パラリンピックのエンブレム問題でも話題の「日の丸」。
今回は、その歴史について紹介してみたいと思います。

日の丸の原型

太陽を表すとされる日の丸は、太陽信仰から生まれたものと一般的に解釈されておりますが、古事記などに見られる日本神話、その中心的存在である天照大神のイメージとともに語られてきました。
やがて「日出づる処」、つまり「日ノ本」の国という概念が出来上がっていったと思われます。
この太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献を探すと、「続日本紀」(797年)の中にある文武天皇の大宝元年(701年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあります。
これが日の丸の原型で最も古いものといわれています。

出典 http://www.rekishinosato.com

ただし、「国旗」と位置づけられるのは、もっと後のこと。

日本の旗印としての日の丸

現在の日の丸の旗が正式に採用されたものとしては、鹿児島の愛好家によるHPによると、「薩摩藩主島津斉彬(しまずなりあきら)が1853年(嘉永6)11月に幕府に大型船・蒸気船建造申請を行ったときに、日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した、白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言しました。
これにより幕府もその必要を認めて、1854年(安政2)に日の丸を日本全体の総印とする旨を、全国に布達した」と表現されています。
1854年(安政2)、薩摩藩が建造した昇平丸が江戸の品川に入港したとき、日の丸が揚げられ、これが、わが国の船印として揚げられた最初のできごとだったのでした。
それから日の丸は貿易の際、外国に対して日本の標識として必要不可決なものとなっていったと記載があります。これは史実では正しいでしょうが薩摩からみた日の丸の歴史と考えるべきでしょう。

出典 http://www.rekishinosato.com

船に掲げる印として幕府に認められたことが、日の丸の「国旗」としての始まりのようです。
しかしここで、あえて「薩摩からみた日の丸の歴史と考えるべき」との記述があるのが気になりますね。別の説も見てみましょう。

1854年(嘉永7年、安政元年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(「日本惣船印」)を制定する必要が生じ、日の丸を当てることが同7月9日、老中阿部正弘により布告された。
この布告に至る経緯として、前年の1853年9月(嘉永6年8月)初旬より協議が行われ、浦賀奉行が惣船印に日の丸を推す一方で、評定所一座等は「白地中黒」(白地に黒の横一文字)を惣船印に、日の丸は幕府船の船印にすることを提案している。
彼らが日の丸を惣船印から外したのは、御城米船や銀・銅を運搬する幕府御用船に日の丸が200年近く伝統的に用いられたからである。その後、中断を挟みつつ翌年6月に正弘が幕府海防参与徳川斉昭へ白地中黒を惣船印にすることを諮問したところ、斉昭は白地中黒は徳川氏の先祖である新田氏の印だが日の丸は歴史的に日本が使用してきた印であり、逆にするべきと提言した。そのため、日の丸が惣船印に選ばれた。

出典 https://ja.m.wikipedia.org

因みに、日の丸の提唱者に薩摩藩主島津斉彬を挙げる説があり、この説によると鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。
また1855年(安政2年)、斉彬は洋式軍艦「昇平丸」を幕府(幕府海軍)に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚したのが、日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号とされる。
しかし上述のようにこれは俗説に過ぎず、一時は賊軍の旗になった日の丸をそのまま明治政府が国旗として使用し続けたために、案出されたと考えられる。

出典 https://ja.m.wikipedia.org

薩摩藩の島津斉彬公を日の丸の提唱者とすることについては異論もあるようですが、船に日の丸を掲げた第一号であることは間違いないようです。

ここで!

出典 http://ot7.jp

科学的な染料などもないこの時代、どうやって日の丸の鮮やかな赤い色を染めたのでしょうか?

当時の薩摩の染色技術では斉彬が望むような色が出せなかった。そこで、鮮やかな赤の染料と染色技術を求めて、縁戚関係にある福岡藩主・黒田長溥を頼ったといわれる。長溥所領の山口地区(当時の山口村)には赤色の染料となる茜草が産出し、「茜屋」という地名が残るほど茜染が盛んに行われていたからだ。

出典 http://www.pref.fukuoka.lg.jp

茜染は野や山に自生する草木染の一つです。その歴史は古く紀元前2600年頃から栄えたインダス文明の遺跡で木綿の糸を染めたものが発見されています。
しかし、鮮やかな色をだすのが大変難しく貴重な染物でした。その技法を江戸時代のはじめ、筑穂町茜屋地区の染物師が偶然発見し、黒田藩の秘伝であったといわれています。鮮やかな赤を出し、さらに変色を防ぐために様々な工夫がこらされました。古い記録には、椿の焼き灰やお粥をもちいたことが記されています。
さらに鮮明な色を出すために、染めた布を川の清流にさらした当時の「布さらし石」という石が今でもあります。こうして染められた筑前茜染は、「歳月とともに赤みを増す」と世間に高く評価されました。

出典 http://www.geocities.jp

「茜染め」…こんなに歴史があるにも関わらず、初めて知ったという方も多かったのではないでしょうか。
実は、今でも当時の染色方法を用いたネクタイやスカーフを、目にし、手にすることができるそうですよ。

継承される技術

日本最初の日の丸の旗を染めた「筑前茜染」の発祥地とされる飯塚市筑穂地区(旧筑穂町)。地元の50~70歳代の男女14人が伝統技法の継承に取り組む。
幕末に薩摩藩主・島津斉彬が日の丸を日本の印にするよう幕府に進言し、筑前茜染の鮮やかな色が評判になった。化学染料の普及で一時は途絶えたが、昭和50年代に地元で復活に向けて動き出す。県工業技術センターで染色技術を学ぶなどして有志が復活させた。  
会は約3年前、世代交代。日の丸以外にもネクタイやスカーフなども染め、再び活動を活発化させている。染色技術の習得に加え、原料のアカネ草の確保も重要な仕事だ。会員は3年の歳月をかけて栽培する。

出典 http://chikuhou30.net

いかがでしたでしょうか。
数年後に開催されるオリンピックやパラリンピックで日の丸が掲げられたとき…今日ご紹介した日の丸の歴史に思いを馳せていただけると幸いです。

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