ついに手に入れた自分の城。念願の一戸建て。
しかし、その喜びに浸るのも束の間、「お父さん、うちでも犬を飼おうよ」という娘さんの声が聞こえてきます。
実はお父さんはずっと前から、娘さんと約束をしていたのです。「いつか家が大きくなったら犬を飼おうな」と。
今日は、そんなお父さんのお話です。

そもそもの始まりは、愛犬の病気

出典筆者撮影

筆者は犬を飼っています。ミニチュアブルテリアで14歳。ピーチーという名の、それはそれは可愛い女の子。先日、大切なその子が病気になりました。
高度医療を推進する『DVMs どうぶつ医療センター横浜』の、救急診療センターに駆け込んだのは、まだ夜が明けたばかりの頃。
愛犬に降りかかった災難は劇症肝炎。もう明日をも知れぬ命でした。

ピーチーはお風呂が嫌いよ

数日前からの愛犬の体調不良。かかりつけの主治医では、血液検査に異常なし。
しかしそれからわずか2日後未明、突如の発熱。
救命救急に駆けつけたときには、既に劇症肝炎が始まっていました……

出典 http://ameblo.jp

それは偶然の出会い

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辛くも難を免れた筆者の愛犬は、小康状態を得て退院の日が来ます。
病院で呼んでいただいたタクシーに、愛犬を抱いて乗り込む筆者。
まだ完全に回復しておらず、グッタリとしていた愛犬に、そのタクシーの運転手さんは、本当に親身になり、優しく接してくれました。

訊けばご自分も、犬を飼っていらっしゃるとの事。
娘さんのご希望だったそうです。
「今じゃ娘は犬を放ったらかし。僕が全部面倒を見ているんです。でも可愛いんだよな、犬って」

ルームミラーに映る運転手さんの顔は強面。街ですれ違ったら、うっかり肩が触れないように用心するだろうその顔が、犬の話になると、別人のようにほころびます。
そして自宅に着くまでの15分ほどの間、ずっとその運転手さんの饒舌は続きました。
それは、とても印象的な出来事でした。

それから数日後。

その運転手さんとは、ぜひもう一度お話をしてみたいなと思っていたところに、ちょうど愛犬の薬を取りに病院に行かなければならない用事ができました。
そこで、うろ覚えだった運転手さんの名前を頼りに、タクシー会社に電話を掛けて、指名をお願いしてみたのです。

その運転手さんの名は、山田重樹さん

出典筆者撮影

電話で判明した運転手さんは、三和交通神奈川株式会社に所属されている山田重樹さん。三和交通さんは横浜市港北区で、ペット可のタクシー会社としても知られています。

「あれっ、今日はワンちゃんは?」
「いませんよ。実は今日は犬を運ぶんじゃなくて、山田さんとまたお話がしたくて、指名をさせていただいたんです」
 怪訝な顔の山田さんに、あの日の感謝を伝えるとともに、お話をもう一度お聞きして、出来れば記事にしたいとお願いをすると、「そんな事だったら」と山田さんは快諾。写真を掲載することまで、了解をいただきました。
「山田さん、今日は主治医のところに薬を取りに行くだけなんです。近くてすぐに着いてしまうので、適当に周辺をトロトロと走りながら、目的の場所に向かってください」
「じゃあ、コースは僕へのお任せで良いですね?」

 こうして、山田さんへのインタビューが始まりました。

初めは飼うつもりなんかなかった

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「確か、山田さんは犬を飼うのには反対だったのですよね?」
「反対と言えば反対になるのかな。でも、犬は嫌いじゃなくて、むしろ好きなんですよ。うちのカミさんなんかも、小さい頃から動物に囲まれて育ったんで、いつか犬を飼いたいって言ったいましたしね」
「それならどうして、ずっと犬を飼わなかったのですか?」
 山田さんは何かを考えているようでしたが、やや間をおいて話し始めました。
「”まずは”当時はうちは、マンション住まいでしたからね」
「ペットが飼えないマンションだったのですか?」
「そうでもないんですけど、管理組合への手続きが色々必要だし、部屋も狭くてね……。そんなところで犬なんて飼えないと思ったんですよ」

「先ほど、”まずは”と前置きされましたね。他にも理由があったのですか?」
「ええそうです。犬ってね、いつか死んじゃうじゃないですか。そうなったら娘が余計に可哀そうだし、僕だってさびしくなっちゃうだろうし、そんな事を考えたらね、飼いたいって気がしなくなっちゃってね……。そっちの方が本当の理由かな」
「娘さんにはそのお話も?」
「いえいえ、していません。娘には今は部屋が狭くて世話ができないから、もっと大きな家に引っ越したら飼おうと言ったんですよ」
「娘さんは諦めたのですか?」
「それからも何度かせがまれましたけどね、そのうち言わなくなりましたよ」

 山田さんの口調は、どこか申し訳なさそうに聞こえました。

犬を飼わない理由のランキングは

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山田さんが犬を飼わなかった本当の理由、つまり犬との別れがつらいからという話は、犬を飼っていない方からよく聞くものです。かなりの数の方々が、同じ理由で犬を飼っていないものと思われます。
その事を伺わせる資料がありました。『動物愛護に関する世論調査』(平成15年7月調査)がそれです。

動物愛護に関する世論調査(平成15年7月調査) 
内閣府大臣官房政府広報室

[ペットを飼わない理由]
ペットを「飼っていない」と答えた者(1,396人)に,ペットを飼わない理由を聞いたところ,「十分に世話ができないから」を挙げた者の割合が46.5%と最も高く,以下,「死ぬとかわいそうだから」(35.0%),「集合住宅(アパート・マンションなど一戸建てでないもの)であり,禁止されているから」(24.6%),「家や庭が汚れるから」(16.9%),「動物が嫌いだから」(16.8%)などの順となっている。(複数回答,上位5項目)

出典 http://survey.gov-online.go.jp

この資料によると、複数回答可能とはいえ実に三分の一以上の方が『死ぬとかわいそうだから』を、ペットを飼わない理由として挙げています。

それでは、犬を飼いたいと思っているにも関わらず、今は飼っていない方は、一体どのような理由で飼うことができないでいるのでしょうか?
それを示す資料もありました。

いささか古い資料ではありますが、平成7年に東京ガスの都市生活研究所が発行したレポート『ペットと暮らす社会を考える』がそれです。

ペットを飼いたい人に対し、どうして飼わないかを質問

規則で禁止されているから  47.7%
留守が多いから       40.5%
別れがつらいから      35.1%
集合住宅に住んでいるので  34.1%
住まいが狭いので      26.0%
飼育に手間がかかるので   19.8%

調査対象:1100件(但し、若年単身者、高齢単身者の比率が高くなるように抽出)
回収状況:有効回答数は767件(回収率 69.7%)
条件が許せば飼いたい人の割合は 63.9%  (N=352)

出典東京ガス都市生活研究所, 1995.11 都市生活レポート ; No.33

この回答からは、犬(およびペット)を飼いたいが飼わないでいる人の三分の一以上が、最期の別れを恐れている様が見て取れます。
調査から約20年。住宅事情に変動はあるでしょうが、心情的な要因にはそれほど大きな変動があるようにも思えません。

恐らくは今も変わらず、犬を飼いたい人たちの三分の一は、タクシー運転手、山田さんのかつての姿と同じように、愛犬との別れに恐れを抱いているのでしょう。

念願の一戸建て、そして娘との約束

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さて、それでは山田さんは、なぜ犬を飼うことになったのでしょうか?
いよいよインタビューは佳境です。

「しかし、犬との別けれを怖がっていらっしゃったのに、良く犬を飼うという決断をなさいましたね」
「色々とありましてね」
 山田さんは、しみじみと当時を振り返るような表情。

「色々って何ですか?」
「それがね、もう随分と前ですが家を買ったんですよ。一戸建てをね」
「それじゃ、娘さんとの約束を守ってあげたんですね。素晴らしいな」
「いやいや、そうじゃないんですよ。家を買ってからまた娘は、『犬を飼おうよ』と言い始めたんですがね、僕は曖昧に返事をしていたんです。きっと前みたいにそのうち諦めるだろうと思ってね」
「じゃあ何故、犬を?」
「それがね……、ある日、いつもみたいにタクシーの勤務を終えて家に帰ったら、そこに犬がいたんです。可愛いマルチーズがね」
「どういう事ですか?」
「うちの娘とカミさんが、ホームセンターで買ってきちゃったんですよ。僕に相談せずに」
「ええっ、それで山田さん、どうなさったんですか?」
「どうするもこうするも、もう仕方ないじゃないですか。そこにいるんだからね」
「で、結局、山田家の家族が増えたと?」
「まあ、そういう事。でも、あれはあれで良かったかな。踏ん切りがついて。僕も元々は嫌いじゃないしね、犬」

 山田さんの顔は、まんざらではないという笑顔に変わりました。

『頭で考えると、犬を飼う事に二の足を踏むにも関わらず、自分の意に反して犬が家に来てしまったら、それはそれで嬉しい』

山田さんと同じような考え方の人たちは、実は結構多いのではないでしょうか。

人は悲しみが多いほど……

出典 http://www.gettyimages.co.jp

ところで、犬を飼い始める山田さんの心に、ずっとブレーキを掛けていた事。
『愛犬との死別が、子供を悲しませる』という心配事は、今も多くの”潜在的愛犬家”の心を縛っていると思われます。

しかしそれは、それはそんなに忌むべきことなのでしょうか?

経験的に私たちは、悲しみが人の懐を深くし、その人をより愛情豊かな人物に育てることを知っています。世相を映す鏡とも言える、ヒット曲の歌詞からもそれは明らか。

悲しみが人生の糧となることについて、実は多くの人たちが、共感を覚えているのです。

”人は悲しみを知り 心からの愛を知る”

LUNA SEA  "END OF SORROW" より
ノンタイアップシングルでありながら、オリコン週間シングルチャートでは3作目となる首位獲得、40万枚以上のセールスを記録

出典 https://ja.wikipedia.org

”人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから” 

海援隊  "贈る言葉" より
レコード売上が100万枚を超えるヒット。
1980年の第22回日本手レコード大賞で、作詞賞を受賞。

出典 https://ja.wikipedia.org

”涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く花のように”

岡本真夜 "TOMORROW" より
オリコン集計の累計売上は、177.3万枚。
出荷枚数は200万枚を突破する売上を記録。

出典 https://ja.wikipedia.org

犬を飼おうよ お父さん

出典 http://www.gettyimages.co.jp

もしも娘さん(あるいは息子さん)から、「犬を飼おうよ お父さん」と言われた時、お父さん、ぜひ真剣に考えあげてください。
『愛犬との悲しい別れ』にだけ心を奪われるのではなく、『愛犬との悲しい別れの後に訪れる、我が子の豊かな人間形成』を想像しながら。

そして忘れないでください。
『愛犬との悲しい別れ』の前には、必ず『愛犬との素晴らしい生活』が、家族の景色を、瑞々しく一変させてくれることを。

今や山田さんは、

出典 http://www.gettyimages.co.jp

山田さんのタクシーは、遠回りをしながらも、段々と目的の動物病院に近づいていきました。筆者は山田さんに、最後の質問を投げかけてみました。

「山田さん、犬を飼って良かったですか?」
「当たり前ですよ。犬のいない生活なんて、もう考えられません」
「お嬢さんも喜んでいらっしゃいますか?」
「うーん、どうかな?」
「どうかなさったんですか?」
「いやー、前にも言っことだけれど、娘もカミさんも犬を可愛がったのは最初だけ。その後の面倒は全部僕が見ているんですから全く、嫌んなっちゃう」
「そうなんですか。でも、それでも良かったって思っていらっしゃるんですよね」
「そりゃ、良かったですよ。今では娘よりも可愛いかもしれない」
 山田さんは満面の笑顔です。

「お嬢さんは今、何歳ですか」
「もう18歳です。うちの犬がうちに来てもう5年。娘ももう大人です」
「お嬢さんは、学生さんですか?」
「そう。あいつ、動物の医療関係の学校に進んだんですよ」

 山田さんは、先ほどよりも一回り大きな笑顔で答えてくれました。

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某大学工学部を卒業後、当時黎明期だったビデオゲーム業界に。エンジニアを希望するが、配属先は企画。結局在籍中はデザイナーとして過ごす。退職後はデザインツールの開発、CGの技術開発、TVアニメの企画など。目下の興味の中心は”犬との生活”。14歳のミニチュア・ブルテリア、ピーチーが相棒。

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