記事提供:まだ東京で消耗してるの?

東田直樹さんがすばらしいことを仰っています。

「仲良くしようと思わないことです。」

ビッグイシュー日本版260号で、重度自閉症の作家、東田直樹さんに26の質問を投げかけています。こちらの質問に対する回答が本当にすばらしかったので、全力でご共有。

Q:考えることや、好きな物、信じるものはみんなそれぞれに違います。考え方の違う世界の人が仲良く暮らすにはどうしたらいいと思いますか?

A:仲良くしようと思わないことです。お互いの文化や存在を認め合い、尊敬することができれば、それでいいのではないでしょうか。

仲良くしようと考えるから、自分のことを理解してもらいたいと期待するし、相手のことを必要以上に知ろうとします。

もともと、宗教や生活様式が違うのですから、そうなると意見の押し付け合いになります。あるがままに共存することが重要です。

出典 http://bigissue-online.jp

そう!仲良くならなくていいんですよ。これは本当に。

日本って、なんでも「仲良く」させようとさせますよね。「仲良し教」とでも言いましょうか。。

元受刑者でブロガーのイノシシさんとも話したんですが、たとえば「犯罪被害者」と「犯罪加害者」を「和解」させようとしたり。

いや、その関係性、和解なんてしなくていいんじゃないかな…。和解しようと努力している暇があるなら、お互い自分の人生を進んだ方がいいんじゃないかな、と思ってしまいます。お互いがそうしたいなら別にいいんですが。

身近なところでは、子ども同士の喧嘩を和解させようとするアレも嫌いです。いじめっ子といじめられっ子が和解できるわけないじゃないですか。近づけるのではなく、むしろ距離を置くことの方が重要だと思います。

ぼくは割と敵を作るタイプ、人を嫌いになるタイプでして、しばしば「イケダさんはあの人のことが嫌いみたいだけど、あの人は悪い人じゃないから、ぜひとも仲良くしてほしい」という見事におせっかいな要望を、第三者からもらうことがあります。

こういうの、本当に余計なお世話なんですよねぇ。別に仲良くなる必要なんて、お互いにとってないですし、ぼくは仲良くなりたくもないです。そんな暇があるならブログ書きます。

厳しくいえば、「仲良くしてほしい」という感情は、そう願う人の純然たるエゴであり、コミュニティの閉鎖性・排除意識の表れだと思います。

「仲良くしてほしい」と願うことは、一見すると善い行いに見えるのが問題なんですよね。「お願いだから仲良くして!」と叫ぶ人は、なんか素敵に見えるじゃないですか。でも、そう叫ぶ彼/彼女が存在することで、コミュニティはさらに居心地が悪いものになっていくのです。「仲良くしない」のが不正義になってしまいますから。

東田さんが指摘するように「仲良くしようと考えるから、自分のことを理解してもらいたいと期待するし、相手のことを必要以上に知ろうと」するんです。「そうなると意見の押し付け合いになります。あるがままに共存することが重要です」。一言一句、完全に同意です。

加えて指摘したいのは、上でも書いている通り、「仲良し教」がはびこると、コミュニティが閉鎖的・排他的になっていくんですよ。わかりやすくいえば、ぼくみたいに「いや、ぜんぜん仲良くなんてしたくないんですが…」という態度を貫いてしまう人間は、「仲良し教」では許されないわけですね。

「じゃあ、クラスで班を作ってください!」という呼びかけがあると、ぼくのようなコミュ障は隅っこに余るんです。そんでもって、そういう態度が問題視されてしまう。
「あの、先生、イケダ君が孤立しちゃってます」「…あら、それは困ったわね…。仲良くしてやってくれないかしら?」

こうしてぼくは否定され、自分を曲げなければ、この社会に属することができなくなるのです。

「AさんとBさんには、仲良くしてもらいたい」とあなたが願っているのなら、それはエゴイスティックで、排他的な態度だと知るべきです。一見すると美しいのが困りものですが、基本的にろくなものじゃないと思います。その上で、なお「AさんとBさんには、仲良くしてもらいたい」と思うのなら、そう行動してみてください。多分、不毛な結果に終わりますから。

異論反論歓迎です。あなたの意見をどうぞ。


東田さんの言葉はすばらしいので、まだ本を読んだことがない方はぜひ。救いになる方も多いはず。

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス