今年(2015年)11月15日、東京・両国国技館大会で39年に渡るレスラー人生を終えることとなった天龍源一郎選手。

近年では「滑舌が悪い」、「ハスキー」、「しわがれ声」でバラエティー番組にも出演している伝説のプロレスラーです。

そんな天龍選手のベストパートナーとして真っ先に上がるのが今年(2015年)4月に逝去された故・阿修羅・原選手です。


天龍選手と原選手のコンビは「龍原砲」(りゅうげんほう)と呼ばれ、日本プロレス史に燦然と輝くタッグチームとなりました。


そんな「龍原砲」が歩んだ歴史を追います。

「龍原砲」誕生のきっかけ

天龍選手と原選手がコンビを結成するきっかけとなったのは1987年3月のことです。長州力選手を筆頭としたジャパン・プロレスの主力選手が当時、参戦していた全日本プロレスを離脱し、古巣の新日本プロレスにUターンすることになりました。

長州選手離脱以後の全日本プロレスはかつてのぬるま湯状態となっていました。
エースのジャンボ鶴田選手、前年(1986年)11月にプロレス転向を果たした元横綱・輪島大士選手のファイトは緊張感がなくなりました。

そこで立ち上がったのが当時鶴田選手のパートナーだった天龍選手でした。

5月の小山大会の試合後、天龍選手は控室でこのようにぶちまけたのです。

「ウチの試合を見てて思うのは、前座からメインまで、ただズルズルと行っちゃう感じで、これじゃあお客さんに悪いなって。もうジャンボや輪島と戦ってもいいんじゃないかってことだよ。お客さんには常にフレッシュ感を与えなければいけないし、強いインパクトを与えていかなければ失礼だし、ウチにとってもよくない。だから俺は今、ジャンボ、輪島と戦いたい…ジャンボの背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れたよ!」

出典天龍同盟十五年闘争 NIPPON SPORTS MOOK65 小佐野景浩 著(日本スポーツ出版社発行)

それはフラストレーションが溜まりに溜まった天龍選手の心の叫びでした。しかし、当時の全日本プロレスは創設者・ジャイアント馬場社長(当時は代表取締役会長)・馬場元子夫人の体制統治下の元で形成された縦割り社会。体制への反逆ともいえる天龍選手の発言は異例中の異例でした。

天龍選手の動きに反応したのが阿修羅・原さんでした。
当時の原選手はラッシャー木村選手らと国際血盟軍と表向きは共闘していましたが、本人は一匹狼であると主張していたと言います。

「長州がいなくなってから、源ちゃんは元気ないよな。先日も道場でチラッと見たけど、悩んでいる様子だったよ。源ちゃんが燃えてくれなきゃ、俺も目標がなくなっちゃうから困るんだ。出来ることがあれば協力したいと思っているんだけど」

「お前が本気で何かをやるなら、俺を一緒にやるぞ!」

出典スポーツアルバムNO52 天龍源一郎 引退記念特別号 上巻(ベースボール・マガジン社発行)

元ラグビー世界選抜メンバーに選ばれたスポーツエリートである原選手にとって、天龍選手とはライバルを越えた存在でした。
天龍選手によって原選手はプロレスに目覚めたのです。

全身全霊、乾坤一擲、一生懸命…。

原選手にとって天龍選手は己の全てをぶつけられる唯一の対戦相手だったのです。

「14年間のラグビー生活の中で、無心でボールを追いかける"真っ白な感覚"を味わえたのはイングランドとの一回きりだけど、プロレスに入ってから大分の荷揚町(1984年4月11日)とその次の後楽園(1984年4月16日)の源ちゃんとの試合で同じような感覚を味わった。俺は源ちゃんを目標に頑張っているんだ」

出典スポーツアルバムNO52 天龍源一郎 引退記念特別号 上巻(ベースボール・マガジン社発行)

天龍選手は馬場社長からの了承を得て、6月4日に名古屋のシャンピアホテルで原選手との合体を表明したのです。

天龍選手は名古屋での原選手との会談後にこのように語りました。

「俺ひとりじゃ、マッチメーク上でシングルマッチに限られてどうしようもないから、阿修羅と2人で突っ走っていく。阿修羅のプロレスに対する情熱は、試合をしたり、見たりして分かっているからね。これはファンが望む1対1の布石…ジャンボ、輪島を本気にさせて、みんなに全日本は面白いって言わせてやるよ。そして最終目標は全日本で光る存在となって、阿修羅と2人で新日本、長州の自主興行に上がってみたいね。全日本代表として長州、藤波(辰爾)と戦うことが夢だよ」

出典天龍同盟十五年闘争 NIPPON SPORTS MOOK65 小佐野景浩 著(日本スポーツ出版社発行)

こうして天龍選手と原選手は「龍原砲」を結成します。
魂を分かち合った二人だけの革命が始まったのです。

意義ある革命

こうして始まった「龍原砲」の革命。
彼らの意義ある革命は多方向に及びました。

まず、数々のオリジナル連携を編み出したことです。
サンドイッチ・ラリアット、スローイング・ラリアット、サンドイッチ延髄斬り、延髄斬り(天龍)→バックドロップ(原)、ベアハッグ(天龍)→ヒットマン・ラリアット(原)…。
これらの連携を目いっぱい敢行し、我々を熱狂させました。

彼らはどんなに小さな会場でも手を抜かずに全力ファイトを続けました。
これは天龍選手が考えた「最近の全日本は会場で凄いプロレスをやっているよ」という口コミ効果を狙ったものでした。

天龍選手と原選手の「目いっぱい攻めて、目いっぱい受ける」という全力ファイトは対戦相手である鶴田選手と輪島選手を始め、全日本正規軍を突き動かし、試合は日を追うごとに過熱していきました。

またこの革命は天龍選手や原選手の立身出世を狙ったものではなく、団体の活性化を狙った反逆と呼ばれる行動としては珍しいもので、さすがの馬場社長もその意図を理解していたため、彼らの行動を黙認していました。

「あの当時、俺はいろいろなことを言ったと思うけど、要するに心の中にあったのは、"ジャンボ鶴田は凄いんだよ、輪島大士は捨てたもんじゃないんだよ"ってことだよ。ジャンボの強さ、凄さは身近にいて俺自身が一番知っていたんだけど、キャラクターの強い新日本ばかしが注目されてファンやマスコミには伝わっていないというのが癪(しゃく)だったんだよね。俺自身、そろそろジャンボが振り向いてくれるような立場になったかなという気持ちがあったから、だったらやってやろうと。それに輪島さんは…みんなが適当に合わせて試合をやってて、本人は分からないからそれでいいと思っている。それを全日本の奴らも本人の前では"横綱!"と呼んで立てているのに裏では笑って見てるわけでしょ。俺にしたら相撲の横綱を舐めんなよって気持ちがあったよね。それなら同じ相撲上がりの俺が輪島さんの凄さを引き出してやるよと。よく、天龍の輪島への攻めはイジメみたいだって言われたけどさ、きっと輪島さん自身は"まっ、同じ相撲上がりの天龍にやられるのは仕方ないか"ぐらいにしか思ってなかったんじゃないの(苦笑)。でも、ジャンボが真正面から向かい合ってくれて、輪島さんが容赦ない攻撃を必死に凌ごうと向かってきたからこそ、俺達も光れたと思ってるよ。その意味じゃ感謝してるよ」

出典天龍同盟十五年闘争 NIPPON SPORTS MOOK65 小佐野景浩 著(日本スポーツ出版社発行)

後に天龍選手はこのように振り返っています。


さらに彼らは緊張感を保つため正規軍との関わりを拒絶し、レンタカーや電車、リング屋のトラックで巡業中に移動していたそうです。後に天龍同盟ができると専用バスが用意されましたが、それまでは彼らは自力で移動して、プロ意識を保っていたといいます。

彼らの戦いは全日本内部でも支持を高めていきます。
当時、全日本のリングアナで後にプロレスリングノアGMとなる故・仲田龍氏はこのように語っています。

「天龍さん達の戦いは、見た者を納得させるだけのものがありましたよね。今までのプロレスを否定じゃないけど、セオリーを無視した部分がありましたけど、当時、天龍さんが全日本を引っ張ってたことは間違いないですよね」

「基本的には原さんがいつも時刻表を片手にJRで移動してたんですよ。でも中には電車で行きようがないところがあるんですよ。その時には天龍さんが『トラックに乗っけてくれよ』って言って、天龍さんと原さんがトラックに乗っかって行ってましたよね。口で言うよりも大変ですよ。毎日、JRに乗っていくのは。荷物もあるし。きついですよ。だから試合前には疲れますよね。でも、それは自分達を奮い立たせるためにやっているわけじゃないですか、二人で。それは素晴らしいですよね。僕のことを原さんがかわいがってくれたんですよね。だから、心情的には天龍派か鶴田派って言わらたら、天龍派ですね。でも当時の全日本のスタッフは、実際は自分が天龍派だと思っている人の方が多かったんじゃないですかね」

出典NOAHを創った男 -三沢光晴の参謀- 仲田龍・本多誠共著(ベースボール・マガジン社)

「龍原砲」はは試合後にはよくマスコミを誘って、飲みに行っていました。酒席でも彼らはプロレスについて熱く語っていたといいます。そのためか、マスコミにも彼らのシンパは多かったそうです。
天龍選手と原選手、二人だけの革命はいつしか「レボリューション」、「天龍革命」などと呼ばれて、プロレス界全体に波及していきます。選手達も二人についていく人間も現れます。当時の全日本で燻っていた川田利明選手、天龍選手の元・付き人であるサムソン冬木(冬木弘道)選手、天龍選手の付き人を務める小川良成選手が仲間となり、「天龍同盟」へと勢力拡大していきます。

彼らの革命に大きな影響を受けたのは当時UWF若大将の前田日明選手でした。
1987年11月の新日本・後楽園大会で前田選手が長州力選手の顔面を蹴り上げた「顔面蹴撃事件」が起きたきっかけは天龍革命による焦りだったといいます。
「天龍さんがあそこまで凄い試合をしている。ならばこっちは長州さんと天龍革命を越える試合をするしかない」
そんな想いが結果的に暴発してしまったのです。
新日本を離脱し、1988年5月に第二次UWFを旗揚げした前田選手は「龍原砲」についてこう語っています。

「天龍選手は昔、新日本でやっていた"輝きのプロレス"をやぅているんだよ。目いっぱい攻めて、目いっぱい受けて…。今、それをやるとどうなるのか。仲間内で嫌われるんだよね。きっと風当たりが強い中で、にっちもさっちも行かない時もあったと思うけど、賛同者も出て、大したものだと思うよ。俺も天龍革命とは違う革命をしたいね。プライドは同じだよ」

出典天龍同盟十五年闘争 NIPPON SPORTS MOOK65 小佐野景浩 著(日本スポーツ出版社発行)

「(前田と髙田延彦が全日本移籍するという話)そのとき考えたのが『天龍さんがいるんだ』と。ジャンボ鶴田さんには悪いですけど、あの人はそれほど怖くなかったけど、天龍源一郎と阿修羅・原はまずいなと(思っていた)」

「天龍さんには原さんっていうパートナーがいるのに比べると、俺には誰っていうようなパートナーがいない」

「阿修羅さんは凄かったですね。誰も(文句を)言わないじゃないですか。外国人とやっても全然よけないし…。たまにふっと思い出すんですよ。『阿修羅さんは今何をやっているんだろうって』」

出典Versus#40=天龍源一郎vs前田日明

1987年の天龍選手と原選手の活躍を象徴していたのが「プロレス大賞」の結果です。


何と、天龍選手はMVPとベストバウト(1987.8.31 VSジャンボ鶴田戦)と龍原砲で最優秀タッグチーム賞の三冠を達成したのです。


天龍選手は原選手との革命、天龍同盟結成によって、プロレス界の頂点に立ち、原選手はそんな天龍選手を補佐する番頭役として大暴れしたのです。

二人はプロレス界の名夫婦となったのです。

そして、やはり全日本プロレスのエースであるジャンボ鶴田との「鶴龍対決」でプロレスファンの魂を震わせました。

一部では名人戦と呼ばれたこの「鶴龍対決」は魂、肉体、パワー、テクニック、スピード、インサイドワーク、ジェラシー、人生観などあらゆる概念や引き出しをぶつあった名勝負でした。


馬場社長はこの「鶴龍対決」を最高峰のプロレスだと自負していました。
テクニックのあり、プロレスを知り尽くしている巨漢同士がぶつかるこの戦いこそ、馬場社長が考えた理想だったのです。

全日本で長年レフェリーを務める和田京平氏は天龍のプロレスについて次のように評している。

「レボリューションのプロレスは、言ってみれば全日本プロレス伝統のアメリカン・プロレスの時代を終わらせる役割を果たした気がします。長州力のハイスパートなプロレスに、相手の技を受けて相手を持ち上げる時間を兼ね備えたプロレスが天龍プロレスでした。それに呼応したのが、当時、二代目タイガーマスクとしてマスクマンをやっていた三沢光晴だと私は思います。タイガーマスクが繰り出す数々の四次元殺法の技を『子供の夢を叶えてあげる技があるなら何でも来いよ』と受けてあげたのが天龍さん。三沢もその域を感じ取っているので、受けも大切という鉄則を体で覚えていったのでしょう。1990年代の超世代軍~四天王時代のプロレスの基礎はここにあったのです。」

出典読む全日本プロレス 和田京平 著(メディアファクトリー)

もしかしたら、天龍選手と原選手の革命がなければ、あの伝説の四天王プロレスは誕生していなかったのかもしれません。

離れ離れになっても…

しかし、天龍選手にとって転機が訪れます。

パートナーの原選手が私生活の乱れという理由で解雇されたのです。

原因は飲食代や若手へのお小遣いを渡したりしていて重なっていった借金でした。

実は原選手は天龍選手との革命で充実していたものの、肉体的には限界を向かえていたと言います。

「毎日が"今日頑張ろう!"で、明日のことを考えてないでやってきた一年だったね。セーブできないから、いつまで持つかわからん(苦笑)。でも10年目にして"俺はプロレスをやっている"と実感させてくれた天龍に感謝している。これでタイガー(三沢光晴)が来てくれたら、安心して退けるんだけど…」

出典スポーツアルバムNO52 天龍源一郎 引退記念特別号 上巻(ベースボール・マガジン社発行)

コンビ結成から1年5ヶ月、二人の別れは突然でした。
原選手が何の説明の受けなかった天龍選手は当然、困惑します。

そして、報道陣に囲まれたときにこのようなコメントを残しました。

「それを俺にコメントを取りに来るの?じゃあ、てめぇの女房が浮気してるからって、どう答えればいいの?それと一緒だよ。そんな質問してくれるなよ。何で俺が答えられるの?何も話すことはないよ…」

天龍選手の目は真っ赤でした。
余りにも天龍選手のこの事態に至った悲しさと悔しさが伝わるコメントでした。

「阿修羅の力になってやれなかった…」

天龍選手の後悔は、「天龍同盟」を継続させるためのエネルギーとなっていました。

そんな天龍選手も徐々にモチベーションが低下し、1990年4月に全日本プロレスを離脱し、新団体SWSに移籍することになりました。
天龍選手はなんと、全日本を辞める際に馬場社長に「勝手にやめていく俺を許してください」と言って土下座をして謝罪しました。
馬場社長は「お前がそこまで気持ちを決めているのならしょうがない」と天龍選手の離脱を受け入れました。

天龍選手が新団体SWSに移籍すると、全日本プロレスを守るために肩入れするターザン山本編集長時代の週刊プロレスによって、SWSは激しいバッシングを受けました。「金権プロレス」、「天龍は金で動いた」というネガティブ・キャンペーンが展開されました。

天龍選手の心は荒んでいました。

当時の状況について、元週刊ゴング編集長で"龍魂伝承記者"と呼ばれる小佐野景浩氏はこのように振り返っている。

「週刊プロレスが天龍バッシングに走ったのは、私が天龍の全日本離脱を偶然にもスクープしたからだと思っている。『ゴングと天龍はできている』と判断されたのではないだろうか。そうなれば反対サイド…全日本寄りの記事を展開していくのは雑誌戦争のセオリーだ」

「一番の争点だったのが『金で動いたのか?』だが、これはまったく無かったとは言えないだろう。天龍自身も『多分、未だかつて俺以上の待遇を受けたプロレスラーはいない』と言っている。プロにとってギャラこそが評価だし、全日本離脱時の頃の天龍の状況を考えれば…八方塞がりの中で、それ相当のギャラを提示され『新団体をやるのには、あなたの力が必要です』と誘われれば、心が動くのは当然」

「とにかく、天龍の心はズタズタになってしまった。『俺は金で動いたんじゃねぇ!』と夜の銀座に繰り出し、一晩で200万円を使ってしまったこともあった。後に全日本からSWSに移籍してきたレスラーに『お前ら、あぶく銭なんか貯めようなんてセコイこと考えるなよ!』と言っていたものだ」

出典天龍同盟十五年闘争 NIPPON SPORTS MOOK65 小佐野景浩 著(日本スポーツ出版社発行)

天龍選手自身も後年、SWSでのバッシングに遭う日々をこのように語っています。

「SWSのおかげで、自分がトップとしての優越感とか、他のスポーツに対して自分のポジションを上げてくれたと思ってるんですよ。例えば一流ホテルで泊まって、いい生活をさせてもらって、いい待遇を与えてくれたりで、SWSはトップにいたレスラーの気持ちをずっとケアしてくれましたよ」

「俺はファンの人達に何もしたことないのに、ファンから勝手に『騙した!』とか『嘘つき!』だとか『天龍は最低だ』とか言われて、『お前、俺のおかげで頑張れたこともあったんじゃないの?』って言いたかったですよ。でもそんなことは何もなくて、『天龍に騙された』とか『嘘つかれた』っていうバッシングしかありませんでしたからね」

出典吉田豪の喋る!!道場破り プロレスラーガチンコインタビュー集 吉田豪 著 (白夜書房)

そんな八方塞がりの状態の天龍選手。またSWSに移籍しえきた選手達との軋轢も発生し、窮地に立たされます。

そこで天龍選手の脳裏に浮かんだのがあのベストパートナー阿修羅・原選手でした。

「ある時、天龍は『SWSの旗揚げ戦は阿修羅・原の引退試合だ。俺はこれだけはやるからよ』と言った。(中略)解雇以来姿をくらましている原が反応するのを期待して、週刊ゴングの表紙で『SWS旗揚げ戦は阿修羅・原引退試合』と謳った。だが残念ながら何も反応がなかった。『北海道の琴似町にいるらしい』という噂を聞きつけ、札幌在住の知人に協力をお願いして現地まで行ってもらったところ、原は寿司屋の2階で寝泊まりしていたことが判明したが、店の店主は否定するばかり。

「それから二か月経った午前1時過ぎ、原から電話がかかってきた。『ゴングは読んだよ。本を握り締めて泣いたよ。でも、迷惑をかけたくないから…自分で解決して、その時点で自分の体と気持ちが持続していたら"源ちゃん、頼む。問題はクリアしたぜ"って。自分から出ていきたいと思っているんだ』 原の復帰はそれから1年の時間が要した」

出典スポーツアルバムNO52 天龍源一郎 引退記念特別号 上巻(ベースボール・マガジン社発行)

1991年6月にSWS社長となった天龍選手は会社内部の反対を押し切って、7月に原選手が潜伏している北海道に飛びました。

原選手に復帰要請するために…。

(天龍)「探したぜ、阿修羅…。もう一度やってくれるよな」
(原) 「源ちゃん…。お情けをかけてくれているのか?だったら俺のことはいいんだ…。同情だったら」
(天龍)「そう思うか?」

(原)   「わかった…。俺はやるッ。源ちゃんのためなら!」

出典劇画プロレス地獄変 原田九仁信 著(宝島社)

こうしてSWSでプロレス復帰を果たした原選手。

本意ではない形でプロレス界からフェードアウトした原選手は以前のような全力ファイトを繰り広げます。
髪型は長髪から坊主姿に変わりましたが、原選手のプロレスに「金権プロレス」という偏見を少しずつ解消されていきました。

プロレス団体が信頼や信用を得るのはやはり試合内容につきる。それは時代が変わっても変わることはありません。

「教養としてのプロレス」の著者のお笑い芸人・プチ鹿島さんはこの頃のSWSについてこのように評しています。

「『週刊プロレスに酷評されているSWS』というイメージが抜けきらず、私はいちばん安い席のチケットを買った。(中略)しかし!実際に見たSWSは本当に面白かった。天龍とホーガンも名勝負だったが、興行の途中からSWSのレスラーの武骨で激しい戦いを見て認識をあらためた。なんたってドームの二階席までゴツゴツしたぶつかり合いの生音がハッキリ聞こえてきたのだから。阿修羅原がキング・ハクらと『ゴツゴツしていた』のだ。なんだ、SWSに移籍してもすごいプロレスをやっているじゃないか。私は「週刊プロレス」に騙されたと気づいた。利益がからむと専門誌でも平気で「うそ」をつくことを実体験したのだ」

出典 http://battle.report

阿修羅原が教えてくれたマスコミの「うそ」。[プチ鹿島コラム]【バトル大衆】

SWSはその後,1992年に崩壊し、天龍選手と原選手は新団体WARを旗揚げします。
これが「レスラー人生最後の死に場所」と定めて…。

原選手の肉体が遂に悲鳴を上げます。
すでに40代中盤を迎えた原選手は胸骨関節亜脱臼、右第三、四、五肋骨骨折、右肩じん帯損傷、座骨神経障害、喉の負傷による喘息…。まさしく満身創痍。

「もうプロレスはできない…」

1994年10月29日に原選手は後楽園ホール大会で引退試合を行いました。
壮行バトルロイヤルで最後の二人となったのはやはり天龍選手と原選手でした。

天龍選手は骨と骨がぶつかるラリアット、パワーボム、バックドロップをこれでもかと連発。それでも原選手はゾンビのように立ち上がります。

余りにも壮絶な光景に海野宏之(レッドシューズ海野)レフェリーが涙ながらに試合を止めようとしますが、原選手は聞き入れません。原選手は願っていました。

「真っ白な灰になりたい…」

最後は天龍選手の渾身のパワーボムが決まり、試合は終わりました。

試合後、原選手はこうつぶやいたと言います。

「もういいや…満腹だよ」

天龍選手は原選手をきちんとした形でプロレスを全うさせ、原選手は最後に真っ白な灰になりことができました。

パートナーの引退の花道を作る、そのドラマチックな展開…。

「龍原砲」の革命とは多くの人々の心を打つドラマだったのかもしれません。

革命の魂は死なず

その後、天龍選手はミスター・プロレスとして日本プロレス界の生きる伝説となりました。そんな彼が紆余曲折の上で最後の死に場所としたのが2010年に天龍選手の愛娘である嶋田紋奈さんが代表となって旗揚げした「天龍プロジェクト」でした。

実はこの「天龍プロジェクト」が設立した際、密かに復帰に向けてトレーニングに励んでいたのが引退して故郷の長崎で隠居生活をしていた原選手でした。

正式にオファーがあった訳ではありません。
しかし、もしオファーがあったときに恥ずかしくないコンディションを維持していなければいけないと考えて密かにトレーニングに励んでいたのかもしれません。

「最後の最後まで、天龍源一郎を支えてたい…」

これが原選手の本音だったのではないでしょうか。
しかし、その計画は叶いませんでした。
原選手の体調が悪化したのです。
心筋梗塞で倒れ、入院生活を送ることとなりました。
そして、2015年4月28日、原選手は肺炎のためこの世を去りました。
享年68歳でした。

一方、2015年2月9日に天龍選手は引退会見を行いました。
原選手が亡くなる二か月前のことでした。

「ここまでプロレスラーを続けてこられたのはうちの家族の支えがあった。一番支えてくれた家内の病気があったので、今、身を引いて今度は俺が支えていく番だと思った。そろそろプロレス人気も盛り上がってきて、潮時かなと思った」

「腹いっぱいの楽しいプロレス人生でした。プロレスラーになって良かった」

出典スポーツニッポン

原選手の通夜が4月29日の故郷の長崎県諫早市にてしめやかに行われました。

天龍選手は弔問には訪れなかったが、祭壇最上部に二人の件花があった。

「天龍同盟 天龍源一郎」
「龍原砲 天龍源一郎」

原選手が亡くなった当日、別件の記者会見に出席していた天龍選手は原選手の逝去について触れることはありませんでした。

思えば天龍選手は恩師や盟友の死に遭遇すると、敢えて無言に徹することで喪に服すのです。
それが天龍選手の美学であり、不器用な生き方なのかもしれません。
彼の生き方を最も理解していたはやはり原選手だったのではないでしょうか。

天龍選手は東京スポーツ紙上で自身の引退試合の対戦相手として新日本プロレスのオカダ・カズチカ選手を指名しています。

そのインタビューの際、天龍選手は心の中にある本音を吐露しました。

「阿修羅原と始めたレボリューションを背負うつもりでリングに上がるよ」

出典 http://headlines.yahoo.co.jp

2015年11月15日、両国国技館大会。

天龍源一郎選手は亡き最高のパートナー阿修羅・原選手と姿や形が見なえい"龍原砲"を結成し最後のリングに立ちます。

プロレスに全てを捧げた二人の男達の生き様を是非、心で感じてください。
「龍原砲」による魂のプロレス革命に終わりはないのです。
二人の革命は、時代を越えて輪廻していくのですから…。

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