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世界を驚かせた任天堂・岩田聡氏の早過ぎる死。アメリカではSNSなどに驚くほど大量の追悼メッセージが投稿されているそうです。

ゲーム人生を駆け抜けた天才の功績を、ニューヨーク在住のりばてぃさんが『メルマガ「ニューヨークの遊び方」』で振り返っています。

稀代の天才、岩田聡さん逝く…

アメリカでは、7月11日、胆管腫瘍のため急逝された任天堂の岩田聡社長への悲しみの声や、感謝のお礼ほか様々な追悼メッセージが、インターネット上に驚くほど大量に投稿されている。

例えば、

「子どもの頃のボクに、イマジネーションクリエイティビティの素晴らしさを教えてくれたのはNintendoだった」

「エンターテインメントとインスピレーションの年月をありがとう」

「もし岩田さんがいなかったら今の自分は存在するはずもない

のようなメッセージだ。

こうしたメッセージが、ツイッター、インスタグラム、ピンタレスト、その他様々なソーシャルメディア上に、#satoruiwata、#ThankYouIwataなどのハッシュタグ付で続々と投じられ、こちらのメディアで、感動的なメッセージがまるで洪水のようだとニュースにするほど。

その一部は、すでにブログ上でお伝えした通りだ。

ただ今、世界中で任天堂岩田社長への感動的な追悼投稿が大量発生中 #satoruiwata #ThankYouIwata

岩田さんは、創業者一族以外から初めて抜擢された任天堂の4代目の社長さんで、世界中のゲーム・ファンや業界関係者など、社外の方々との交流に特に力を入れていた。

例えば、自ら登場して社の製品を「直接!」解説する広報動画「ニンテンドーダイレクト」(Nintendo Direct)や、開発スタッフへのインタビューをこれまた自ら行う「社長が訊く」(Iwata Asks)シリーズなど、社の顔として意欲的に活動する名物社長としてファンから人気を集めていた。

そんなわけで、海外にいる日本人は、外国人のお友達とお話している時に、岩田さんの話題になったり、急にあんな天才が亡くなって日本ではどういう反応になってるか?などと何か質問されるかもしれない。

岩田さんのことあまり知らない…、ゲームもやらないし…、という方もいらっしゃると思うが、それでは、質問してきたお友達などに

「日本人のくせに知らないの?」。

となってしまうかもしれない。せっかくの機会なので、ざっと岩田さんのご経歴について少し振り返っておこう。

札幌に天才高校生ありと言われたきっかけは?

岩田聡(いわた さとる)さんは、1959年12月6日生まれ。北海道札幌市出身。

岩田さんのお父さんの岩田弘志さんは、1979年(岩田社長がまだ20歳の頃)から1995年まで4期に渡って室蘭市長を務め、その後、北海道庁商工観光部部長なども歴任され、勲三等瑞宝章も受賞された優秀な政治家だった。

岩田さんのお父さんが市長になった当時の室蘭市は、60億円もの不良債務を抱え、財政再建団体へ転落寸前だったが、行財政改革を実施し、見事、財政健全化に成功

鉄工業市として室蘭を有名にしたのも、お父さんの功績と言われている。

なお、お父さんは、2008年、83歳で亡くなられた。

そんなお父さんを持つ岩田さんは、1976年、札幌南高等学校に通っていた高校生時代、ヒューレット・パッカード社の電子計算機「HP-65」の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と親の援助でこれを購入。

独学でマスターしたプログラミングで開発したゲームをヒューレット・パッカード社に送ったところ、あまりの完成度から

「札幌にとんでもない高校生がいる」

と評判になり、機材などをプレゼントして貰ったと言う。

高校卒業後は東京工業大学に進学。工学部情報工学科専攻。

大学1年時の1979年、入学祝いに加えローンを組んでマイコン(1977年にコモドール社が発売した世界初のホーム/パーソナルコンピュータ「PET 2001」、当時はパソコンではなくマイコンと呼んでいた)を購入。

この「PET 2001」で、後のプログラマ人生の下地となる本格的なプログラミングを学びはじめる。

大学在学中、西武百貨店池袋本店のマイコンコーナーの常連客だった岩田さんは、そのマイコンコーナーの店員らが、1980年に立ち上げた

「株式会社HAL研究所」(通称ハル研)

にアルバイトとして参加。

社名の「HAL」は、当時最大のコンピュータ企業だった「IBM」のアルファベットを1文字ずつ前にずらしたもので、

「IBMの一歩先を行く」

という意味から名付けられたもの。

ハル研でプログラミングに熱中した岩田さんは、大学卒業後、そのままプログラマとしてハル研に就職

この頃のハル研は、社員たった5名の零細ベンチャー企業で、岩田さんはプログラミングの他、デザイン、販売、スタジオの掃除まで何でもやっていたという。

また、東工大まで出たのに、なんだかよく分からない零細ベンチャー企業に就職した息子さんに対して、当時、室蘭市長だった岩田さんのお父さんは猛烈に反対し、入社から半年はまったく口をきかなかったという。

岩田氏と任天堂の出会いは?

ところで、岩田さんが大学に入学し、ハル研に就職するまでの間、昭和58年(1983年)7月15日に、任天堂から、あのファミリー・コンピューターの初号機が発売されている。

岩田さんは、ファミコン史の初期段階から、任天堂に顔を出し、ファミコン向けゲームのプログラムをハル研で担当することになった。

しかも、このとき、岩田さんが作ったのは、「ピンボール」、「ゴルフ」、「バルーンファイト」など、今でも語り継がれる初期ファミコンの超名作ゲームばかり。

かなり技術的な話になるが、当時の日本には、ファミコンに採用された6502系CPUでのアセンブラに精通したプログラマーが少なく、岩田さんが慣れ親しんだPETが、同じ6502系CPUだったことも大きなアドバンテージになっていたとのこと。

中でも、特に「バルーンファイト」は、ゲームセンターにあるアーケード版よりも非常に滑らかな動きを実現し、アーケード版のプログラマが感心して岩田さんの元へレクチャーを求めて訪れたり、それが「スーパーマリオブラザーズ」の水中ステージに活かされた、等というエピソードも残っている。

要するに、岩田さんは、プロのプログラマになったばかりの一番最初の段階から、天才的な才能を発揮していたのだ。

その後、ハル研と任天堂の共同事業は継続。

1992年、ハル研の経営が、多額の負債から行き詰ると、当時の任天堂社長だった山内溥さんは、岩田さんをハル研の社長に抜擢することを条件に、経営建て直しを支援した。

この社長抜擢の前まで、岩田さんは、経営とは直接関係のない開発部長(プログラム開発の最終責任者)だったが、その後、山内さんの予想通り、社長として高い経営手腕を発揮(15億円の負債をわずか6年で完済)。

自ら率先してPRやプロモーション活動を行っていたが、社長になってからも、時々プログラミングにも参加し、「星のカービィ」や「大乱闘スマッシュブラザーズ」などのヒット作シリーズを送り出し、経営再建を成功させた。

「大乱闘スマッシュブラザーズ」の第1作のプレゼンテーション用プロトタイプを作り上げたのも岩田さんだ。

さらに、当時の岩田さんの天才プログラマぶりを伝える数々の逸話の中でも、特に有名なものに、開発中止寸前の状態に陥っていた「MOTHER2」(1994年発売)に参加した際、スタッフ達に対し、

「このまま、今あるものを使って完成させるなら2年かかります。しかし、私に1から作らせてくれるというのなら、1年で完成させます。どちらにします?」

と提案し、全てのプログラムを組み直し、言葉通り1年で完成させた、というものもある。

このときの縁から、「MOTHER」シリーズのディレクターだった糸井重里さんとはその後長年に渡って親交を深めることになる。

1998年、「ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げにも参加し、「電脳部長」という肩書きも。

糸井さんによると、

「糸井重里事務所内に置かれている、パソコンの設置・設定。電源コードやLANケーブルの配線に至るまで全部、電脳部長がやってくれた」

という。

なぜ直感的に操作できるゲーム機の開発に乗り出したのか?

2000年、ハル研での経営手腕を、当時の任天堂社長だった山内さんに高く評価され、任天堂に入社

取締役経営企画室長に就任。

2002年、山内さんから後継者として指名を受け、入社後わずか2年、42歳という異例の若さで、任天堂の4代目社長に就任。

このとき、山内さんに呼ばれて、マンツーマンで3時間ほど経営哲学を説かれたという。

この時まで任天堂は、100年以上ずっと山内家の同族経営体制が続いていた。

社長の血縁でも、生え抜きでもなく、40代前半という、異例のキャリアと若さでの社長就任に驚く人々もいたが、

当時の任天堂はプレイステーション2の大ヒットゲームキューブの立ち上げ失敗によって、ゲーム業界の中心的立場をすっかりソニーに譲ってしまっていたため、あまり話題にならなかったという。

任天堂の社長に就任した岩田さんは、当時世界のゲーム人口が微減傾向にあったことも踏まえ、

「ヘビーユーザーにターゲットを絞っていては、いずれ市場が死んでいくのでは」

と考えた(これはHAL研究所時代からずっと危惧していたという)。

そしてその対応策として、

「それまでゲームに触れたことのない、ゲームに関心が薄い大人や女性層を開拓し、新たに取り込む」

ために、直感的に操作できる新たなゲーム機の開発を進めた。

そして、2004年に発売したのが、タッチパネルを含めた2画面という斬新なコンセプトの携帯ゲーム機、ニンテンドーDSだ。

これがゲーム史上に残る大ヒットを記録。

対応ソフトも、これまでなかった「間口が広くて奥が深い」新ジャンルを次々に開拓。

「脳を鍛える大人のDSトレーニング」
「おいでよ どうぶつの森」
「ニンテンドッグス」

等などミリオンセラーを続々と世に出し、グローバルにも普及させた。

最終的に、ニンテンドーDSは、全世界で1億5000万台以上を売り上げ、任天堂を再びゲーム市場の中心へと返り咲かせることになる。

さらに、

「直感的で新鮮な操作」

というコンセプトは、携帯ゲーム機だけでなく、据え置きハードにも反映されることになる。

2006年に発売されたWiiは、リモコン型コントローラという新たな操作体系を取り入れ、やはり大ヒット。

こちらも世界で累計1億台を超える売り上げを記録。

なんと、社長就任の2002年から2008年までの7年間で、任天堂の売上を約3倍に増やし、営業利益は、1,191億円から4,872億円へと約4倍にと急拡大させたのだ。

すごい経営手腕。

2011年にはニンテンドー3DS、2012年にはWiiUを、大ヒットしたDS、Wiiの後継機種としてそれぞれ発売。

しかし、その頃から世の中に急速に普及してきたスマートフォン(iPhoneの発売開始は2007年6月)により、いわゆるライトユーザーが、スマホゲームに移行していったことなどから、

3DSはともかくとして、WiiUは想定した販売台数を下回るようになり、任天堂は、再度、戦略の転換を迫られ、紆余曲折いろいろなことが起こっていた。

そのような流れもあって、2015年(つまり今年)3月には、携帯電話向けゲームの大手であるDeNAとの資本提携を発表。

そして、2015年7月11日、胆管腫瘍により、岩田さんは京都市内の病院で逝去された。

享年55。

任天堂から発表があったのは、13日だった。

なお、岩田さんが亡くなられた後、任天堂の代表取締役社長は空席で、まだ後任は未定。当面は、代表取締役の竹田玄洋と宮本茂が社長業務を代行すると伝えられている。

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