赤ちゃんの様子がおかしい?!産まれてから知った娘の病気。

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二人目の出産ともなると大仕事の出産とは言え、やや気持ちに落ち付きがあった。ホッとしてたのも束の間、分娩室からは赤ちゃんの泣き声が聞こえない。私産んだよね。医師が私に何度も聞いてくるのは仕事で立ち会いに間に合わなかった夫の所在ばかり。「夫は後からきます。」それを何度も答えなくてはいけなかった。様子がおかしい事に気づいたのは出産して10分ほどだったか。

産まれてすぐに救急搬送された娘

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産後私は動けないまま、衝撃な事を医師から告げられた。「赤ちゃんは頭皮が欠損した状態なので、頭に異常があるといけないので大きな病院に連れていきます。」産後にすぐ産院に到着した私の母と1歳8ヶ月の長女が付き添いで救急車に乗る事になり、隣の市にある病院へと行ってしまった。

広い病室に私だけ。

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二人目の出産はたくさんの知り合いが訪れる予定があり、病院で最も広い部屋を予約していた。もしかしら出産はこれが最後かもしれないし、なんとなく些細な贅沢を感じたかった。そんなワクワクしていた自分が用意した部屋には友達を呼ぶ事も無かった。赤ちゃんはいないし、友達と会う気持ちにはなれない。搬送された病院からくる赤ちゃんに関するお知らせは、どれも受け入れ難い内容ばかりだった。

バタバタする夫

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仕事場から急いで来た夫は毅然に振る舞った。私の顔を見にきてすぐ、1時間ほど離れた赤ちゃんの元へ車を飛ばす日々。NICU(新生児集中治療室)にいる娘の様子を見に行き、先生からのお話を聞く。その報告を私にするが。。。

次々に起こる受け入れ難い現実。

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NICUにいる娘は小さい体で検査の日々だった。脳、血液、レントゲン、難聴、まだまだあったのだと思われる。脳には特別な異常は見られなかったようだが、難聴は確実。排便を自分でてきるか分からないから、手術をするかもしれないといわれた。血液検査の判定にはもう少し時間がかかると言われたが、あまり耳に入って来なかった。

5日後に初めての対面

やっと退院した私は夫と共に娘のいる病院に向かった。不安で行く事に勇気がいるのだ。我が子に対面するのに勇気がいる自分が嫌になる。
NICUはきちんと管理されていて、まず入口前でインターホンで名前を名乗る。看護師が顔の確認をし、外扉を開けてくれた。入ると青いガウンに着替え、髪の毛が落ちないように帽子を被りマスクをした。
念入りに手を洗い、何も触らないように内扉を開けるには足でスイッチを押せるようになっていた。

我が子はどこだろう。恐る恐る歩く私に既に対面している夫が娘を紹介してくれた。頭にガーゼをつけた娘。小さくて青白く、か弱いと言う印象だった。私はしばらく黙って見つめただけだった。スヤスヤ寝てるのか、少しも動く様子はなかった。たくさん行った検査の1番大切な話を後日、夫と受けた。

最も残酷な検査結果。頭に岩が落ちてきたかの様だった。

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ただならぬ雰囲気の中で夫と医師の話を聞いた。優しく話を始めた先生。まだ内容を聞かされてない段階で胸が締め付けられていた。でも本当に苦しんだのはその後だった。産まれて間もない娘の病気は13番目の染色体異常で、一年間生きる事ができる確率は10パーセントと言われた。女の子だから産まれてくる事ができたとも聞いた。女の子は男の子よりも強いと言うことだ。その時の記憶はよく覚えていないが、話を聞いた後に娘の顔が見れなかったことを看護師に指摘されたのは覚えている。

励まされた言葉は、、、。赤ちゃんは不幸。

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落胆している私に看護長がかけた言葉は「赤ちゃんは不幸に産まれましたが、お母さん元気を出して下さい」だった。不幸と言われた言葉をそのまま受け入れた。今なら不幸と言う言葉を選んだ看護長に対して言いたい事があるが、その時は何も言う事ができなかった。そしてその不幸と言われた我が子を抱っこする事になった。やはり赤ちゃんは可愛いはずなのに、なるべくなら抱きたくなかった。いつ死んでしまうのかと思えて仕方なかった。

毎日20分の面会に。往復2時間かけて会いに行った。

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病気が確定してから私は1人で毎日娘に会いに行った。ある時私は看護師に伝えた。
「毎日来るのはやめます。明日は来ません」私は実家にいる長女の事もあるし、病院に行くことが精神的に苦痛だった。今にも死んでしまいそうな娘に母性を取り戻すのが怖かった。娘に愛情を感じてしまい、別れがくる事が怖かったのだ。母親なのに娘よりも自分の身勝手な考えを優先した。未熟すぎる母親だ。世の中自分を犠牲にしてまで子供を助ける母親の話を幾つか聞いた事がある。私はダメな母親だと思う。

娘は僅かな吸引力でミルクを10ccほど飲んでいた。

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病院に訪れた私は娘にミルクをあげたりオムツを替えたりした。ミルクが足りない分は経鼻栄養をして補っていた。20分の間にできる事を毎日する。しばらくそんな日々が続き、母子同室で私も入院し退院してからの娘のお世話を1人でする為の練習をすると言う事になった。それは残された時間を少しでも家族と過ごすようにと言う意味での退院準備だったのだ。

母子同室でトレーニング

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退院準備とは鼻から管を入れてミルクを少量ずつ入れていくという医療的行為の練習だった。赤ちゃんである娘の鼻に50センチ程ある管を胃に到達させてから聴診器で胃に入ったかどうか確認する。初めての経験と言う事と間違って肺に入れてしまわないようにと言う事でかなりの慎重さを必要としており、練習だけでも労力を使い疲れを感じた。全てやるだけで1時間。終わった頃にまた追加のミルクの時間。一日中それをひたすらやる。娘の体内に入ったミルクは、何故かほとんど吐き出してしまう。それでもミルクを入れなければ死んでしまうんだから!と看護師に叱られながら何度も経管栄養でミルクを飲ました。

残りの時間を家族で過ごそう。待ち焦がれてた長女がそこにいた。

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10日ほどの母子同室を終えて退院する事ができた。おめでたい話なのだが、娘の命を病院と自分で守ってきた状態が、その命の責任を私が全部背負う感覚になった。いつ終わるか分からない命を。夫が仕事から帰るのが遅い為実家にしばらく滞在する事になった私は長女の世話も全くできないくらい経管栄養と立て続けに起こる嘔吐で24時間過ごしていた。娘とずっと一緒にいる事でだんだん娘が可愛く思えてきたのは長女が妹を純粋に可愛がる姿を見るようになってきたからだった。

一歳の誕生日を迎えて

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長い長い一年。想像もできなかった一歳の誕生日を迎える事ができた。10パーセントの確率を達成した。それくらいからだったか、命が消える恐怖から解放されたような気がする。家族として普通の日常を取り戻した気がする。長女と次女の写真を撮る事が可愛いと思えた気がする。病院で夫と「私たちが笑って過ごせる日は来るんだろうか」と話し合った、あの時の返事に「きたよ」と言える。看護師に「不幸な赤ちゃん」と言われた事に対して「不幸なんて私たちは思ってない」と反論できる私がいる。

きれいごとではない。産まれて来てくれた事で私は特別な経験を持って幸せを感じる事ができた。

そんな次女は今はもう小学生。ここに来るまでに何度も入院し、命を終わりかけた。その度に驚異的な回復を見せ、また日常を取り戻している。優しくフンワリした娘の雰囲気を誰もが可愛いと言ってくれる。母の私も今では毎日ハグしないではいられないほど可愛がっている。たくさんの障がいを持っているが、私たち家族が楽しく過ごしていることには変わりない。あの時の私に「よかったね」と言ってあげたい。

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オカメインコmaa このユーザーの他の記事を見る

コストコを好きになり、お料理の世界が広がり三人の娘たちと実験のようにお菓子やパンを作ることが楽しい日々。
基本ズボラですが、ちょっとしたアレンジで楽しくお料理をしてます。

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