良く、「子どもは親を選べない」もしくは「子どもは親を選んで生まれてくる」と言われる。
果たしてどちらが正しいのだろうか。

我が家には3人の男の子がいる。
3人とも妊娠中から産後、そして現在に至るまで、食べ物の好みや性格はバラバラだ。
毎日接していると、色々な「母としての顔」に気づかせてくれる。

3兄弟それぞれの妊娠から出産

7年前、妊娠に気づき、婦人科へ行った時には「切迫流産」と診断がついた。
わずかながら出血しており、漢方薬を処方され自宅安静となった。

ドラマや映画では「おめでとうございます!今2ヶ月ですよ!」とか言われ、すぐに母子手帳も貰えるのかと思いきや、「おめでとう」の一言もなく、ただただ不安な毎日を過ごした。

安定期に入り、ようやくマタニティーライフを楽しめる、と思ったのも束の間、次は体重管理で苦しんだ。
通っていた病院が個人病院で、リスクを避けたかったのだろう、とにかく体重管理に厳しかった。
しかし、マックのポテトが食べたくて仕方がなく、週末の度に炭酸飲料と共に食べていた。ある時、1ヶ月に3㎏増えてしまい(これはさすがに増えすぎだが)、担当医に夫婦揃って叱られた。
その日から夫にも協力してもらい、油を一切使わず、茹でるか蒸すかの鶏胸肉料理ばかりとなった。
おやつも煮干しを食べ、なんとか空腹をしのいだ。
努力の甲斐もあり、妊娠中ながらマイナス2㎏のダイエットに成功し、最終的には妊娠前からプラス6㎏で出産する事が出来た。
長男は逆子で、さらに骨盤に足が引っかかっており、しかも切迫早産気味であったため、予定日より3週間も早く帝王切開での出産となった。

現在3歳の次男は、長男と2歳11ヶ月差で授かった。
妊娠経過は順調だったが、当時2歳だった長男にイライラが募った。
そんな中、妊娠8ヶ月頃、産婦人科の担当医から「赤ちゃんの心臓の血管に違和感があるので、紹介状書きますから専門医に診てもらって下さい」と言われ、後日、県立の小児専門病院で診てもらう事になった。

小児循環器科と産婦人科、2人の医師が約1時間ほどかけて、エコーでお腹の赤ちゃんを診察した。
結果、詳しい診断名は控えさせていただくが、先天性心疾患の診断がついた。
病院から自宅までは車で片道1時間強、帰りの車内で私は、全く予想もしていなかった出来事に頭が真っ白になった。
妊娠経過は本当に順調で、それ故に「出産して、この世に生まれたら、この子はずっと苦しまなければならないのか」と胸が締め付けられる思いだった。
長男が帝王切開だったため、必然的に次男の出産も予定帝王切開となった。
手術予定日まで何事もなく、無事に出産する事ができ、直後からたくさんの医師や看護チームの元、治療が開始された。

三男を授かったと分かったのは次男がまだ生後6ヶ月、治療もまだまだこれから、という時だった。
正直「なぜ今⁈」と、自分たち夫婦の計画の無さに情けなくなった。
授かった以上は産むという選択肢しか私たち夫婦には無い。

三人目を妊娠した、と親族や周りの知人に報告すると、かなり驚かれた。
心臓手術(生後数日から2歳までの間に4度受けている)の影響で発達に遅れがあり、リハビリに通っていた次男を抱っこしながらの、家事育児は本当に辛かった。
近くに頼れる親族も居ないので、夫が残業の時などはファミリーサポートを利用し、長男の迎えや夕飯、お風呂までお願いし、自宅まで送り届けてもらう、という事を数回やって、なんとか出産まで漕ぎ着ける事が出来た。

三男妊娠中は、本当に無理をしていたと思う。
日中は次男と過ごしながら、家事や夕飯の下ごしらえ、次男の離乳食作り。
長男が幼稚園から帰って来てそのまま外遊びに付き合い、次男を大きなお腹の上に乗せて抱っこ紐で抱っこしたまま、ほとんど立ちっぱなし。
そのまま夕飯の準備、夫が帰ってきてお風呂や寝かしつけを手伝ってもらう。
次男が夜中に起き、ミルクを作って飲ませる。
本当に気が狂いそうなほど体にムチ打って過ごしていたにも関わらず、お腹の中の三男には何の心配事もなく、帝王切開手術予定日に元気に産まれて来てくれた。
現在2歳になるが、強く逞しく元気に育っている。

初めての育児を助け合える仲間

現在6歳になる長男。
前述の通り、初めての妊娠、出産、育児で不安だらけだった。
産後は、退院してすぐに自宅へ戻り、いわゆる「里帰り」というものはしなかった。
帝王切開だったが、体調は20代半ばという事もあったのか、割とすぐに動く事ができた。
問題は育児である。
母乳は割と出ている方だったが、産院でミルクと混合だったからか、哺乳瓶の方が楽に飲めるので、授乳の度に直母を嫌がり大泣きした。
今思い返すと、もう少し粘り強く欲しがるだけ母乳をあげれば良かったのだろうが、当時は授乳の時間が苦痛で仕方なかった。
完全母乳育児に憧れていたが、仕方なく完全ミルクへとシフトする事にした。


赤ちゃんは良く寝る、というが、長男の場合はあまりまとまって寝てくれなかった。
新生児の頃は1〜2時間おきに授乳する、という事も珍しくないが、3ヶ月、4ヶ月、5ヶ月と経っても昼も夜もあまり寝てくれず、抱っこしていないと、一日中グズグズしているような状態だった。
周りに親も兄弟も友達も知り合いも居ないところに住んでいたので、誰に相談していいかわからず、図書館へ出かけて、公園で絵本を読んだり、なるべく日中に日光浴させようとベビーカーに乗せても、眩しくて大泣きしたり、寝たかと思い自宅へ帰るとその途端に目を覚ましたり。
もう、どうしたらいいか分からず、頭がおかしくなりそうだった。

長男が生後5ヶ月のある休日に、夫も仕事に関する勉強がしたいからと、読み聞かせをしている図書館へ出かけた。
絵本は好きなのか、大人しく聞いていてくれる。
読み聞かせが終わり、夫の元へ行くと、「もう少しで終わるから近くの公園で待ってて」と言われたので長男を抱っこしてボーッとしていたら、「あのー」と声をかけられ、振り向くと同じくらいの赤ちゃんを抱っこしたママさんだった。
「さっきの読み聞かせに来てましたよね」と、私たち親子を覚えていてくれ、話をしているとママさんの赤ちゃん(男の子)が、長男より1ヶ月ほど早いお誕生日で、1人目のお子さんだという事を知った。
さらに話していると、「子育て支援センター」という所があると教えてくれた。

後日、息子と2人で、公園で出会ったママさんに教えてもらった子育て支援センターへ行く事にした。
どんな所かもあまり分からずドキドキしながら行くと、息子と同じくらいの月齢の赤ちゃんが何人か居て、勇気を出して「今何ヶ月ですか?」などと話しかけたりした。
初対面でも、やはり「子供」という共通点があるからか、お互い親近感が湧いた。
しばらく、センターのおもちゃで遊んだり絵本を見ていると、公園で出会ったママさん親子がやって来た。
初めて会った時、帰宅してから連絡先を交換していなかった事を後悔していたので、偶然の再会に嬉しくなった。
お互い、赤ちゃんは5ヶ月から6ヶ月ほど。
あまり活発に動く時期ではなかったので、絨毯の敷いてある床に座って、母乳やミルク、夜泣きや離乳食の事、悩み事や分からない事などゆっくり話をする事ができた。
それまで、私の話し相手は夫だけだったので、同じ母親という目線で話が出来るのがとても新鮮だったし、リフレッシュになった。
もちろん、その日のうちに、そのママさん含め、何人かと連絡先を交換し、いわゆる「ママ友」ができた。

「ママ友」と言えば、最近では何かとネガティブなイメージが強いが、私にとってはまさに「戦友」だった。
何人かのママ友と付き合っているうちに、自分と価値観の合う人に絞られていく。
それは、子育ての方針であったり、金銭感覚や、連絡する頻度など、気がつけば自然と心地の良い友達と一緒にいる事が多くなった。

出会って6年に経った今では、転勤や引越しなどでバラバラの地域に住んでいるが、数ヶ月に一度、家族ぐるみでの付き合いが続いている。
きっと数年後、子供たちから少し手が離れたら、ママ達だけで遠出をしたり旅行に行きたいね、と密かに計画している。
ここまでくると、「ママ友」ではなく「お互いに子供がいる友達」といったところだろうか。

病気や障害は不自由だけれど決して不幸ではない

次男は生まれつき心臓や心臓血管に奇形がある、先天性心疾患だ。
生後数日に初めての手術をし、2歳までの間に4度手術をし、4度目で根治術を完了している。
次男のように、お腹にいる時に疾患が分かり、生後すぐに治療を受けられる事は珍しい事ではないが、生まれてから救急搬送される赤ちゃんに比べると、はるかに恵まれている。
それは、治療が1秒でも早く受けられる事はもちろん、親として心の準備が出来るからだ。
疾患が分かってから、お腹の中で元気に動き回る赤ちゃんが、生まれてから苦しい思いをしなければならない現実に打ちひしがれていた。
その一方で夫は、主治医から告げられた病名をインターネットで検索し、その治療方法や手術方法、また根治してからどのくらい生きられるのか、一人黙々と調べていた。

当時の私は、なぜそんなに冷静で居られるのか、夫が理解できなかった。
その時はただ、一緒に悲しみを共有したかったのだ。
しかし、今思うと、夫のして来た事は正解だった。
実際、次の検診では、主治医と夫は専門的な用語で会話できるようになっていた。
隣にいる私はチンプンカンプンで、さすがに夫を見習い、心臓の構造から少しずつ勉強を始めた。
最後の手術から1年以上経った今でも実は理解できていない事は多いが、少なくとも客観的に次男の疾患を見つめる事が出来るようになった。

次男の病気を通して、今までの人生観がガラリと変わったと言っても過言ではない。
術後は「集中治療部(PICU)」という所で、心拍や血液に含まれる酸素の濃度(spO2)、血圧や体温などを細かに記録する。
次男の場合、術後は輸血を含む十数本の点滴が体内に入り
人工呼吸器を使い、次第に鎮静剤を減らしていき、自発呼吸になったら人工呼吸器を外し目を覚ましていく。
意識が戻るまでに1週間ほどかかる場合もあり、ただ目を覚ますのをじっと待つのは不安で仕方なかった。
さらに、人工呼吸器が外れるよりも先に目を覚ます事が多く、私の姿を見つけると声にならない声で、大粒の涙を流し、頭と両手足をベッドに抑制され泣いている姿を見て、思わず看護師さんの前で泣いた。今思い出しても泣けてくる。

次男がPICUにいる間は、病院に併設されている宿泊棟を利用する。
宿泊棟は、病院が運営しているのではなく、ボランティアによって運営されており、善意のバトンで繋がっている。
そこには「つぶやきノート」というものがあり、病状もその重症度も様々だが、顔も知らない「声」にとても励まされた。

宿泊棟「つぶやきノート」より

出典筆者撮影

最後の手術を終え、宿泊棟を出る時に書いたもの

地域の皆さんに支えられた我が家

我が家はいわゆる核家族である。
夫は会社員で、会社が命じた場所に転勤する。
夫婦共に、両親は遠方へ住んでおり、近くに頼れる親族もいない。
そんな土地で3人の小さな子供達を抱え、なんとかやって来られたのは、周りの方々の支えがあったからだ。

恥ずかしながら、私は2人目を妊娠中「児童相談所」、3人目を妊娠中は警察に通報されている。
私自身、幸いな事に悪阻はほとんどなかったが、精神的なイライラ、長男が生理的に受け付けなくなってしまった。
長男には本当に申し訳なかったが、この気持ちはどうしても拭えなく、時に感情的に叱ったり、行き過ぎる「躾」があった。
警察へ通報された時は、次男の寝かしつけを邪魔され、長男を突き飛ばした。立派な虐待だ。
「お母さんの怒鳴り声とお子さんの泣き声が聞こえて、心配したご近所の方から通報がありました」と。
警察に通報された時は、子供がこのまま連れて行かれるのかも知れないと、本当に怖かった。さすがにもう駄目だ、と思った。
それでも、妊娠中で周りに頼れる人がいない事、次男が酸素を付けて在宅療養しているという事情を汲んで下さり、念のため長男の体にアザなどがないか確認して帰って行った。
翌日、地域の保健センターの職員から、面談をしたいと連絡があった。
担当の職員の方は親身に話を聞いてくれ、ファミリーサポートを紹介してくれた。
「登録だけでもしておけば、必要な時に利用できるから」と、また後日ファミリーサポートの方と面談をし、無事登録した。
長男の幼稚園へのお迎え、ファミリーサポートさんのお宅で預かっていただいて、夕飯やお風呂を済ませて自宅に送り届けてもらう、という事を何度かお願いした。
それだけで気持ちに余裕ができ、子供に優しく接する事ができた。

三男を、三回目の帝王切開で出産し、幸いな事に母子共に健康で、無事1週間ほどで退院する事が出来た。
しかし、退院と同時に三人育児がスタート。当時、私はまだギリギリ20代だったが、産後の肥立ちが悪く、なかなか体力が回復しなかった。
義理の母に手伝いに来てもらっていたが、事情があり産後2週間ほどで帰宅してしまった。
三男が三ヶ月になり、次男の自宅療養の為に保育園へ預ける事にした。
当時住んでいた地域は、有難い事に待機児童はほとんどなかった。
正直、その間の三ヶ月間の事は記憶がない。
ただ、がむしゃらに一日一日を過ごしていたのだろう。

生後間もない三男を保育園へ預けることに罪悪感もあったが、そうでもしないと本当にやっていけなかった。

次男が体調を崩すと、普通の子では大した事はなくても、念のため入院という事が何度もあり、入退院を繰り返した。
そんな時に、三男を日中保育園へ預けていると、本当に有難いのだ。
長男の幼稚園、三男の保育園、どちらの先生方も我が家の事情を汲んで下さり、時には励ましの言葉もいただきながら、本当に苦しい時期を乗り越えてきた。

子供たちがくれた出逢い

「育児が楽しい!」と思う方も、もちろんいると思う。
大げさに聞こえるかも知れないが、私は育児が楽しいと思ったのは、今まであっただろうか…というくらい少ない。
はっきり言って無いかも知れない。

でも、そんな中でも、子供を通した出逢いは、本当にかけがえの無いものだと確信している。
育児が辛くて苦しくて、いっそ子供たちと一緒に消えてしまおうか…そんな後ろ向きな気持ちになる時もある。
でも、今まで出逢った人たちの顔が一人一人浮かんでくるのだ。

義父とは度々、近況報告も兼ねてメールのやり取りをする。
その中でいつも「頑張らないでね」と言ってくれる。
その言葉は、「いつも良く頑張ってるね」と言ってくれているようで、本当に心の底から救われる。
私にとっての最大の出逢いは、主人の両親だ。
義理の両親を悲しませる事は絶対にしない。
次会う時に笑って「ただいま」と言えるように、ご飯が手抜きでも、家の中がぐちゃぐちゃでも、「明日もこの子たちと生きよう」、そう思えるように、私はこれからも「頑張らない」。

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東京都出身。
高校、大学で美術(工芸)を専攻。
現在6歳、3歳、2歳の三兄弟の母。
30代前半の専業主婦。

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