お笑い芸人・博多大吉は大のプロレスファン

博多 大吉(はかた だいきち、1971年3月10日 - ) は、日本のお笑い芸人であり、お笑いコンビ博多華丸・大吉のツッコミ担当、相方は博多華丸。本名、吉岡 廣憲(よしおか ひろのり)。
兵庫県神戸市生まれ、福岡県古賀市出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。芸人仲間から大吉先生と呼ばれている。2012年5月より古賀市のふるさと大使。

出典 https://ja.wikipedia.org

お笑い芸人・博多大吉さんといえば、芸能界きってのプロレスファンです。かつて高校卒業のときに社員としてサポートしようと新日本プロレスに履歴書を送ったほどのプロレス愛が彼にはあります。

以前、テレビ番組でハイレベルのクイズ番組で「新日本プロレス賢者」認定されるほどです。


今やテレビで見ない日はないほどの大吉さんの活躍を陰で支えたプロレスラーがいました。
そのプロレスラーの名は三沢光晴選手です。

伝説のプロレスラー・三沢光晴

三沢 光晴(みさわ みつはる、本名は三澤 光晴、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本のプロレスラー。1981年に全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引した。2009年6月13日、試合中リング禍により死去した。46歳没。

出典 https://ja.wikipedia.org

三沢光晴選手は平成のプロレス界を代表とする選手です。そのファイトと人格と男気で数多くのファンを熱狂させたカリスマプロレスラーです。

2009年に試合中の事故のために急死しましたが、その人気は衰えることはなく、未だに伝説として語り継がれる「平成のプロレス王」です。

中学一年生の大吉は若き日の三沢に出会った…

当時、中学校一年生の大吉さんが三沢選手と初めて出会ったのはプロレスの試合会場でした。

今から24年前、プロレスに夢中だった。
中学1年の大吉さんは、プロレス観戦に訪れた会場で、
興行前にキャッチボールをしている三沢さんと出会った。

その時、転がってきたボールを投げ返した時に
「ありがとう」とみせてくれた三沢さんの
あの笑顔を忘れられないというのです

出典 http://plaza.rakuten.co.jp

鳩山首相誕生NEWSの裏で・・・リスペクトォ

親友・ハヤブサの紹介で知り合った二人

大学を中退し、お笑い芸人となり、落語研究会で意気投合した博多華丸さんとコンビを結成した大吉さんは地元・福岡で人気を獲得します。

九州出身のプロレスラー・ハヤブサ選手と大の仲良しとなった大吉さん。
1997年にハヤブサ選手は三沢選手がエースを務める全日本プロレスに参戦しました。

そこで大吉さんはハヤブサ選手に紹介され、三沢選手と知り合いました。

大学の落語研究会で出会った華丸とコンビを組み、福岡で大ブレイク。そんな時、知り合いのプロレスラーから三沢を紹介される。それ以来、福岡を訪れるたび、三沢は大吉を飲みに誘ってくれたという。

出典 http://www.tbs.co.jp

博多大吉、芸能活動休止

しかし、大吉さんはとある事情で芸能活動を休止していました。

華大は1990年にデビュー。福岡吉本の発足とともに“1期生”として、翌年には地元のテレビ局でMC番組を持つなど、福岡では当時貴重だったお笑いの需要は大きく、あっという間に地元の人気者となった。 しかし94年、漫才、お笑いに熱心だった初代福岡吉本の所長から、2代目所長に時代が変わると、華大の処遇は下降線。2代目所長は、「漫才はやめろ」と初代所長から方針転換。若手を集めて「華丸・大吉と遊ぶな。兄さんと呼ぶな」と号令を出し、若手タレントをかわいがるようになったという。

そして1997年。大吉が事務所に連絡せず、当時レギュラーを務めていた福岡の番組の生放送中に「アメリカに留学します」と電撃発表。何も聞かされていなかった所長が「聞いてないぞ」と激怒する展開となり、「1年間音信不通(休業)です…」と真相を明かした。 大吉によると、当時は「(休業が)1年間になると思わなかった。復帰はどんどん伸びて…」。休業中は、妻の稼ぎでなんとか食べていたという。
 「アメリカに留学」とテレビで宣言した以上、世間が留学と思っている休業中、人目についてはいけない、と「ワンルームの部屋に隠れるように暮らしていた」という大吉。それでも次第に我慢できなくなり、「最後の方は『見つかってもいいや』と深夜のレンタルビデオ店でバイトしていました」と打ち明けた。

 最終的にはテレビ局と吉本側が和解。新番組を作ることになり、人数合わせのため、大吉もテレビに復帰することとなった。番組開始まで2カ月。世間にウソをつくことになるから、とどこか海外に留学させることになり、“少ない予算で2カ月間行ける海外”を探したところ、インドに決定したのだという。 テレビの企画でも何でもなく、インドに渡った大吉。「(インド留学の証拠?)日焼けした肌とか」と笑いながら明かしていた。
 大吉が休業中、華丸はピンで仕事をこなしていた。

出典 http://www.daily.co.jp

大吉、17年前の突然の休業の真相語る デイリースポーツ

大吉さんは芸能活動休止中は家に引きこもり、もし自分が引退したとしても、相方の華丸さんが芸能界で生き残れるように多くのネタを書き上げていました。

そんなある日に三沢選手から電話がかかってきました。
実は大吉さんは三沢選手からの飲みの誘いを断っていました。

自分は引退するかもしれないローカル三流芸人。
三沢さんは超一流のプロレスラー。
自分みたいな人間が三沢さんと一緒に飲んでいるほどの立場なのか?

そんな大吉さんに三沢選手はこう言いました。

「友達だから誘っているのに来ないのか」

実は三沢選手にとって大吉さんはかけがえのない友達だったのです。
彼にとっては相手のステータスなど関係なかったのです。

大吉さんは三沢選手のこの言葉に大いに励まされたのです。

三沢光晴の何気ない優しさ

こうして友達同士となった二人は、三沢選手が九州遠征時にはよく食事にいくようになりました。

大吉さんは三沢選手の何気ない優しさに心惹かれるようになります。

 (大吉さんは)出会ったばかりの時期に、ひょんなことから「三沢光晴&小川良成」のチャンピオンタッグと焼肉を食べに行く機会があったそうだ。世界タッグ王座とアジアタッグ王座を同時に戴冠した最強の二人である。当然のようにガチガチに緊張していたところ、二人がかりで肉を焼かれたという。
 大吉さんは「三沢さんが肉を焼く、小川さんがひっくり返す。まさか40cm四方の網の上で、黄金タッグの連携を目撃することになろうとは…」と、当時を振り返る。当人たちは笑わせようとか、まして無理に食べさせようという気は全くない。大吉さんが緊張していることを察知して、自然とリラックスして食事ができるムードを作ろうとしていたのだと思う。

出典伝説になった男―三沢光晴という人 徳光正之 著 (幻冬舎)

三沢光晴を守った博多大吉

 博多駅近くの繁盛店に、三沢さん、大吉さんを含む四人で入った。客はみんな三沢さんに気付いていたが、あのとおりのコワモテなので、誰も声をかけてくることもなく、変な緊張感の中でラーメンをすすっていたそうだ(笑)。この店は食券制で、そうこうしているとホームレス風の男が、券売機の横で騒ぎ出した。

「おい、1000円入れたのに反応しねぇぞ!金を返せ!」
(中略)
大吉さん一行は、彼が入店し、券売機にお金など入れず、すぐに騒ぎ始めたことを知っていた。まるで戦前の詐欺である。
(中略)
三沢さんは、大声を上げ続ける男に向かっていってしまった。
(中略)
危機を察した大吉さんが間に入り、怒鳴りつけて男を追い返したそうだ。

もっとも、大吉さんいわく、「”三沢さんがもめちゃマズイ”という思いと、"あいつなら勝てそうだ"という打算的な考えが結びついた、瞬間的な判断だった」
(中略)
三沢さんはこの時の大吉さんの行動をそうとう粋に感じていたようで、博多から帰ってくるや、「大吉くんはなかなかの男だ!普段はナヨナヨしてるのに、やる時はやるんだな」と嬉しそうに語っていた。

出典伝説になった男―三沢光晴という人 徳光正之 著 (幻冬舎)

東京進出するもなかなかブレイクしない大吉に三沢は…

その後、東京進出を果たした大吉さんでしたが、なかなか仕事が巡ってくることはありませんでした。

2002年頃から東京進出が噂になり始め、当時吉本興業社長だった林裕章から直々に「ぼちぼち福岡からも目玉を出さなあかんな。もちろん君らからや」と言葉を投げかけられるものの、直後に林社長が病に倒れ会長職に退いたことや、福岡吉本も一枚看板「華大」がいなければ巡業などの仕事も減る為、この話は一度立ち消えとなった(テレビ西日本「ふとっぱら」より)。
2004年4月、「名前を変えればM-1に出られる」という単純な理由(実際は改名後1回もM-1グランプリに出場していない。)と、元祖爆笑王に「福岡吉本らしい屋号にしたら?」と勧められ屋号を博多に変更した現在の芸名となり、2005年4月に3年越しの念願であった東京本社へ移籍。移籍後はルミネtheよしもとでの舞台などが主な活動の場となっている。また、月に数回は福岡での仕事も出張として行っている。しかし、テレビ局や制作会社には新人とみなされたため、東京進出直後はテレビ出演一本あたりのギャランティは福岡時代より断然減っていて、出演数をこなしているのでそれなりの生活が出来ている状態であった。また、上京直後に初めて笑いの金メダルのオーディションを受験した際、担当ディレクターが福岡出身で尚且つ学生時代から華丸・大吉のファンであったことから「お願いですから(たった1分の出演のために)こんなオーディション受けないで下さい」と言われたことがあり、エンタの神様のオーディションにも落選している。芸歴が長く場慣れしているため、この手のお笑い番組が求める新鮮さとは合わず、当時はなかなか仕事がもらえなかった

出典 http://www.ammanu.edu.jo

そんな大吉さんを三沢選手は飲みに誘いました。

自ら率いるプロレスリング・ノアが東京ドーム大会を成功させたその日の夜、三沢選手はとあるバーで大吉さんと二人きりで飲むことにしました。

派手な打ち上げをしないで、気心が知れた友達を静かに過ごす。

それが三沢選手の生き方でした。

大吉さんは東京で売れるのか悩んでいました。

友達の悩みを聞いた三沢選手は大吉さんをこう励ましました。

「お前なら東京でも売れる」

大吉さんはこの日も三沢選手に励まされたのです。

また、三沢選手からはこんな言葉もかけられました。

「もしダメだったら、うち(ノア)でバイトすればいい」


悩む大吉さんにとって、三沢選手は心の支えでした。

相方・華丸R-1優勝を喜んだ三沢光晴

2006年、大吉さんの相方の博多華丸さんが児玉清さんのモノマネのネタで『R-1ぐらんぷり』優勝を果たしました。実はこの大会で披露したネタを作ったのは大吉さんでした。
大吉さんは裏方に回り、華丸さんの優勝をサポートしたのです。

相方の華丸さんの優勝を大吉さんは友達の三沢選手に直接、報告しに行きました。

「三沢さん、相方の華丸がR-1優勝しましたよ!」

三沢選手はこう答えたといいます。

「俺は取れると思っていたよ(笑)」

三沢選手は華丸さんの優勝と大吉さんが喜ぶ姿がとても嬉しかったのです。

恩人・三沢光晴の力になれれば…博多大吉の想い

2008年に人気番組の「アメトーーク」のアメトーーク大賞で、「焼却炉の魔術師」でアメトーーク流行語大賞を獲得し、全国区の人気を得た大吉さん。

そんな大吉さんの姿を嬉しく思いながらも三沢選手率いるプロレス団体・ノアは経営不振に陥っていました。2009年3月には地上波中継も打ち切りになりました。

大吉さんはそんな三沢さんの力になろうと考えたのです。

自分は三沢さんに支えられた。
今度は少しでもいいから三沢さんの力になりたい。

 最後に会ったのが、三沢さんが亡くなる一か月前、2009年5月だったという大吉さんが、その時の様子をこう振り返りました。

「本人には最後まで言えんかったけど、やっぱり会うたびに老けていっとったね。本人は"俺はハゲん"と言っとんたけど、額もだいぶ後退しとって。それで元気づけにゃいかんと思って、藤井隆くんと椿鬼奴と三人で飲みよる時に電話して、新宿のスナックに会いに行ったんよ」

とくに、人脈の広い藤井隆さんを紹介することで、興業の助けになるような、新たなビジネスにつながればという思いもあったそうだ。

「でも、この日は結局、あまり噛み合わんで終わってしまった。それが最後やったのが、本当に残念で仕方がないよ」

出典伝説になった男―三沢光晴という人 徳光正之 著 (幻冬舎)

あの腹にはチケットが詰まっているんだ!!

晩年の三沢選手はコンディションがよくなく、元々も逆三角形だった体型は変わり、お腹が出てしまうようになりました。

その姿を嘲笑したする者も多くなっていました。
大吉さんは怒っていました。

事情を知らない芸人仲間は、"あの腹はなんだよ。三沢も変わったな"なんて言うんやけど、俺からすれば、ふざけるなって話。"あの腹には、チケットが詰まってるんだ!"って。必死で営業をして、ノアを、プロレスを盛り上げようとしている三沢さんに、その言葉はないやろと

出典伝説になった男―三沢光晴という人 徳光正之 著 (幻冬舎)

三沢光晴、急死…

そして、2009年6月13日、三沢選手はリング上の事故に巻き込まれ、帰らぬ人となりました。

享年46歳。
余りにも早い死でした。

 2009年6月13日午後8時半すぎ、広島市中区の広島県立総合体育館で、プロレスラー三沢光晴選手(46)が試合中に相手の技をかけられて頭を強打。病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。
 広島県警は試合関係者らから事情を聴き、当時の状況を調べている。
 県警や主催したプロレス団体「ノア」によると、三沢選手は同8時10分ごろ、メーンイベントのタッグマッチに出場。約25分後、背後から抱え上げ、後ろに倒れ込むバックドロップをかけられ、リングに倒れた。
 試合はレフェリーストップで相手方が勝った。
 目の前で観戦していた市内の会社員の男性(32)によると、倒れてから救急車で運ばれるまで10分以上、仲間のレスラーや救急隊員が心臓マッサージや自動体外式除細動器(AED)を使い蘇生(そせい)措置を施したが、三沢選手は全く動かなかった。
 この間、リングサイドのファンから「ミサワ、ミサワ」とコールが上がり、搬送後も約2300人の観客で埋まった会場は騒然とした状態が続いたという。
 男性は「僕らにとって中学時代からの永遠のスター。間違いなく日本ナンバーワンレスラーで、超ショックです」とうなだれた。
 三沢選手は埼玉県越谷市出身。1981年にデビューし、2代目タイガーマスクとして活躍。90年代に全日本プロレスの中心選手となり、その後、ノアを立ち上げた。

出典 http://www.nikkansports.com

ノア三沢光晴さん急死、試合中に頭を強打 日刊スポーツ

三沢選手の訃報に大吉さんはこのようなコメントを出しました。


「突然過ぎて言葉が出ない」

お世話になった恩人の訃報に、大吉さんは心の整理をすぐにはできませんでした。

リスペクト~あの笑顔を忘れない~

三沢さんの急死から三か月後の2009年9月。

TBSの特別番組で「リスペクト~あなたがいたから私がいる~」が放映され、三沢選手と大吉さんのエピソードが全国に知れ渡るようになりました。

博多大吉さんは三沢さんがなくなっても、プロレス大好き芸人として、プロレスを応援しています。

「初めて会った時の三沢さんのあの笑顔を忘れない」

三沢さんがいなかったら、絶対ここにいない

三沢光晴選手への恩を忘れずに、博多大吉さんは芸能界という四角いジャングルを生き抜いています。

この記事を書いたユーザー

ジャスト日本 このユーザーの他の記事を見る

ジャスト日本です。
ブログでプロレスをメインに取り上げてます。

プロレスをもっとメジャーにしたい。
プロレスをもっと世の中に広めたい。

そんな思いでブログ運営しています。

spotlightでもプロレス記事を中心に更新させていただき、一人でも多くの方にプロレスに興味を持ってもらえるように尽力します。

よろしくお願いいたします!

【ジャスト日本のプロレス考察日誌】
http://ameblo.jp/jumpwith44/

【俺達のプロレスラーDX】
2016年更新分 http://ameblo.jp/jumpwith44/theme-10094543345.html
2015年更新分 http://ameblo.jp/jumpwith44/theme-10094543338.html
2014年更新分 http://ameblo.jp/jumpwith44/theme-10081788013.html

【ぼくらのプロレス執筆記事】
https://bokupuro-ad.gsj.mobi/users/prof/401725

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス