私の夫が初めて教会へ行こうと思い立ったのは24歳の時だった。
三浦綾子さんの本を読み、「教会へ行ってみよう。」と書かれていたので、行ってみる気になったらしい。

それ以前にも、キリスト教とは全く関係のない、ごく普通の家庭に育った夫が高校生の時、母親に「読書感想文を書かないといけないんだけど、なんかいい本ない?」と聞いた際、母親が薦めたのがクリスチャン作家である三浦綾子さんの本だったらしい。

夫はその後クリスチャンとなり、間もなく聖書を学ぶ神学校へ行き、やがて牧師となった。

三浦綾子さんの過去

三浦綾子さんは、戦時中、学校の教師として働き、当時の価値観そのままに受け止め、「お国のために」という精神で生徒を指導し、それが正しいことと信じて疑わなかった。

しかし終戦を迎えて天皇は神ではなくなり、常識や正義、価値観がひっくり返され、「今まで自分が信じてきたものは、いったい何だったのだろうか?」と悩み、教師を辞めてしまう。

その後、すっかり自暴自棄のような生活を送るようになり、二人の男性と同時に婚約をしてしまう。

三浦綾子さんは、当時、そのことについて、「そんな不誠実な自分を格別、責めも咎めもしなかった。罪深いなどとも、それほど思わなかった。」と回顧している。

「もし、これが逆であったらどうであろう。ある男が、わたしと婚約し、同時に他の女と婚約していたとしたら・・・わたしは烈火のごとく怒っていたにちがいない。」

そして後になってから「罪を罪と思わないことが、最大の罪なのだ」と気づいたのである。

「二つの尺度」

上記は三浦綾子さんの著書「光あるうちに」より、「罪とは何か」という文章に書かれた内容だ。その中で、こんな例話が掲載されていた。

わたしの知人は、車で子どもをひいた。彼は、急に飛び出してきた方が悪い。子どもをよくしつけていなかった親が悪い、と言っていた。

ところが、その後、自分の子どもが車にひかれて死んだ。彼は半狂乱になり、「こんな小さな子供をひき殺すなんて」と運転手に食ってかかり殴りつけた。

「金をどれだけ積んでも、子どもは返らん。金など要らん。子どもを返せ」とわめき、手がつけられなかった。

自分が、子どもをひいた時は、相手の親が悪く、自分の子どもがひかれた時は、ひいた運転手が悪い。人々は、陰で頭をひねった。

だが、わたしは、この人を笑うことができない。これは、わたしたち人間の赤裸々な姿だと思う。わたしたちは、自分の罪がわからないということでは、この人と全く同じだと思う。・・・

出典「光あるうちに」三浦綾子

子どもが花瓶を割ったときには、「不注意だからよ。」「そそっかしいからよ。」と言って、自分は一切、お皿も花瓶も割ったことがなく、今後も一生割ることはないような顔つきで叱り、自分が割ったときは、ちょっと舌を出した程度で許してしまう。

これらは「私たちの心には、二つの尺度があって、自分の過失を咎める尺度と、自分以外の人の過失を咎める尺度とは、全く違う」からだと三浦綾子さんは書いている。

「罪とは何か」

教会は「あなたは罪人だ」とか、「罪」について語るから気分が悪いと言われることがある。

多くの人は「自分は罪人だ」などと思ってはいないし、「私は警察に捕まるような悪いことは一切していません。」と言うだろう。それは、「法律的に警察に捕まるような犯罪を犯してはいない。」という意味である。

しかし、聖書が言うところの「罪」とは、「的外れ」という意味があり、その本質は「自己中心」「自分勝手」「自分は悪くない、という思い」を指す。

「罪」(sin)という英語は、南(south)と北(north)の真ん中に「i」(アイ...自分)がいる状態、つまり「自己中心」を表しているという。

出典牧師の妻

教会で、はじめの段階で「罪」について語られるのは、この「罪」を正しく認識していなければ、「赦し」や「救い」についても正しく認識できないからだ。

人は皆、自分に都合の良い尺度を持ち、めいめいに自分の経験や基準が一番正しくて確かだと信じて生きている。

それは、自分が神(絶対的な基準)のようになっていることであり、それが聖書で言うところの「罪」なのだ。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(イエス・キリスト)に負わせた。」

出典有名な聖書の言葉 旧約聖書イザヤ書53章6節

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