設住宅。黒田さんはこの仮設住宅で、肉親や仕事や生きがいを失った人たちが孤独感から孤立しないように、被災者が生きる力を失なわないようにと、希望の灯が見えなくなっている人たちを支援し続けました。いくら独身とはいえ、女性がテントで寝泊まり・・・・すごい!! と思いました。

しかも黒田さんは、24時間テントの灯を消すことなく付けたままにしていました。24時間ずっと支援していたのです。
「日が落ちてからのほうが不安が強くなるから、いつでもテントに入って来れるようにしておきたかった」と語っておられました。

新聞やニュースで黒田さんの活動を知るにつれ、「ああ~、黒田さんなら・・・・」と次第になんとなく、”黒田さんにしかできないことだ・・・”と
少しは黒田さんがなぜボランティア活動をされているのか、理解できるようになったのではないかな?と思います。

”日本のナイチンゲール”と書かれているのを見て、「その通りだわ」と思いました。

出典 http://www.kobe-np.co.jp

↑阪神大震災後の1995年9月、神戸市西区の西神第7仮設で支援をされる黒田さん。

孤独死を出さない

阪神淡路大震災後、よく言われるようになった言葉が「孤独死」です。

仮設住宅で誰にも気づかれずに一人で孤独に死んでいく・・・・
悪臭がするなどで部屋を開けてみると、死後何日も経過した遺体が・・・・

黒田さんは「自分が支援しているこの仮設からは絶対に孤独死を出さない!」と決意しました。

しかし恐れていたことは起こりました。

若いから大丈夫だろう、と思っていた56歳の男性が、手に酒瓶を持ったまま遺体で発見されました。ミイラ化してウジ虫が湧いていました。黒田さんは腰が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまったそうです。

「私はいったい何をしてきたのだろうか?もうこの辺でピリオドにしようか」と考えたそうですが、1人の死の体験よりも多くの人の生を支援する方が大切では?この方の死を無駄にしたくない、など様々な考えがあったようです。

長期欠勤していた病院に辞表を出して、さらに懸命な支援活動を行われました。「市立病院は私がいなくてもどうにでもなる。たくさんの人員がいる。でもここは人が足りない。私しかできないこともある」と話しておられました。

すぐに飛んでいく人

出典 http://www.nikkei.com

↑宮城県気仙沼の仮設住宅で支援を行う黒田さん。

東日本大震災の時も、ニュースを見るとすぐに支度をして、翌日には被災地に入りました。黒田さんは、 「避難者の場所を奪ってはダメ」と体育館の片隅に置いてあった平均台を2本並べて、その上で寝ていたそうです。

その後、「支援の手が足りない」と聞いて、110世帯270人が住む気仙沼市の面瀬中学の仮設住宅で支援活動をされました。見回り、声かけ、お茶会・・・・

お茶会を心の支えにしている被災者も少なくありません。このお茶会も黒田さんが神戸の第7仮設で支援した時に、被災者を孤立させないようにと始めたことです。

「孤独は人の生きる力を奪うから。孤立は希望の灯が見えなくなる」と話しておられました。

末期がん

被災者に寄り添って懸命に支援活動を行っていた黒田さん。

そんな黒田さんですが、2014年の8月末、「震災から20年の2015年1月17日5時46分に被災者の人たちが追悼式に集まれるように、神戸市営地下鉄の始発時間を早めて欲しい」という要望書を市役所に提出し、その足で西宮市内の病院に入院されました。

末期の肝臓がんでした。すでに肺にも転移していました

NHKが取材を申し込むと、「実はこっそりと入院しています。伝えたいことがあるから病室に来てほしい」と言われ、2014年9月17日にNHKの取材陣の方々が病室に向かわれました。

骨と皮だけにやせ細った体、黄疸で黄色い顔、苦しそうな声、おそらく意識も朦朧とされていたでしょう。しかし、取材の方々が黒田さんのそばに行くと、心の声を取材の方々にぶつけられました。

永眠

意識が朦朧とする中でも、うわごとのようにずっと支援の在り方を語っておられた黒田さん。

2014年9月18日には西宮の病院から故郷の島根の病院に転院されました。
黒田さん自身が望まれたことでしたが、大きなリスクを抱えての転院でした。「覚悟はできています。もしも途中で何かあっても行きます」と同行された方々が語っておられました。

黒田さんとともに被災者を支援してきた梁医師は、「自分が正しいと思う事をずっとやってきた人だから」と仰っていました。

「私の姿を見せたい」と末期の状態を撮影することを望まれた黒田さん。付き添いとして同行された看護師さんは、「豊かな最期を迎える”みとり”のモデルとして見て欲しかったのではないでしょうか?」と話しておられました。

末期がんで肺に転移していても、9月19日には尾頭付きの鯛などの郷土料理を食べ、看護師さんたちとベランダで生まれ育った故郷の風景を眺め、手を繋いで笑顔で写真撮影をされました。

そして9月24日、永眠されました。

黒田さんが入院する直前に提出した要望書通り、市営地下鉄は2015年1月17日の始発電車の時間を、5時46分のあの時間に間に合うように、早めてくれました。ポートライナーやそれ以外の私鉄も、始発時間を早めてくれました。

出典 http://www.kobe-np.co.jp

↑右の黒のスーツを着ておられるのが黒田さんです。

これが最後のお仕事となってしましました。

遺言

★死ぬのは怖くない。でももう時間がない。それが悔しい。もう少し時間があったらいろいろなことができたのに・・・時間がないから・・・

人間不在にならない介入の仕方を考えないと!

★土足で入り込んだらダメ!

★人間と地域と暮らしが一体化する中で、どうやっていけばいいのか、前向きに考える

★暮らしの中から相手のニーズを先取りしないと。

★被災者は周りに迷惑をかけまいと、我慢しがち。声の調子や目の動きから状態を感じ取ることが大切。

見えないものを見る力が大切。(見る、観る、視る、看る、診るということでしょうか?)

★靴を履いて帰る時に、靴の履き方などをよく見なさい。靴の履き方や足の動きや背中から体調や心の状態が判るから

物を言うだけが言葉ではない。表情を見て何を言いたいのかキャッチしないと。

相手の気持ちの中に自分の気持ちを寄り添う

最後の一人まで見捨てないでほしい。人間だから

平凡な日常がどれだけ大切か。仕事や生きがいを失った人達にとって当たり前のことを当たり前に過ごすことがどれだけ大切か。

その人の苦しみはその人にしか解からない。ただ、解かろうとする私があなたの傍にいますよ、と伝えることが一番大切。

★せっかく生き残った命なんだから、その人がその人らしく生きることができるように見守りたい。

★人生の旅の荷物は夢一つ



どの言葉にも重みを感じます。言うは易く、これらを実行することは相当の努力を要する内容ばかりだと思います。これらのことをすべて実行しようと努力されてきたのですから、まさしく「仙人」かもしれません。

(どの言葉も重く素晴らしい言葉だと思いましたが、その中でも私が特に心に残った言葉を太字や大文字にさせて頂きました。)

さいごに・・・

ICUで人工呼吸器の呼吸と私自身の呼吸がうまく合わずにあえいでいるときに、傍で看護してくださったナース、黒田さんがこんなに偉大な人だとは・・・・

これから医療従事者を目指す方や、医療従事者として働いておられる方には、遺言の部分だけでもぜひとも読んで頂けたら・・・という思いで綴りました。

黒田さんの想いをうまく代弁できるだろうか?上手くまとめられるだろうか?と不安でしたが、手が勝手に動いたといった感じで書けました。もしかしたら、黒田さんが書かせてくださったのかもしれません。
ただ書いている時、涙が何本も頬に流れましたが・・・

黒田さんが残した言葉は、子育てでも大切な言葉だし、人が生きていくうえでも大切な言葉だと思います。

明日、1月17日は黒田さんの運命を変えた日です。

改めまして、阪神淡路大震災で尊い命を失われた方々のご冥福を、黒田裕子さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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4度の手術に膠原病でバツイチで・・・と波乱万丈の人生ですが、”人生に喜びや笑いを添付したら結果は出るはず!”という「喜笑添結」で毎日を過ごしています。

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