錦織選手は今や世界トップクラス!

出典 http://www.inoueyuuki.com

2015年8月17日現在、錦織選手は世界4位となっている。
その他の日本人選手は、伊藤 竜馬選手94位/添田 豪選手107位/ダニエル 太郎選手108位/西岡 良仁選手127位/杉田 祐一選手157位

小学6年生の時から実力はあった!

小学6年生ですでに全国小学生大会をはじめ、その年代のタイトルをすべて獲得していた。

「修造チャレンジ・トップジュニアキャンプ」に抜擢。

松岡氏によると、最年少クラスの錦織は小柄で目立たない少年だったが、「コートでは大きく見え、とくに試合形式の練習になると中学生や高校生までも倒した」とのこと。さらに、「ボールさばきやインパクト時の勢い、体の使い方などテニスの才能は抜きん出ていた」とふりかえる。だから、技術的な指導はほとんどしなかったという。錦織にとって幸いだったことは、こうして、のちに13歳でアメリカに渡るまで日本的な指導のわくにはめられなかったことだろう。
修造キャンプには当時のデビスカップ代表選手も参加することがあり、プロたちは皆錦織と打ちたがったというから、そのテニスの(おもしろさ)は当時から抜きん出ていたと思われる。錦織にとっても、幼い頃から自分よりはるかに体も大きい先輩や、ましてやプロと打ち合った経験は貴重だった。のちに世界の強豪を相手にしても堂々と戦える素地が備わったことだろう。

出典 YouTube

13歳で単身渡米を決意

日本テニス協会の会長を2000年から務めた盛田正明氏が、ジュニア育成のために私財を投じて設立した「盛田ファンド」の名は、後の錦織の活躍ですっかり一般的にも知られるものとなった。日本の才能あるジュニアを米国フロリダ州ブラデントンにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーに派遣するシステムが生まれたのだ。アンドレ・アガシ(アメリカ)やマリア・シャラポワ(ロシア)など数々のトッププロを輩出し、「スター製造工場」と呼ばれたアカデミーである。錦織は13歳のときにこの派遣メンバーに選出された。両親の進んだ考え方が後押ししたことは確かだが、最終的に決断したのは錦織自身だったという。

アメリカで物を隠されていた!?

アメリカに渡った錦織は最初、物を買ってに使われたり盗まれたりしていたという嫌な経験をして、日本に帰りたい日々が続いたとのこと。
しかし、錦織は負けなかった!

留学は基本的に2年間。しかし、2年もたたずに帰って来る子もいるなかで、錦織は音をあげなかった。留学期間は延長され、そこが錦織の拠点となった。盛田前会長は「圭君はシャイだから心配していたんですよ。でも意外にむこうのほうがあっているのかな」と目を細めていたことがある。錦織も渡米から4年後、全仏オープン・ジュニアのダブルスで優勝したときに「英語がわからなかったのは辛かったし、ホームシックにもなったけど、日本にいるみたいにプレッシャーを感じないのは良かった」と話していた。日本にいれば、どこに行っても天才少年などと騒がれただろうが、アメリカでは周囲の声に惑わされることはなかった。錦織の柔軟なテニスとメンタリティーはそういう環境だからこそ育ったのだろう。
生活費、遠征費、コーチ費など一切をファンドが負担してくれた恩人盛田氏と、世界への扉を開くきっかけを与えてくれた松岡氏の前でプレーするときが一番緊張するのだと、16歳の錦織ははにかんだ。そういえば、人前で話すのが苦手でモジモジしていた当時の印象は、いつの間にか消えている。

肘の故障を経て、トップ10への階段を駆け上る

全米オープンで当時世界5位のダビド・フェレールを破り、4回戦に進出。その後3月から右肘の故障で戦列を離れた。結局ほぼ1年もの期間を要して56位まであげていたランキングは完全に消失。「いつまたテニスができるのかもわからない」というどん底の日々だったというが、1年ぶりに復帰すると、ブランクを取り戻すような勢いで、2010年の終わりにはトップ100にカムバック。
2011年はさらにビッグイヤーとなった。とくにシーズン終盤、世界王者ノバク・ジョコビッチ(セルビア)や全豪オープン・ファイナリストのジョーウイルフライ・ツォンガ(フランス)らトップ10からの勝ち星を重ね、ずっと目標にしてきた松岡氏が持つ日本男子歴代最高位の46位を破るばかりか、シーズン末には世界ランクを日本男子史上最高の24位にあげた。
今年も快進撃は止まらない。

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