記事提供:ミラクリ

スポーツを通じて高校生たちと触れ合う機会がある。一緒にプレーをして、一緒に飯を食って、叱って、ときには年齢が半分の子供たちからイジられる。

そんな時間は細胞を若返らせてくれるような感覚があって、気分がリフレッシュされて、年長者が「若い子のエキスを吸って…」と冗談ぽくいう気持ちが少しだけ理解できるようになってしまった。

どこか冷めた学生だったぼくは、今の彼らがそうしているように学生生活を無邪気に楽しむことができなかった。

バスケットボールというチームスポーツをやっているクセに、副キャプテンだったクセに、目標に対して団結して汗をかくチームメイトたちを横目に、淡々とトレーニングをしていた。

格好良くいえばイチローのような、かっこ悪くいえば単なるハグレモノのような存在で、リーダーではなかった。

みんなと一緒にいればいるほど孤独を感じて、上手に笑うこともできなかった。どうやらそれが表情にでていたらしく、ヤンキーグループによくケンカを売られ、

しかも争いごとを好まない性格に起因する「黙して語らず」が、余計に彼らの逆鱗に触れて大事になったことは一度や二度ではない。

「今の高校生たちの生き方は、自分たちの世代とどう違うのか?」には全然興味がない。「何をしても勝つんだ!」という“結果”よりも、「美しく納得のいくプレーをしたい」という”プロセス”にこだわる傾向はたしかに存在するが、そんなことはどうでもいい。

彼らがいま何を感じて、どんなことを考えているのか?どんなスマホアプリを使っているのか?の話を聞きたい。だって30代半ばにもなると、そんな機会はないから。

ちょっと話が逸れた。

高校生たちと飯を食うと、話題になるのは決まって「将来のこと」だ。

どんな仕事をしたいのか?どんな生活をしたいのか?を嬉々として語る彼らの姿は頼もしく、しかも一ヶ月後には焼き肉を食べながら語っていたこととはまるで正反対のことを言っていたりする、その無邪気さと軽やかさが眩しい。

「たくさんお金を稼ぎたい!」みたいな話が出てこない部分に、プロセスにこだわる“現代っ子”の特徴が象徴されているのかもしれない。

若さではまだまだ負けていないつもりだけど、あれだけ無邪気な朝令暮改をくり返す姿には刺激をもらう。

大人になると本当は誰からも制限されていないのに、一般常識や失敗体験が膨大なデータベースとなって手足の筋肉を硬直させる。

いや、そもそもの思考も硬直しはじめて「誰かよりも一歩前に出てはいけない」「幸せのあとには不幸が来る」「苦労はしんどいものだ」というセリフが脳裏をよぎって余計にこわばる。本当はもっと軽やかでも良いはずだ。

ぼくは「憧れ」と「決意」の違いに興味を持ってきた。有名人や仕事がデキる先輩に対して抱く「憧れ」は、自己をイキイキさせて、気分をウキウキさせてくれる。

人生にハリがでることは間違いないのだが、その一方で「憧れ」が現実になったという話はあまり聞かない。

小さい頃に憧れていたヒーロー戦隊にはなれなかったし、出演もできていない。仕事がデキる先輩に憧れることでスキルアップした経験もなく、著名人に憧れた人が同じフィールドまで駆け上がったケースも聞いたことがない。

「憧れ」は、人生に一時的なハリをもたらす劇薬のようなものらしい。

一方で「決意」をした人が未来を切り開いていくケースは多い。先日もダイエットを「決意」した人が、半年間かけて10kgも痩せた姿を見せてくれた。

聞くところによると、ふっくらした腰のぜい肉を彼氏にからかわれることに失望して、引き締まった体になることを決意したそうだ。以前とは見違える体は、計画的に引き締められたことが一目瞭然で、肌ツヤが増して、美しさも増していた。

「憧れ」は「夢」に近いものらしい。

夢の意味を調べてみると、どうやら日本では「叶わないもの」というニュアンスが含まれているそうだ。

“アメリカンドリーム”という言葉に代表されるように、人生をより良いものにするためのビジョンとして使われる諸外国とは大きく違い、憧れた時点で「超えられないものであること」を自覚して、最初から負けを認めるようなものなんじゃないか。

ホリエモンこと「堀江貴文」さんが「堀江さん写真撮って下さい!と言ってきた人の中に一流になった人なんて1人もいないよ。」という発言をされたらしいが、なんとなくうなずける。

でも「決意」とは「目標」に近いもので、自分が向うべき未来に対して覚悟を持って突き進んでいくことだ。

目標までの道のりがハッキリと見えているからこそ、あのとき口にした言葉を実現していけるんじゃないか。

「ダイエットは明日から…」という言葉に代表されるように、決意しているようでできない人は、目標までの道のりと達成手段が見えていないということだと思う。

つい先日、バスケットボールを通して関わった人物が挨拶に来てくれた。その男性は5年前に卒業してそれっきり。

事前のLINEではアポイントだけをとり付けて、詳しいことは会ってから聞こうと思っていたのだが、転職の相談?彼女を妊娠させた?いろんなイメージが脳内で膨らんでいた。しかし、予期せぬことを話してくれた。

「おかげさまでデザイナーとして独立して、来月に個展をやります」

“おかげさまで”も何も、この5年間で彼には一度も会っていない。たまにLINEするぐらいのことはあったが、日常会話程度のことで相談にのるようなことはなかった。

力を貸したことは何もなかったのだが、どうやら「高校時代に仕事の話を聞けたことで、将来を明確にイメージができました。」というお礼だったらしい。ぼくのような人間であっても、誰かのキャリアの役に立つことがあるのかと逆に驚かされた。

もっと驚いたのは、彼が5年前に語っていたことを現実にしたことだ。

あのときのメンバーたちも順調に就職して元気にやっているが、記憶するかぎり当時語っていた進路とは違い、もしかすると本人たちですら、どの道を目指していたのかを忘れていると思う。

でも彼はしっかりと両足で立ち、地道に、そして着実にここまで進んできたのだ。

今から5年前、焼き肉を食いながら高校生たちと話していた。多くが「大手の商社で働きたい!」「ダンサーになりたい!」「いつか独立したい!」と鼻息荒く語り、高校生らしく若さと勢いがあっていいなぁと思ったことを覚えている。

そんな状況のなかで「デザイナーになります」と静かに語った人物が彼だった。どことなく大人びていた彼は、18歳にして現実を見据えているようで不気味な存在だったことを覚えている。

そのときのぼくはいわゆる“意識高い系”で、自己啓発書に脳内を侵されていろんなビジネス理論を知ってはいるものの、現実の行動が伴わない人間だった。

意識高い系から見れば、自信なさげに目標を語ることはモチベーションが低い人間がすることで、彼には「もっと結果にコミットしないと!」と思っていたことだろう。

ぼくたちは声のデカイ人に注目してしまい、その後の経過には興味を失ってしまう。大胆な目標を語る経営者が注目されたとしても、倒産するまでのエピソードが伝えられることはなく、また次の声がデカイ人が現れて祭りあげる、この繰り返しだ。

目標を力強く語るなんて表面的なことではなく、何をやろうとして、何を成し遂げたのかがよっぽど大切だ。

デザイナーの彼が5年前に語った言葉は、他の人が「〜になりたい」というなかで、一人だけ「〜になります」だった。その意味は多くの人が「憧れ」を語るなかで、一人だけが「決意」を語っていたということだろう。

生きる希望を与えてくれる憧れを持つことは悪いことじゃない。

ただ「手が届かないことを認めた対象」には、人は無責任になってしまいやすいことだけが引っかかる。

自分の会社について真剣に議論するよりも、仕事の効率化を熱心に考えるよりも、芸能界のスキャンダルやインターネットの炎上騒ぎを追いかけることに精を出すことも同じで、自分には関係ない問題の方が人間は熱くなりやすい。

なまじっかの生きている実感と充足感も手に入るから、またタチが悪い。

でも決意を持って、目の前の現実を動かしていくことは大変だ。明日からの自分は汗臭くなることが目に見えているし、ときには誰かの誘いを断り、常連だった飲み会にも参加できなくなるかもしれない。

そんなことをしているうちにみんながどんどん離れていき、楽しそうにしているコミュニティを眺めながら、「こんなことをして意味はあるのか?」と自問自答することになるだろう。

でも、決意があれば自分を信じられて、孤独だって平気だし、汗臭いと言われることにも慣れてくる。

何か具体的に人生をより良いものにするには、憧れよりも決意が必要だ。23歳になった男は、ぼくよりもずっと大人だった。

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