当時、男性同士の同性愛を男色といいました。

男色は中世、武士の間で盛んになり・・・。

足利義満と世阿弥。織田信長と森蘭丸。

徳川家光は女性に興味が無く、お世継ぎ問題で困り果てた春日の局が、伊勢慶光院の院主だった…剃髪姿(普通の女性には、興味は無いけど、髪の毛が無い尼僧姿が徳川家光の心をとらえてのでしょうか)の…後の お万の方(顔立ちが美少年であったともいわれています。)を引き合わせて、還俗(げんぞく=一度出家した僧や尼が、俗人にかえること)させたなどが有名です

江戸時代に全盛期を(町人たちの間でも大流行)迎えたそうです。

当時、仏教の教えから女性は汚れたもの・・とされ(失礼なことですが・・)寺院で僧侶が稚児と関係を持つことが盛んになり。

※稚児にも階級があり、「上稚児」は皇族や上流階級の公家の子弟が行儀見習いで預けられ。「中稚児」は頭の良さを見込まれて僧侶の世話係として、「下稚児」は芸の才能などを見込まれて売られてきたそうです。

女人禁制の寺という男性社会において、稚児は女性的な存在としてしばしば男色の対象とされたそうですが・・、但し、上稚児は対象外だったそうです。

(男色の対象となった稚児も、相手の僧に気にいられるために必死で・・捨てられないように・・昆布を食べて美しい黒髪を維持したという話しもあります。)


そこから、貴族や武士の間に広がっていったようです。

戦国武将の間では「女人を犯さず」男色一筋の方が武士として偉いとまで言われていたようです。

江戸時代には、プロ(職業として)の男娼も登場します

この、プロ(=仕事)として働いていた彼らを陰間(かげま)と呼んだそうです。

※陰間は、本来、まだ舞台に出ない少年の歌舞伎俳優のことをいう言葉でしたが、いつのまにやら・・、男色を売る少年を意味しました。


江戸には各所(芳町、湯島天神前、麹町天神前、堺町、木挽町などにあり、特に芳町は有名で…。明和元年(1764)当時、芳町には五十五名の陰間がいて、陰間を抱えている店が十二軒、陰間茶屋が二十四軒あって、芳町は男色、あるいは男娼の代名詞になっていたそうです。)に男色専用の茶屋がありました。

この、男色専用の茶屋を「陰間茶屋(かまげちゃや)」・・といったのです。

じゃぁ、陰間茶屋の少年とは、いったい…、幾つくらいのことをいうのでしょうか

年齢は、十二、十三歳から・・、十七、十八歳くらいまでの少年で、お客は…僧侶を主として(・・って、これって煩悩ではないのですかねぇ?と、剃髪姿のお坊さんを思い浮かべながら、私、ちょっと不思議に思ってしまいましたが・・・)、武士や一般人も利用したそうです。

が、
料金は高額で・・。
今のお金に換算すると(江戸中期頃の一両を約8万円と考えると・・)
2時間で一分(一分は一両の4分の1ですから・・、約2万円)。
一日買い切りで、3両(8×3=約24万円)。
外に連れ出すときは・・、一両3分~2両(14万~16万円)かかったそうですから、この一般人というのは、多分金銭に余裕のある裕福な商人のことなのでしょうね。


で、です・・。
陰間も二十歳を超えると、骨太になり(って、ごっくなり…てことでしょうね)お客から敬遠されてしまい。・・て?・・でも、仕事ですから、これからこの人たちは、どうしてしまうのでしょうか・・と思いましたら。

「大釜は後ろの家によく売れる」・・という川柳で詠われているように(大釜=歳をとった陰間。後ろの家=未亡人のこと。)

二十歳を過ぎた陰間は、今度は女性専用の男娼となって、未亡人や御殿女中などの相手をしたそうです。


今とは違い、江戸時代には堂々と男娼という職業があって、相手が男性で無ければいけない・・というわけでは無い男色があったんですね。


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知らないことが知りたくて、メンタル、カルマ、礼法に漢方スクール…etc.とお勉強。で、ですね、人を動かしているのは無意識、でも、この無意識を味方につけるとスゴいんだ~と気づいたら…、なぜか、「えっ?!そうくるかぁ~」と、色んな場面に遭遇しれしまう…という面白いことが起こりだすのでした。

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